第三話 居酒屋『だいご』 若葉の初任給 ⑦
◇◇
日曜日 午後六時――
川越の中心街から少しだけ離れた場所にあるイタリアンレストラン『ウナ・ファミーリャ』。
テーブル席が四席だけのこじんまりとしたお店で、イタリアの一流レストランで料理修行した経験を持つ旦那様とその奥様の二人で切り盛りしているらしい。
「らしい」としたのは、実はこの店で食事をするのは初めてだからで、もはやお得意となった『音声検索』を駆使してこの店を見つけたのである。
剣道クラブが終わり、急いで家に帰った私は、先週ママに買ってもらった洋服に袖を通す。
着なれないハイセンスな服装に、ぎこちなさはぬぐえないが、普段はめったに行かないようなレストランへ行くんだから、それもがまんだ。
ちなみに今日は午後七時から予約を入れており、ママたちとは六時五〇分にお店の前で待ち合わせしている。
誰もいないと知りつつも家を出る時に「いってきます!」と大きな声を出して玄関を出る。
一歩家から外に出ると、今日これからのことが、ふと頭をよぎる。
まだ写真だけしか見てないけど、お店はヨーロッパの田舎町に迷い込んだかのようなおしゃれな外観で、きっと心があたたまる素敵な時間を過ごせそうだ。
自然と胸が高鳴ってくる。
……だけど、心の中がわずかに濁っているのは、もちろんパパのこと。
「はぁ……。来てくれるといいんだけど……」
大きなため息をつきながら、オレンジ色に染まり始めた空にのぼった一番星をちらりと見て、先を急いだのだった。
◇◇
午後六時半――
いつも通りに居酒屋『だいご』は開店の時刻を迎えた。
週末は仕事帰りのサラリーマンも少ない。開店とともに入ってくる客は誰一人としていなかった。
カウンターに五席。そして四人用のテーブル席は二つ。
これが一人でやりくりするには限界の大きさだ。
とは言え、合計一三席が全て客で埋まったのは、たった一度しかない。
その一度とは……。
若葉が産声をあげた翌日の夜のことだ。
商店街のみんながお祝いに駆けつけてくれて、店内は人で溢れ返ったのを、今でも鮮明に覚えている。
「あのくしゃくしゃの赤ん坊が、家族を食事に招待するまで大きくなったなんてよ……未だに信じられねえよ」
がらんとした店内で静かにまぶたを閉じる大吾。
すると耳の奥に響いてくる我が子のはしゃぐ声。
――パパ! パパ! ねえ、パァパ!!
――パパ! パパ! 見て! 見て!
開店前に母親の紅葉に連れられてやってきては大暴れしていた若葉。
あの頃が、つい昨日のことのようだ。
笑顔が見たくて、毎日必死に働いてきた。
笑顔を守るために、愚痴一つこぼさずに頑張ってきた。
それなのに……。
その笑顔を突き放してしまった……。
誘いを冷たく断られた娘の顔が、まるで囚人のひたいに焼きつけられた刻印のように、頭を離れない。
これではまるで、娘を遠ざけるために働いているようなものじゃないか……。
いや、娘だけじゃない。息子もそして妻に対しても同じだ。
家族のために一心不乱にやってきたことが、結果として家族との距離を開いてしまうなんて、なんという皮肉であろうか……。
自然と顔がうつむいていく。
「どうしたらいいなんて、頭の悪い俺には分からねえよ。とにかく働かなきゃ食わせてやれねえんだ。働くしかねえだろ」
だれ宛にでもなく不機嫌そうにつぶやいたその時だった……。
ガチャッ。
と、分厚いドアが開かれたのである。
大吾はぱっと顔を上げて明るい声をあげた。
「いらっしゃい!」
ぞろぞろと店に入ってきたのは複数の男たち。一〇人以上はいると思われる。
ただ、みんな知った顔ばかりの、つまり商店街の人々だ。
そして、なぜか全員エプロンをしているではないか……。
「近くで料理教室でもあったのか? おっさんばっかの料理教室とあっちゃ、先生役も大変だねぇ」
彼らが何をしにきたかは分からないが、少なくとも客としてやって来た訳ではなさそうなのは、入り口付近で突っ立ったままでいる様子を見れば明らかだ。
大吾は精一杯の皮肉をこめて声をかけたのだが、誰一人として答える者はいなかった。
すると人々の間を縫うようにして前に出てきたのは制服を着た二人の女子高生だった。
たしか「マユ」と「たまちゃん」と呼ばれていた若葉の友達だ。
彼女たちは真剣な面持ちで、一つの願いを口にした。
「大吾おじさん! お願いがあります!!」
「今日、お店のことはわたしたちに任せてくれませんかぁ」
大吾の目が大きく見開かれる。
「お前たちもしかして……」
彼女たちの奥で腕を組んで笑みを向けてくる人々へ視線を向けた。
「だいちゃん。話はこの二人から聞いたよ。なんだよ、水くさいな。そんなことなら俺たちに協力させてくれよ」
先頭に立つ春川理容店の吉太郎が話しかけると、口ぐちに声が上がってきた。
「大吾さん! ここは俺たちに任せて!」
「だいちゃん!! 若葉ちゃんが待ってるよ!」
いまだに何が起こったのか正しく理解できずに茫然と立ちつくしている大吾。
そんな彼に差し出されたのはヘルメットだった――
「どうせ店の場所知らねえんだろ。俺が連れていってやるから、早くこれをかぶりな」
「しげ……」
魚屋の主人のしげさんがニヤリと口角を上げて彼を見つめている。
ここまでされてもなお決心がつかないのは、彼が『守らねばならぬもの』にしがみついていたからに他ならない。
それは居酒屋『だいご』だ。
つまり、家族のために懸命に働いてきたつもりが、いつの間にかこの店を守ることに必死になっていたことに、ようやく気付いたのだ。
もし、一日でも休んでしまったら、それをきっかけに店がつぶれてしまうのではないか……。
さびれゆく商店街。
年々減っていくお客。
厳しい現実を目の当たりにし続けてきたからこそ、彼は本当に守らねばならぬものを見失っていた。
「俺は……」
と、つぶやいた瞬間であった――
――パァパ!! だいしゅきっ!
と、足元から『声』が聞こえてきたのだ……。
ふと下に視線を移す。
すると、足元にくっついた若葉が屈託のない笑顔でこちらを見上げているではないか……。
「若葉……」
大吾の心の中で、もう一人の自分が問いかけてくる。
――お前はこの子がこの世に生まれてきた時に、何を誓った?
――お前はこの子のために何をしてあげた?
――お前はこの子の『大好き』に応えられているのか?
そして……。
――お前は何のために生きているんだ!?
「……そんなの考えるまでもねえよ……。若葉の……吾朗と紅葉のために生きてるに決まってるだろうがよ……」
ガシッ……。
ついに決心を固めた大吾は、しげさんから差し出されたヘルメットを手にとると、素早く頭にかぶせた。
「おおおっ!!」
人々の歓声が店内の空気を震わせる。
大吾はぐっと顔を上げると、大きな声を響かせた。
「やいっ! てめえら!! 俺がいない間にお客に粗相でもしてみろ! ぜってえに許さねえからな!!」
「安心しろ! 俺たち全員が店を手伝いにきてしまったから、客なんて誰もこねえよ!」
と、『八百三』の主人である貞雄が返すと、どっと場がわく。
「うるせえっ! てめえらが客の一人や二人連れてこいってんだ!」
「おいっ! もう時間がない。大吾いくぞ!」
最後はしげさんに引っ張られるようにしながら店の外へ出ていった大吾は、大きなバイクの後ろにまたがった。
ブオオオン!!
しげさんは、派手な音を立ててエンジンをかけたかと思うと、あっという間に南の方へと消えていったのだった――
本日は「子供の日」ということで、もう1話アップいたします。
22時に更新いたしますので、是非お楽しみいただければと存じます。




