壹 岩永麻代という人
『朝になりました。起きてください。』
頭上から声が聞こえてくる。
『五時二十分です。起きてください。』
頭がぼんやりしている。まだ起きたくない。
「ちょっと待って、あと二十分だけ寝かせて」
『いけません。六時四十分に起床した場合、50%の確率で遅刻します。』
『脳活性化音声を再生します。』
コケコッコー、ワンワン、シャーシャー、チュンチュン、パオーンパオン、グルルル…
ありとあらゆる動物の声が聞こえる。あまりの騒々しさに身体が命の危険を感じたのか、目が覚めた。
「起きる、起きるから、音声を停止して」
『その手に持っている布団を離して、ベッドから1m以上離れてください』
「はいはい」
私はベッドから降りて大きく伸びをした。頭がスッキリしてきて、昨日用意したまだ見慣れない学校の制服が目に入る。
「よし、今日も頑張るぞ」
私は電車に乗っていた。電車通学になり、朝早く起きないといけなくなったのは大変だが、それなりに中学校生活を楽しんでいる。
私の通っている学校の最寄駅に到着した。
学校に向かって歩いていると、後ろから誰かが近づいて来る音が聞こえた。
「あさちゃん、おはよう」
振り向かなくてもわかる。辰哉だ。
「おはよう」と返そうとしたが、辰哉は私の横を走り抜けていった。
辰哉とは小学生の時に友達になったが、今では時々顔を合わせた時に挨拶をする程度の関係性だ。
私は中学校で新しい友達ができたし、辰哉も辰哉で新しい友達ができたみたいだから、今後話す機会はどんどん減っていくんだろう。
学校に着いた。私の教室は2階の端だ。
教室に入って窓際の自分の席に向かうと隣の席の人はすでに登校していた。
「おはよう尾崎さん」
尾崎さんは「おはよう」と返してくれた。
私がカバンを机の横にかけていると尾崎さんが話しかけてきた。
「岩永さんってもう入る部活決めました?」
「まだ特には決めていないんだけど、私、体を動かすのがあまり得意なほうではないから文化系の部活に入ろうかなとは考えてる」
「そうなんですか、私は文藝部に入ろうと思っていて」
「尾崎さん、よく休み時間に難しそうな本読んでるし、ドストエフスキーだっけ、きっと向いてるよ」
「それで岩永さんも良かったら一緒に、いや本当に迷惑じゃなかったらなので」
「いいよ」
「本当ですか!ありがとうございます」
「お礼なんていいよ、私、文化系の部活に入ろうかなとは言ったけど、将棋やチェスはルールがかろうじてわかるくらいだし、これといって入りたい部活もなかったから」
始業のチャイムが鳴った。一時間目は英語だ。
同時通訳の技術も発達しているのに、どうして学ばないといけないのだろうか。
英語科の教師があまりにも多くの宿題を出すのでついついそんなことを考えてしまう。
私だって小学生の頃は世界を股にかけるキャリアウーマンに憧れていた。しかし、現実が見えるようになればなるほど、その道は長く険しくなっていく。
だめだ、だめだ、こうして客観的に見てしまうのは私の悪い癖だ。
今という時間の積み重ねが未来に繋がるんだから、頑張らないと。
チャイムが六時間目の終わりを告げた。
授業中は長いと感じた時間も終わってしまえばあっという間だ。授業にもっと集中できたんじゃないかと後悔する。
明日はもっと良い人間になれるんじゃないかと期待する。
しかし、私はこの考えが無駄であることを知っている。明日、違う自分になることを決意して何度も目を瞑った。だが、その日の朝になると毎度、その決意は崩れ去る。
私は最初、人には大きなストーリーが必要だと思っていた。だから、中学生になったら何か変わると思っていた。しかし、現実は違った。
今の私は人が変わるのに必要なのは、意思の強さでもなく、大きなストーリーでも出来事でもなく、その人の自我を形成している考え方を変えることだと考えている。
だから、そのために必要なのは
「岩永さん、岩永さん?」
考え込んでいて尾崎さんが話しかけているのに気が付かなかった。
「どうしたの?」
「今日、日本史の授業でレポートを書く宿題が出たでしょ。だから、二人で協力したらどうかなって」
「あー、古事記の」
「そう、早めに終わらせた方が楽だと思うから」
「私も賛成」
こうして私たちは学校の図書館へ行った。




