第2話 怪奇! 婚姻届押し売りお姉さん!
「サイン、いただけますかっ!」
綾音さんは婚姻届とボールペンを差し出してきて、ペコリと頭を下げた。ああ、なんて夢のような状況だろう。こんなに綺麗な人がわざわざ自分の家までやって来て、結婚してほしいと頭を下げてくれているなんて。そう……こんなの夢に決まってる!
「しっ、新聞なら間に合ってるんでっ!!」
「なっ、なんで閉めるんですか!?」
次の瞬間、俺は思いっきり玄関の扉を閉めた! なんでなんでなんで!? なんで綾音さんがここにいるんだ!? 住所なんか教えたことはないはずだよな!?
「なんではこっちの台詞ですよ! どうやって僕の家が分かったんですか!?」
「家まで来てって言ったのはひゅーがさんじゃないですかっ! お嫁さんにしてくれるんですよね!?」
「普通本当に来るとは思わないじゃないですか!?」
「ひどい! 私とは遊びだったんですね!?」
「言い方おかしいですよ!?」
「お嫁に貰って毎日毎日毎日ちゅーしてくれるって言ったのに! 話が違いますっ!」
「ちゅ、ちゅーするとまでは言ってません!」
「じゃあお嫁に貰うとは言ったんですね!?」
「しまった! 罠かっ!!」
扉越しに問答を続ける俺と綾音さん。正直、心の中がパニック状態だ。綾音さんがこんな美人だということも、この人に結婚相手がいないということも、そして俺の住所が一晩で特定されてしまったことも、全てが意味不明!
「とにかくっ! 朝までに来たんですから約束は守ってくださいっ!」
「かっ、『考えます』って言っただけで嫁に貰うなんて言ってません!」
「ひどいっ! そんなの詐欺ですっ! 契約はちゃんと履行して!」
「クーリング・オフっ! クーリング・オフしますっ!!」
「ちっ、インテリぶりやがって!」
「今舌打ちしました!? 舌打ちしましたよね!?」
「いいですっ! こうなったら奥の手っ……!」
「!?」
何をする気だ!? ちゃんとドアの鍵は閉めたしっ、窓の鍵も閉めてあるはずだけど……まさかピッキング!? それとも強引に蹴破ってくる!? ボロアパートだからなあ、力尽くでやれば開いてしまいそうな――
「がちゃっ!」
「がちゃ!?」
茶目っ気たっぷりの擬音語が聞こえたかと思うと、鍵が開いた。徐々に扉が開いていくと、そこにはニッコリ笑顔で鍵を持った綾音さんの姿。……えっ?
「こうなると思って、大家さんから鍵をお借りしたんです!」
「えっ、ええっ!?」
「婚約者だって自己紹介したら喜んで貸してくれましたよ? 『あの子がねえ……』ってすごい泣いてました!」
「勝手に既成事実にされてる!?」
「とにかくっ!」
綾音さんはがっしりと俺の両手を掴んだ。呆気に取られている俺の顔を、ゆっくりと見上げて――一言。
「せっかくお会いできたんだからっ、お話くらいしませんか?」
いつもネットを通じて聞いている、穏やかで安心する声。ああ、この人は本当に綾音さんなんだ――と、ようやく実感する。
「……分かりました。狭い家ですが、どうぞ」
こうして、俺は綾音さんを家の中に招き入れたのだった。
***
「粗茶ですが」
こたつの上に湯呑を置いて、急須からお茶を注ぐ。布団に入ればいいのに、綾音さんは律儀にも座布団に正座したまま。ちなみに服装は黒のニットに茶色のロングスカートで、イメージ通りに大人の女性という感じだ。
「もー、お茶くらい私が入れてあげますってば」
「いえっ、お客さんにそんなことは」
「お嫁さん、ですよ?」
「そっ、それは……」
綾音さんの圧にたじたじになってしまう。湯呑のすぐ横には婚姻届が裏返しで置かれていて、何かのメッセージを感じずにはいられない。
「よいしょ……」
俺は綾音さんとの間にこたつの角を挟むようにして、斜め前に座った。隣同士だと距離が近いし、向かい合うと逆に遠い気がしたのだ。
「へえ~、これがひゅーがさんのこたつですか……」
「どうかしました?」
「いつもボイスチャットで話されているから、実物を見られて嬉しいんです」
「は、はあ……」
綾音さんはしげしげとこたつを眺めていた。そんなに感動するようなことかなあ。……なんて思っていると、今度はじっと俺の方を見ている。
「あ、綾音さん?」
「うーん、なるほど……」
「なっ、なんですか?」
「安心したんですよう。イメージ通りの方だなって」
「えっ?」
イメージ通り……って、どういう意味なのかな。普段のボイスチャットで想像していた通りの人間、ってこと?
「ひゅーがさんは普段から言葉遣いもしっかりしているし、常識もある方ですから。きっと良い人なんだろうなって思ってたんです」
「別に、そんな人はいくらでも――」
「いいえ、意外と難しいことなんですよ? まだ若いのに、ひゅーがさんはすごいんです」
「は、はあ……」
「想像よりちょっと背は高かったですけど。でも、それも含めてひゅーがさんらしいです」
綾音さんは優しく微笑んだ。この人に褒められると、何も言えなくなってしまう。ボイスチャットで話しているときも、ネットの向こう側ではこうして笑顔だったのだろうか。
「その、僕が本当は悪い人だったらどうするんですか?」
「本当に悪い人は自分でそんなこと言いません。それにそれにっ、あなたは大家さんが泣いて結婚を喜ぶような人なんですよ?」
「それは……」
「ふふっ、もっと自信持ってくださいっ」
どうして綾音さんがここまで言ってくれるのか、分からなかった。たしかに、この人とはボイスチャットでいろいろな話をしてきた。
何でもない世間話から、進路についての真面目な相談、時にはトイレ詰まりの解消法まで。だけど……いつも俺が教えられてばかりで、綾音さんに何かをしてあげた経験などないはずなのに。
「それで?」
「えっ?」
「ひゅーがさんはっ、私を見てどう思ってくれたんですかっ?」
考え事をしていると、綾音さんがやや身を乗り出すように問うてきた。この人を見て思ったこと。もともと素敵な方だとは思っていた。何でも相談に乗ってくれて、時には面白い話で笑わせてくれて。だから――ありのまま、伝えるべきだと思った。
「……自分も、思った通りでした」
「そうなんですかっ?」
「はい。きっと綾音さんは……僕よりずっと大人で、余裕があって、綺麗な方なんだろうなと思っていました。むしろ――想像以上の方で、びっくりしています」
「そっ、そうなんですね……」
こんなことを言われるとは思っていなかったのか、綾音さんは照れたように身を引っ込めた。大人っぽい女性が顔を赤くしているのを見ると、ついドキッとしてしまう。ギャップというか、意外性というか。
「そっかあ。ひゅーがさん、そんな風に思ってくれていたんですね」
「まあその、はい」
「なんだか嬉しいです。この歳になると、褒められることってあまりないので……」
「『この歳』って……。綾音さん、若く見えますけど――」
「そう思ってくれますかっ!?」
「!?」
しまった! 隙を見せた!
「私のことっ、素敵で美人で若くて気が利いて家事万能で高収入で包容力があって今すぐにでも嫁に貰いたいくらいだって言いましたよねっ!?」
「勝手に人の発言を捏造しないでくれますっ!?」
「なあんだ~!! そうならもっと早く素直に言ってくれればいいのにっ!」
「だから何も言ってないですって!」
「はいっ! 早くサインしてっ! 今すぐっ!」
綾音さんは机に伏せてあった婚姻届を手に取り、ボールペンと共に突き付けてきた。再び身を乗り出すようにして、強引に手渡そうとしてくる。
「だっ、だからそれとこれとは話が別ですっ!」
「いいじゃないですかっ! あんなに褒めてくれたのに何が嫌なんですかっ!?」
「だって、その……さっき初めて会ったばかりじゃないですかっ!」
「でもボイチャでは一年以上お話してますよ?」
「そうですけどっ! いくらなんでも急ですって!」
「いいのっ! 今日役所に行ってもいいんですからねっ!?」
「だからっ、なんでそんな――」
と、婚姻届を突き返そうとした瞬間だった。同じタイミングでさらに身を乗り出そうとしていた綾音さんとぶつかりそうになって、思わずかわしてしまう。
「「わっ!」」
綾音さんも同じように避けようとしたらしく、バランスを崩していた。気づいた時には、俺は後ろに倒れていて――綾音さんの顔が、間近に迫っていた。
「えっ……」
「あっ……」
驚きのあまり、互いに目を丸くしてしまう。構図的には、綾音さんが俺のことを押し倒している感じ。高級そうなシャンプーの匂いが漂ってきて、思わず息を呑む。
「あっ、綾音さ――」
「ひゅーがさんっ!」
その時、綾音さんが大きな声を張り上げた。その迫力に何も言えないでいると、綾音さんはさらに口を開いた。
「私、冗談で来たわけじゃないんです。本気であなたと結婚したいと思ってます」
「!」
綾音さんは真剣な眼差しで、はっきりと「結婚したい」と言い切った。改めて、今目の前で起きていることが夢でも何でもないことを認識させられる。
この人は、今まさに――俺にプロポーズしているんだ。
「でもっ、そんなこと言われても……」
「分かってます。大丈夫ですよっ、これでもいろいろ考えてるんですからね?」
「は、はい……」
綾音さんはいたずらっぽく微笑んだ。そしてさらに話を続ける。
「ひゅーがさんはっ、今すぐには結婚出来ないと言いたいんですよねっ?」
「も、もちろん」
「だったら……私にチャンスをくれませんか」
そう言って、綾音さんはすうっと息を吸い込んだ。チャンスって、どういう意味だろう……?
「その、チャンスって――」
「ひゅーがさんっ」
綺麗な顔がさらに迫ってくる。思わず頭を引っ込めそうになるけど、床に邪魔されて動けない。心臓の動きが速くなるのを感じた、まさにその瞬間。
「試しに一か月、私をお嫁さんにしてみませんかっ」
綾音さんの瞳は、俺の心を捕らえて離さなかった。




