第15話 夜食クライシス
今日は火曜日で、いつも通りに大学に来ている。やっと最後の講義が終わったところで、周りの学生たちは上着を羽織って帰り支度を始めていた。
「日向、なんかあったのかー?」
「えっ、何が?」
講義室の椅子に座ってぼーっとしていたら、大学での数少ない友人に話しかけられた。ソイツは俺の顔をじっと見て、何やら妙な表情を浮かべている。
「なーんか鬱々としてるからさー」
「そんなに? 別に普段通りだけど」
「いやいや、顔色が悪いっていうか……全体的に暗いぞ」
「そうかな……」
「分かった、女か!?」
「いや、ちがっ――」
違う、と言いかけたところで止まった。……違うってのは変だよな。自覚していないだけで、俺は朝の件をかなり引きずっているのだろう。
「……まあ、ちょっとな」
「おっ、日向にもとうとう彼女か~! どんなっ!? どんな人なんだ!?」
「うーん……住所特定が得意で、忍法が使えて……」
「に、忍法? 何だよそれ」
「今朝――俺に包丁を突き付けてきた人かな」
「はっ、はあ!? ヤバい女じゃねえの!?」
否定はしないが、それはともかく。
「大丈夫だよ。俺が悪かったと思うし」
「お前、必要なときはちゃんと110番するんだぞ!?」
「あの人なら先にスマホを踏み潰すだろうなー」
「なっ、なんだよそれええええっ!?」
目を丸くする友人をよそに、すっと席を立って荷物をまとめ始める。なぜ俺の気持ちが落ち込んでいるのか。話は今日の朝に遡る――
***
「……ふわあ」
朝八時、部屋の外から聞こえるガタガタという音で目を覚ます。綾音さんが来てくれたのかな。今日は一限目が無い日だから、俺はもうちょっと寝てようか……。
「ん?」
ふと、台所の方からどんどん足音が近づいてくることに気がついた。綾音さんが家の中で走り回るなんて珍しい。流し台に虫でも出たのかな、なーんて呑気に考えながら再び寝ようとしたその瞬間――襖が一気に開いた!
「あなたを殺して私も死にますっ!!」
「うえっ!!!?」
驚いたのもつかの間、綾音さんは布団の上から俺に馬乗りになった! その手で俺に突き付けているのは包丁。……包丁? ほっ、ほっ、包丁!?
「なっ、何やってるんですか綾音さん!?」
「とぼけないでくださいっ! いつから私じゃ満足できなくなったんですか!?」
「ななななな、何の話ですかっ!?」
怖いっ! 目の前で銀色に輝く刃が怖いっ! そして満足ってなんだ!?
「あんまりじゃないですかっ! 私っ、ひゅーがさんにこんなに尽くしているのにっ!」
「だからいったい何の話ですか!?」
「そのっ! ひゅーがさんがっ……!」
綾音さんは顔を上気させながら、ポケットから何かを取り出した。くしゃくしゃになったビニールのようだけど……いや、違うな。インスタントラーメンの袋? まさか――
「これっ、お夜食に食べたんですよね!?」
「えーっ、とお……」
「私が毎日ご飯を作ってあげてるのにっ、不満なんですか!?」
「いえっ、そうじゃないんですけど……!」
まずい、もっと見えないところに処分しておけばよかった! そう、昨日の夜遅く……珍しく腹が減ってしまって、自分で袋麺を煮て食べてしまったのだ。
あんまり夜食しないようにと前から言われていたから、バレないように後片付けしたつもりだったんだけど……見つかってしまった。
「もうっ! ゆうべだってちゃんと生姜焼き作ってあげたじゃないですかっ!」
「美味しかったです」
「そっ! それはどういたしまして……って、そうじゃなくて!」
ちょっと照れた後、再び包丁を突き付けてくる綾音さん。さらに声を張り上げて、話を続ける。
「私のご飯に不満があるならそう言ってくださいっ! ちゃんと直しますから!」
「ふっ、不満なんてないですってば!」
「じゃあなんでお夜食なんか食べたんですか!?」
「それは……お腹空いちゃって……」
「も~~~! 私以外のご飯に浮気するなんてひどいですっ! どうせ指輪外してラーメン食べてたんでしょう!?」
「そもそも指輪なんかないじゃないですか!?」
「どうせ写真立てを伏せて絡み合ったんでしょう!?」
「絡み合ったのは麺とスープですっ!」
「うるさいっ!! うまいこと言うなっ!! このすけこまし!!」
「すけこまし!?」
「とにかくっ!」
綾音さんは再び包丁を突き付けてきた。そしてじいっと俺の目を見つめてきて、拗ねたように言い放つ。
「今日は絶対にご飯なんか作りませんっ! ひゅーがさんなんてっ、お腹ぐーぐー鳴らしてみんなに笑われちゃえばいいんですっ! ふんっ!」
不機嫌そうにふくれっ面になり、ぷいっとそっぽを向いてしまう綾音さん。俺は何を言えばいいのか分からず、ただただその顔を見上げるしかない。……本気で怒らせちゃったみたいだな。
「あの……綾音さん」
「なんですか!?」
「すいませんでした。勝手に夜食なんか食べて」
「謝るくらいなら最初からしないでくださいっ!」
「仰る通りです……」
「まったくっ! 旦那さんとしての自覚が足りませんよっ!」
しばらく収まらなさそうだな……。どうしようか。今はもう繰り返し謝るしかないか。今回は俺に非があると思うし、たまには自分で朝飯を――って、あれ? なんだかかつお節の良い匂いがする気がする。
「あ、綾音さん?」
「今度は何ですか!?」
「もしかして……朝ごはん、作っちゃったんですか?」
「……」
横を向いていた綾音さんの顔がどんどん赤くなっていく。そしてしばらく黙り込んだあと、照れ隠しのつもりなのか――急に包丁を振り回し始めた!
「うっ、うるさいっ! 絶対作らないって決めてたのに間違って作っちゃったんですっ!」
「ちょっ、振り回すのやめてっ! 怖い! めちゃくちゃ怖いですっ!」
「仕方ないでしょっ! お腹空かせて授業受けるの可哀想だなあって思っちゃったの! 浮気男への想いを断ち切れない健気で愚かな私に感謝してくださいっ!」
「それは感謝するんですけど包丁だけはやめてくれませんかっ!?」
「いいから! いつまで寝てんだこの学生風情がっ! さっさと起きて学校行けっ!」
「はっ、はいいいいっ!!?」
脅されるように飛び起きる俺。結局、今日もいつも通りに美味しい朝食をいただいたのだけれど……やっぱり、綾音さんはずうっと不機嫌なままだった。ちなみにさっきの包丁は、綾音さんが犯行トリックを考えるのに使っている偽物だったらしい。よかった。
朝飯を食べて支度を終えた俺は、大学に向かおうと玄関で靴を履いていた。もう家を出ようかという頃、台所で食器洗いをしていた綾音さんがこちらに歩いてきて……不満そうに唇を尖らせつつも、見送りの挨拶をしてくれる。
「で、今日の帰りは遅いんですか」
「いえ、講義だけなので。そんなに遅くはないです」
「ふーん、そうですかっ」
俺が悪かったのにきちんと玄関まで出てきてくれるあたり、やっぱり綾音さんは優しい。自分とは器の大きさが違うんだなと、改めてそう感じる。
「じゃあ、行ってきますから。綾音さんもお仕事頑張ってください」
「あっそうだ、晩御飯何がいいですか?」
「ん?」
「ん?」
一瞬、時が止まったような気がした。綾音さんはしばらくきょとんとしていたけど……間もなく、自分が何を言ったのか思い出したみたいだ。頬を真っ赤に染めて、照れ隠しのつもりなのか俺のことをポカポカと叩きだす。
「ちっ、違うんですっ! ひゅーがさんに晩御飯なんて作ってあげませんからっ!」
「分かってますって! あんま叩かないでくださいってば!」
「うるさいっ! ひゅーがさんに意地悪なんて出来ないんですっ! この卑怯者!」
「卑怯者!?」
「とにかくっ! 晩御飯だけはぜ~~~~ったいに作りませんからねーっ!!」
「は、はあ……」
「早く大学行ってくださいっ! じゃあねっ!」
「ちょっ、綾音さん!?」
玄関から叩きだされた次の瞬間には、勢いよく扉が閉められていた。俺はぽりぽりと頭をかきながら、大学に向かって歩きだしたのだった。
***
友人と別れて講義室を後にした俺は、キャンパスを歩きながらいろいろと考えを巡らせていた。
「うーん……」
なんだかんだ言いつつも、綾音さんを怒らせてしまったのは事実。せっかく俺のためにご飯を作ってくれているのに、その厚意を裏切ってしまったも同然なのだ。家に帰ったらもう一度謝ろうとは思うけど、それだけではお互いに納得できない気がする。
「夫婦喧嘩、か……」
考えてみれば、今の状態はある種の夫婦喧嘩。喧嘩するほど仲がいいとか、雨降って地固まるとか、そういう諺はあるけどさ。両親のことを思い出すと……やっぱり喧嘩なんかしない方が良いに決まっているよな。
「……よしっ」
ある決意を固めて、俺はスーパーの方に足を向けたのだった。




