貴族落足
アルファにおける市民層は国民の大多数、およそ人口の四割から五割が住んでいる。
市民層と一言にいっても、その区分は非常に曖昧なところがあった。何故ならばこの区分は上流階級によって定められた俗人的な線引きだったためだ。
この境界線が何故採用されているかというと、軍における防衛がこの層を想定しているからだった。
バベルの塔を生命線として危険度順に外界へと近づく構図だ。
大まかに貴族などの裕福な、ごく僅かな人間が魔物から離れた安全地帯として設定した富裕層。
市民街の中層でも下層と富裕層の間で地価が天と地の差がある。
よりバベルに近い方は地価が高騰し易く、発展している中心地——アルファ最大の歓楽街——をも凌ぐ。
ようは利便性より、一秒でも長く生きたいという我が身可愛さの表れだ。
一方で工業都市と呼ばれている下層には、中層に近い学院と《フォールン》がある。
基本的には職人気質の多い街だ。
学院や軍からも近いとあって比較的魔法師率も高い。
そして次に最外周部には軍本部が置かれている。軍の基地周辺には関係者以外、一般人の居住区画はない。
居住可能地域は明確に線引きされていると言えるだろう。特に上流階級が多い富裕層には貴族が多数居を構えている。
一種のステータスとして、特権の証明のようなものだ。
だから、中層の辺境でぽつんと佇む一軒家は少々異色でもあった。
どこまでが庭なのかもわからない広い庭と二階建ての一軒家。
中層でもここまで広い家はそうそうなかった。長らく人が住んでいなかったのか、ここに越してきた一家はまだまだ引っ越しが完了していなかった。
ここに引っ越してきて半年は経っているのだが、使用人もいない三人住まいにはあまりにも大き過ぎる。
部屋数だけは十を超えているだろうか。
庭は生えっぱなしだった雑草を刈っただけで、綺麗な庭園から程遠い。空き家とはよく言ったものだ、こんな物は放置され、捨てられたようなもの。廃墟の第一印象は清掃しても拭いきれなかった。
前の居住者はアルファ内でもそこそこに名の知れた名家だったはずだ。五年ほど前に夜逃げ同然で家を空けたという話だった。
生活スペースの掃除を終えて荷物の搬入も完了している。だが、まだまだ埃を被った空室があり、その部屋は使われないまま放置されていた。
「いずれは出ていくつもりだったんだがなぁ。その前の仮住まいだと思えば悪い物でもないのだろうと。そう考えていたんだが、まったく遅々として進まないとはな……」
埃が溜まりやすいせいか、しゃがれた声で男は諦念の籠もった声を漏らす。
口を一周する白い毛の混じった髭を擦る。
貴族として致命的なまでに優秀な魔法師を輩出できず、貴族界隈で存在感が薄れてしまった。子宝に恵まれなかったと言えばそれまでだが、貴族としての生命線、その手段を考案できなかったのが痛い。
男の代ではすでに誰からも見向きもされず、随分と肩身の狭い思いをしてきた。
まだまだ歴史の浅い貴族は貴族社会でも軽視されがちだ。いや、もう傾きかけた家は蔑視されていたに違いない。最初こそ社交界では随分と幅を利かせることもできた。それも考えれば先代までの話だったのだ。
近年では如何に軍部へ入り込めるか。内部での地位こそが物を言う世界に変わってしまった。
男も家を継いで上流階級の仲間入りを果たし、裏で色々と手を回したり、生き残るために汚いこともした。
もう家が傾きかけて久しい。首の皮をどれだけ薄くすればいいのか、いつ切れてしまうのか、そんな不安の中で頑張ってきた。
「どうにか繋いできた爵位だというのに、これではお飾りも良いところだなまったく。使用人も皆置いてきたというに」
「貴方、そんなに急いでも物事は上手く回らないわ」
「……そうも言っていられないのだ。アルファはしっかりと貴族社会の統制が取れている。いやいや、統制ではないな、どちらかと言えば上流貴族、三大貴族が纏め上げているおかげだ」
お茶を受け皿に乗せ、ノックもなく入ってくる妻に男は怒るでもなく愚痴を溢した。生まれた頃よりウェンコード家は貴族だ。三代目当主となり、歴史的に見ても中堅といったところ。厳密には7カ国建国時から貴族だったかが肝心なのだが、ウェンコード家は残念ながらそうではない。
ルサールカで得ていた爵位は伯爵。しかし、そんな爵位の意味などここアルファではほとんどないのだ。元首の血縁者でもない限りは爵位に大きな価値はないと言っていい。
肝心なのは貢献度。軍での存在感や国策に携われるような重要なポストだ。
後は魔法師の順位。軍への魔法師供給が影響する。
三大貴族の顔覚えも重要だろう。
男が事前にアルファへと移ってくるに当たって得た情報はこんなところだった。
項目でいえばルサールカと然程変わりないのかもしれない。
「爵位などもとより重要視されていなかった。今更だ。まずは三大貴族の派閥に入らねばならないというのに、誰も会ってくれないとは」
手書きの書簡を送ってはいるものの、返ってくるのは体の良い断り文句ばかりだった。
甘く考えていたわけではないが、家を守るためにルサールカからアルファに移ってきたことを考えれば早速壁にぶち当たったようなもの。
ルサールカからの妨害工作を懸念していたが、こんな廃れた名の貴族に関心はないようだった。
今や貯金を潰す生活になってしまっている。まだまだ余裕はあるが入ってくる金がないのでは、普通に働く夫——役職「貴族」といったみっともない状態だ。昔と違い領地を貸し与えられるわけではないため、資金は枯渇していく一方だった。
ルサールカは旧貴族が根強く、またそれが軍と密接に繋がっている。その度合いは片方が潰れれば道連れになるほどに近しい。
上の地位が盤石過ぎて古いだけのウェンコード家など出る杭にすら値しないのだろう。
年寄りが幅を利かせ過ぎると、役に立たない没落貴族に出る幕はない。一度傾けばあとはずっと下り坂だ。
あそこは腐り過ぎていたと感じたウェンコード家はアルファへの移住を決めた。
他国で得た爵位は余程でもない限り見向きもされない。
「貴方、直接お会いにいかれてはどうかしら」
「そうはいかん。いきなり三大貴族にお目通りできる切符はないんだ。紹介していただく形を取らねばならない」
「お父様にお願いしてみましょうか。確かアルファには懇意にしていただいている家がいくつか……」
「それはできない。無理をいって鞍替えしたのだ。お前もわかっているだろ。上手くいっていないのはわかってる。このままでは村八分だ。貴族位すらも危うくなってしまう。ここまで苦労してきたのだ」
「私は貴族でなくとも」
「母様、それではウェンコード家を潰すおつもりですか」
空いていたドアから制服姿の少年が鋭い目を母親に向けていた。
家の事情といって学院を欠席してきたシュルトは、久しぶりに会う両親になんの感慨もなく一層冷めた口調で言った。
「シュルト……」
黒く艶のある髪は顎下で綺麗に切り添えられている。
アルファの第2魔法学院に入学を果たしたシュルト・ウェンコードが不敵な笑みを母親に向け、眦を吊りあげる。
「父様がここまで家を守ってきた苦労を母様は捨てろとそう仰るのですか。ウェンコード家が今一度脚光を浴び、貴族界で重要な位置付けにいなければいけない。一から立て直し、貴族のあるべき姿を示さねばならないのです」
「シュルト、お母さんに向かって言い過ぎだ」
父——トムセン・ウェンコードの叱責を受け、シュルトはわかりやすい不機嫌顔を逸らすだけだった。
「いいのよ、貴方」と無理に微笑む顔はやつれ気味である。
貴族にありがちなのかもしれないが、ウェンコード家が貴族であり続けるには無理があったのだ。トムセンの血筋は魔法師に恵まれなかった。母親の方にその素質がある。つまり母方の家のバックアップがなければウェンコード家はトムセンが継ぐ前に没落していただろう。
それもアルファに移ってしまったが故に後ろ盾は失ったが。
だがそれもジリ貧であった。もはやルサールカではいないも同然の家になってしまった。上が盤石過ぎたのだ——付け入る隙がないほどに。
「幸いなことにシュルトは魔法師の才能がある。ウェンコードを継ぐ者として、申し分ないだろう。だからこそ、その前にこの家を潰すわけにはいかんのだ。シュルト、早過ぎるかもしないが、直に当主の座に就いてもらうことになるかもしれない」
「承知しています、父様」
「しばらくは学業に専念して、魔法師としての才能を伸ばしてもらいたいと思っていたんだが」
無念だと言わんばかりにトムセンは項垂れる。
トムセンの胸のうちを知るのは彼と彼の妻だけだ。幼くして政略結婚させられた二人にだけ伝わる。
当時は家の再興のためだった。貴族の婚姻などそんなものだとわかった上でお互い結婚したのだ。
「そうね、第2魔法学院で首席入学なんて凄いわ。もう近所の方々に自慢してしまって」
微笑ましげに手を合わせる母にシュルトは言い淀む。
この辺りは中層でも辺鄙なところだ。近所といってもまず見える範囲に家はなかった。
学院との距離も転移門を待たずに使って三時間以上はかかる。
「…………ありがとうございます、母様」
母方の家も貴族だとは思えない呑気っぷりに、シュルトはコメカミをピクリと震わせたが、ここは素直に感謝を口にする。女性なのだから、貴族としての振る舞いが甘いのは仕方ないのかもしれない。
どの国も貴族というのは、女性に対して嫁がせる因習が根強い。ウェンコード家がそうであったように家を大きくする術は限られている。
ともかくシュルトが母方の祖父母と会う時は、貴族らしい節度が母親にも垣間見えるし、自分もそうした教育は祖父母から教わってきた。
だからこそ何故と疑問に思ってしまう。
幼少期から締め付けられると貴族位などどうでもよくなってしまうのだろうか。
そんなことを考えていると、トムセンが一通の書状をシュルトに見せた。




