目を開けると
◇ ◇ ◇
ずっと暗いところを歩かされていた。己の意志など関係なく、動き続けていた。
全身を包み込む薄ら寒い感触が、次第に感覚というものを失わせていった。指先の感覚はなく、ぼんやりとした意識だけが浮上している状態。寒いと感じることもなく、静寂という無音を意識することもない。
だから、ここは“たぶん”寒いのだろうという曖昧な予想に他ならなかった。
夢遊病のように真っ暗なところを延々彷徨い続けて、きっとここは寒いし寂しい場所に違いないのだろうと、なんとはなしに確信していた。
恐怖もなければ幸福もない。
あるのはぼんやりと白昼夢に似た靄の掛かった疑問。何故だろう、何故ここにいるのだろう、何故歩いているのだろう。
そして誰を探しているのだろう。当てもない散策に唯一見いだせる目的。
ふと、胸に大きな穴が空いていることに気付いた。それは蛇口を締め忘れたかのように、ポタポタと何かが流れ落ちているのがわかる。身体の内部から不要な物を取り除いてくれているかのようだ。
同時に、頭の中の霞はどんどん濃くなっている気がした。
塞がなければ、小さな電気信号が弾け、直感は焦燥感を掻き立てた。
それでも腕や足は言うことを利かず、何かを探すために動き続ける。きっと、空っぽになったらこの焦りもなくなっていくのだろうか。
それは幸せなことに他ならない。余分な物が流れ落ちて、きっと最後に残るのはこの浴槽に浸かった心地良い感覚だけなのだろうから。
でも、もしこの穴を塞いでくれるのならば……。
自分の中身が零れ落ちていくのを止めてくれるのならば……。
そんな心優しきお節介な存在を私は全力で排除しなければならない気がしていた。心地よい時間を妨げる者に、不快感が湧き上がるのだ。ただ、どうしてここまで嫌悪しなければならないのか、理由がわからない。
だから不思議だ。この至福の時間にいつまでも浸っていたいと感じる一方で、私は一体何を探し続けているのだろうか。
それを見つけた時、私はどうなるのか、ポッカリと胸に空いた穴が塞がれるのではなく、別の何かで満たされるような気はする。
まるで脳に詰め込んだ単語を一摘み、掬い上げられているような感覚だ。ゆっくりとしか考えられなかった。次第に余計なことに考えが至らなくなっていく。必要なことのはずが、何もかもどうでもよくなっていくのだ。
思考が食い潰されていくと同時に、身を委ねてしまいたくなるほどの心地良さがそこにはあった。考えないということがこれほど自然なことだとはわからなかった。
全身の感覚が途絶えた時、それが当たり前だと諭された。
もう怖いものはない。怯える必要もなければ、行動を起こす気力もいらない。
身体が次のステップへと進みたがっていた。
心臓が食われる。
心が食われる。
違う。食われるのではない、同化するだけなのだ。中身を抜かれて、代わりに何かが器を満たしていく。
これは……。
あぁ、これは怖いことなのだ。自分が変わっていくのを受け入れるのは酷く恐ろしいことだ。
きっと心に残ったこの想いも、色褪せていくのだろう。
言葉にできない恥ずかしさの淡い想い。それだけが自分の全てではないが、唯一無二の自分自身でもあった。愛情とか、それこそ“愛”といった立派なものではない。
誰もが抱くであろう誰かを好きであるという感情。
盲目的な信頼が完全な同化を拒絶していた。自分だけの秘密の宝箱。そこに秘められた気恥ずかしい想いはずっと大切にしなければならない気がした。
だから胸の中で誰にも奪われないように、抱え込むのだ。
これだけは侵さないで、と。
そうして抵抗し続ければ……いつかは、いつかは……彼が。
身体を掬い上げてくれる感触を最後に、フェリネラの意識は安堵の海に沈んで行った。
物々しい機材がベッドの周囲を取り囲む。
腕に繋がれた管の数は重傷者でさえ多いと思えてしまえるほどだ。寝起きに窓から差し込む日差しや、風を求めるのは贅沢なのだと気づかされた。
呼吸器をつけたフェリネラはゆっくりと目蓋を開けた。寝ながらだが、目を動かして今どこにいるのかの確認をしてた。一目で病室だと理解するのに時間は掛からない。それも重傷者を治療するためであるのは、機器の稼働状況を見ればわかる。
はめ殺しの窓が二つ。換気扇が天井の隅にあるだけだった。
フェリネラはしばらくその状態で何度か天井を眺めた。自分に起こったことはわかる。
魔物に負けた。そして取り込まれたのだ——喰われたわけではなく。
恐怖はない。覚悟していたことだから。
それでも指先が微かに震えていることに気づいて。
(そうね。そうね……)
口を引結んで、漏れる嗚咽を堪える。敗北したことが怖いのではない、それを受け入れてしまったことも違う。自分の力ではどうしようもなかったのだから。
ただ、魔物が自分の中に入ってきて、取られそうになったことが恐ろしいのだ。感情や思考、記憶も全て。まるで自分に取って代わろうとしているようだった。
一頻り恐怖に怯えた後、フェリネラは自分が生きていることを実感した。
指が動くし、足も動く……。痛いところはどこもなかった。
何より、腕に繋がれた管が生かされていることを教えてくれる。病室の外からは人の気配もした。
一筋だけ涙が乾いた頬を濡らして、枕に落ちた。
酸素マスクを外して、フェリネラは上体を起こした。
患者衣は薄く簡素なもので、裸の上に直接着ているようだった。一応下着はつけているようだが、その柄を彼女は知らない。病人なのでお洒落に気をかける必要もないし、贅沢をいう資格もないのだが、何故か人の下着をつけているような気にさせられる。
ともかく、筋肉量も減った様子がないことから何ヶ月も寝ていたわけではないだろう。
ふと、彼女に去来する不安感にその視線は落ちるように胸の間に向かった。
管のついた腕を持ち上げ、ゆっくりと触れてみるが、そこには何もなかった。少し汗ばんだ肌と、胸骨の感触。
(今って、何時? それに誰もいないのはなんで)
見たところナースコールのような物は見当たらなかった。
ここの設備のデータは全て別室でモニタリングされていた。
フェリネラは誰かを呼びにいくべきか、それとも安静にしているべきか、悶々とした状態で頭を悩ませていた。
だが、そうしている間にノックもなく慌ただしく病室のドアが開かれることになる。
「フェリ!!」
「ちょっ、わっ!? 君」
女性の張り詰めた声の後に、なんとも中途半端な男性の声が続いた。
真っ先に目に飛び込んできたのは、鉱床任務とは違う服装に着替えたイルミナであった。血相を変えた彼女は子供らしく走るのではなく、大人らしい冷静さもなく、その狭間で早歩きという選択をした。
「イルミナ、あなたは大丈夫? 怪我は? それにみんなも」
フェリネラの第一声がこれであった。
ベッドの傍でイルミナは他人の心配をする病人を前に、拳を作る。ここは怒鳴るところだとイルミナはわかっていたが、それをさせないだけの付き合いが二人にはあった。
怪我の度合いに関わらず、心配の綱引きだったのだ。




