最恐の救世主
魔物の足音というより、それは幼い少女達を囲む目的を知らせるかのようにはっきりとした音を響かせた。二足歩行故の歩調、人間の足音だとすぐに分かる。
大群といって差し支えない量の魔物が、たった二人の、それも重傷を負った少女を囲んだ。誰がトドメを刺すのか、そんな逡巡すらなく、一斉にあらゆる武器が重々しい音を鳴らして振り上げられる。
魔物に慈悲などないし、期待する魔法師もいないだろう。
言葉の通じない相手に、命乞いするほどレアとメアの二人は、外界を知らないわけではなかった。弱肉強食、二人にとって外界を言い表すのはこの言葉だけで十分。
どんな殺され方であろうと、死に変わりはない。
これだけ増えた魔物だ、手に持った武器をひたすら振り下ろすだけなのだろう。乱暴に、暴力的に……。
レアは泣かなかった。
メアは泣かなかった。
それが自然の摂理であり、ルールだから。自分達が数えきれない量の魔物を殺してきた。だから、たとえ魔物であろうと殺す権利は有している。惨たらしく、嬲るような方法であっても二人はそれについて異論を挟む権利がない。
それがルールだと決めたから。
自分は良くて、相手は良くない。そんな道理は言葉の上の遊びではなく、純粋な真理なのだ。
だから最後は、レアとメアの二人は死を受け入れた。快く受け入れた。
争い、抵抗してその果てに生殺与奪が決まっただけの話だった。
外界で生き抜いてきた二人にとって、当たり前の出来事が起こっただけの話だ。強い者が弱い者を喰らう。
でも、とレアの口が震える。
でも、とメアの口が震える。
(できればもっと、もっと人が多い、あの場所で、メアと過ごしてみたかったのです)
(新しいことばかりの、楽しかったあの場所でレアともっと遊びたかったなぁ)
小さな、小さな心残りが二人の目の端に、涙を溜めた。
世界は広かったのだ。外界での生活が彼女達の人生、その大半を占めてしまっている。だから内地での生活は常に新鮮且つ、驚愕の連続だ。一日一日が延々と長い時間を刻み、大切な記憶として心の引き出しに仕舞われていくのだ。
人との会話一つとっても、全てが新しいこと尽くしだった。
昨日よりも、今日、今日よりも明日、毎日を噛み締めるように心躍る日々を送っていた。
だから、可能ならばまた明日を渡ってみたかった。瞼を閉じて、開けた時、陽が昇るように一日が始まるのだ。長い一日を、長い一年を、両手の指では数えきれないほどの輝かしい日常がずっと続く。
今は閉じた瞼を、開けるのが怖い、もう明日は来ないのだと知るのが怖い。
だから傍でレアはメアの、メアはレアの、温もりを感じ合う。
また瞼が開くその日を夢見て。
また陽光の眩しさを感じながら、一日を始めよう。
しかし、レアは決して一日が始まらないことも、ましてや終わらないことを知った。
全身の細胞が恐怖に慄く、そんな気配は死の直前ですら感じなかったものだ。
死に背中を撫でられて、レアはさらに力を込めて目を瞑った。今度は、迫るその気配に堪えるかのようだった。
そんなおり、ふと二人の耳に声が、一切の感情を湛えない音が届く。
「邪魔だ」
黒い靄が通路を包み込んだ。侵食と呼べるだろうか、壁面からはミスリルの光が消え去り、ただ暗い闇が通路を埋め尽くした。
背後で、妙に怯える気配が連続する。それは異様な気配だった。威嚇もなく、動物が己の捕食を受け入れるかのように、生を手放した、そう解釈するしかなかった。
弱者は強者に蹂躙される。
だから、その光景は考えるまでもなく単純明快だった。更なる強者の出現というだけで、レアとメア、そして大男の魔物、両者が共通して弱者と成り果てた瞬間。
レアはすでに目を瞑るのをやめていた、彼女が聞いた声は紛れもなく人間のものだったから。しかし、人間が発する魔力とは大きく異なる。だからレアは、今も小さな身体を強張らせて、メアを抱きしめ続けていた。
塞ぎきれない瞼は、レアに半ば強制的な光景を見せる。
驚愕に目を見開いたレアは、ありえない光景に言葉を失った。
蹂躙と呼ぶにふさわしい光景。黒い霧のような口だけを開けた蛇が、無数に通路を駆け抜け、大男の魔物を食い散らかしていく。実態としての姿形は希薄でありながら、魔物の肉をいとも容易く喰い千切る。そして身体から魔力という生命を吸い尽くした。
生命というものをレアはこの時、初めて見た気がした。
黒く淀んだ何かが、大男の中から吸い出されていく。肉片すら残さず、一瞬で塵芥に変わる。武器での抵抗など霧相手に全くの無意味だ。むしろ、武器さえも分解され、食われていく。
その光景はレアとメアにとって見慣れた光景でもあった。
異様であることに変わりないが、やっていることは同じ。
腹を空かした動物が、獲物を取り合い群がる光景とそっくりだった。
だから、これは自然界における摂理なのだろう。食うものがいれば、食われるものがいる。
至極当たり前である。これまで人間が自然界の生態ピラミッドの頂点にいただけで、今は一つ下になっただけの話。人間を食うのが魔物になっただけ。
正確にはピラミッドの位置を人間と魔物とで取り合っている状況が現在だ。少々分の悪い戦いではあるが。
なら、今、レアが見ているものは…………。
今度は魔物が喰われている。この光景をどう理解したものか、レアはただただ瞠目することしかできなかった。
一瞬、捕食の矛先が二人に向いた。
レアは喰われる側の下等種族であると悟り、無駄な抵抗を見せない。それに今更だ。
更なる上位者が現れた今、重傷のメアと、戦うことを辞めたレアに抵抗の意思はない。
だが、「えっ」と微かな驚きがレアの中で木霊した。成り行きに身を任せたレアの目の前で、貪欲に貪っていた黒い蛇は僅かに口を開いたかと思うと、興味が失せたかのように捕食対象を変え、凄まじい速度で宙を泳いでいく。
その直後、
黒い霧が全ての大男の魔物を喰い終わったのか、霧が晴れるように長く伸びた胴体が溶けて消えていってしまった。
「ここにいたか」
「——!! い、い、い、…………………1位!!」
発したと同時、レアは肩の力が抜けて、大粒の涙を流した。緊張の糸が切れたのもそうだが、何より……。
「メアが、メアがぁぁぁ…………足があ゛あ゛あ゛ぁぁぁ」
耳に響くその泣き声は、1位と呼ばれたアルスの眉間に深い皺を築いた。両手に抱えたフェリネラを優先したいアルスに、構ってやる時間は惜しい。
だが、見過ごすことは到底できない。優先順位はあるが、それでも今回の救出作戦の中にはレアメア姉妹も含まれているのだから。
この階層を担当しているはずのファノンへの愚痴が込み上がってくるが、それより。
「相当な出血量だな…………死ぬな」
「お願い、助けてなのです。1位ぃぃ」
泣き付かれ、縋るようにボロボロのズボンを掴まれる。
バルメス元首、シアンの側近ともいえるこの二人は、若き元首にとって重要な存在であるのは先の会合でわかっている。
フェリネラを優先したいアルスは、二人がこのまま死んでも何かを思うことはないだろう。
助けたい命を優先することは悪ではないのだから。
それが仮に手遅れだったとしても、アルスは己の意思で選ぶ。助けを求められたから助けたのでは、キリがない。
冷たい視線をアルスは、メアに向ける。こうして足を止めていることさえ彼をイラつかせていた。
だが………‥最終的には今回は誰かを助けるための行動が原動力であるが故に、アルスは足を止めざるを得なかった。この二人も今回の鉱床調査の任務に抜擢されているメンバーだ。大枠で見れば助ける必要のある生命。
実際、彼女らの潜在能力は同年代と比べると飛び抜けている。
フェリネラの安らかな顔を一度だけ見て、アルスは肩を竦めた。
「ロキ、簡易式治癒魔法は……」
ほとんど期待していないその言葉は、半ば手を尽くしたという体を取ったポーズか。
そう声を掛けられて、疲弊し切ったロキがどうにか返す。彼女も負傷度合いでいえば、すぐにでも治癒魔法師に診てもらわなければならない。まだ多少の無理ができるだけの体力は残っているが、魔物の始末はアルスの【グラ・イーター】を使わざるを得ないほどである。
ロキは青い顔で、メアの状態を見て難しい表情を作る。
「もう使い切ってしまいました。今あるのは……使い切った紙片だけです」
簡易式治癒魔法は特製の紙片などに魔法式を刻み込み、誰でも治癒魔法を使えるというものだ。その効果は大きく見込めないが、今回のロキのように動ける程度の自己治癒力を促進してくれる。
そして簡易式治癒魔法は、使い切ったら、刻まれた魔法式が消える。
ロキは自分に使った紙片をアルスに見せるが、彼女が見てもそこに魔法式らしきものは残っていなかった。
「それで構わない。まだ十分使えるはずだ。とはいっても一分、二分程度だがな、運が良い。ロキ、まずは止血だ」
「あ、ありがとうなのです」
「さっさと処置しろ! 出来るだけ手は貸してやる。だが、死んでも恨んでくれるなよ」
厳しい顔つきで、レアは一つ大きく頷いた。レアもフェリネラとは任務開始前に顔を合わせているので、一目で彼女に何かがあったことは悟った。
当然、アルスの言い分はもっともで、レアとしては手を貸してくれるだけでもこれ以上ないほど助かる。
アルスは一度だけフェリネラを降ろし、「少しだけ待っててくれ」と言い残してメアの手当てに加わった。
出血量から考えると、無理やりにでもこの鉱床内部から脱出しなければならない。全力で走っても助かる見込みは薄い。アルスの予想より生存率は低いはずだ。
一か八かにすらならない。
三人とも血みどろになった手でメアの止血を終え、突き出た骨については最低限の処置しかできなかった。知識のない三人が余計なことをするわけにもいかない。
今は出血を抑えること。それに専念し、ロキが先陣を切って応急処置をする。
できることは少なく、今は一刻も早く鉱床から脱出しなければならない。
「手間が増えるな」
外界だからと、ここでレアに説教を垂れる時間すら惜しい。だが、死んだらそこで置いていくつもりではあった。
だから、全力で、外を目指す。
外にさえ、出られれば、生きて外にさえ出てくれればそれだけで良い。
何故ならば、外の拠点にはアルスの知る限り最高峰の治癒魔法師が控えているからだ。
レアの服を借りて、アルスの背中にメアを縛りつける。揺れを気にする暇などない。この三人の中で誰よりも早く外を目指せるのはアルスだ。
ロキとレアには死に物狂いでついてきてもらうしかない。置いて行くことはできないまでも、急ぐ必要はある。
(流石に気付けよ)
この階層を担当しているシングル魔法師へと、愚痴っぽく吐いた言葉は、彼女の助けが今必要だからだ。
「いくぞ、ついて来れなければ置いていく。助けるんだろ? いいな、三分以内にここから出る」
魔物に構う時間すら惜しい。一瞬で【グラ・イーター】で喰らい、もしくは無視してでも外を目指す。




