学習
唯一アルスの異形の眼を捉えることができたのは、相対する魔物のみであった。
双眸が黒風のベールに覆われていて視認できるとは思えないが。
いずれにせよ魔物は行動によって反応を示した。恐怖でもなく、驚愕でもない。
まるでアルスを抱擁せんとするかのように差し出された両腕は、しなやかな線を描いて宙を進んだ。
掌を上に向けて差し出された両手は、魔法を構築する気配を見せず、それこそアルスを欲し手招いているかのよう。
意味ある行動なのか。
魔物の反応が明確な敵意へと反転したのは腕を伸ばしきった直後のことであった。
すでにアルスの攻撃は始まっている。
魔物の頭上――天井から十本もの尖鋭な氷柱が生える。荒削りな造形ではあるが、鋭い切っ先が真下ーー魔物ーー目掛け一斉に射出された。発現位置に魔法式を薄らと構築した長大な氷柱は、地面へと一気に伸ばし続けた。【凍獄】が氷柱群であるのに対してこれはその小規模版ともいえる。完成された魔法ではなく、アレンジを加えた劣化版と言えるだろう。
魔法の兆候すら感じさせない早業であったが、射出と同時に魔物の対応も完了していた。
互いに大きな動作はなかった。魔法における情報次元でのみの攻防が繰り広げられている。
十本もの氷柱はピタリと空中で停止していた。押し込まれた氷柱が互いの身体を削り合い、前進せんと白い息をその身から吐き出した。
魔法が発現、射出されるまでの時間差は限りなくゼロに近い。
身動きのできないロキのことも考え、アルスは早々に地を蹴った。
魔物の手口をアルスはある程度把握している。ここまで系統特化した魔物ならば推測するのも容易い。
指向性の上書きと固定。
この特性は魔物側より、人間側にとって理解し易いものだった。魔法の理論化こそ今の魔法技術の根底にあるとも言える。上書き、という表現すらも情報化されていなければ出てこない――固定も然り。
完全な魔法を使いながら、何故か指向性という人間側にとって理解の及ぶ範疇に留まっている。
無論、魔法以外にもこの特性は適用されるだろう。物体が移動する際に生じる向きーーここでは指向と言い換えても良いーーにも干渉できるはずだ。
その一点はアルスに取っても理解し難い超常に等しい。
(確かに厄介な力だ。だが、魔力への干渉なら俺も負けるつもりはない)
アルスが初手として放った氷柱は、魔法として完成させず、構成情報に進行性プログラムを組み込むことによって、伸びるというプロセスを繰り返し続ける。つまり指向性も含めた情報が自動的に書き換えられるという意味だ。
アルスであれば即座に気づける類の陳腐な細工である。そういった魔法は本来改変力という意味でも、魔法という事象の結果に対しても脆弱な部分がある。
だから、この魔法を上階にいた【セルケト】にぶつけたところで、大した効果は得られなかっただろう。傷を負わせるには圧倒的威力不足。
だが、このフェリネラを模した魔物は違う。その身に纏うドレスのような黒風は物理的な耐性は皆無に近い。最も実体なのかすら危うい存在ではあるが。
故に“指向”なのかもしれない。己に害を与える如何なる存在も避けて通る。風を切って歩くのに似ているだろうか。
【グラ・イーター】による捕食の副産物であることを、アルスはこの時理解した。
喰らう、という行為には結果として対価が得られる。つまり魔力だ。一度取り入れた魔力は置換と同時に解析。これはアルスの知識内に限定されるようだが。
何より今の【グラ・イーター】による捕食は発生源である本体にも少なからず影響を及ぼしていた。感知できる範囲での捕食だけではなく、本体への捕食にも繋がるらしい。
これまでの【グラ・イーター】と大きく異なることを理解した上で、一先ずその興味を押し込むことにする。
氷柱との指向をリンクさせていた空いた方の手首をスナップさせる。
進行を阻んでいた空気の壁を一気に突き破り、氷柱は互いの身体を削り合いながら地面へと突き刺さる。鉄骨が落下したような乱雑な角度は、床から天井までを氷柱で繋いでいた。
重なるように降り注いだそれらの氷柱を、実体を感じさせない動きで魔物は全て躱しきった。
煙のような手応えのなさ。
しかし、意表を突いたという意味で成果はあった。
直撃は免れたものの重なる氷柱に身体を絡め取られた魔物は、僅かな隙間へと追いやられる。氷柱による拘束、魔物は身動きできずに猛り狂った奇声を上げた。
空気の振動は、直接脳に響いてくるかのようだった。
訓練場の置換システムに似ているだろうか。脳に激しい痛みが伝わる。
耳鳴りに近い奇声は即座に打ち下ろされた最後の氷柱によって強制的に止む。
頭上から遅れて生じた氷柱は魔物の頭へと真っ直ぐに落下していった。
予想通り、と言うべきか。
氷柱は中心部から四つに裂かれ、魔物を避けるように地面へと四方に突き刺さる。
この程度でアルスの攻撃の手が緩まることはない。すでに左手は鉤爪のように形作られる。アルスは歩きながらそれを魔物目掛けて突き出した。
空間に発生した歪みは、角材のような長方形であった。
丸太のような太さに切り取られた空間は、一打で人の頭部を吹き飛ばせるものだ。
アルスの突き出しと同時に破城槌の如き勢いで表出した空間が魔物の顎をかち上げた。
顎を砕き、陶器のような細かい破片が舞う。首がもげようかと言うほど頭が仰け反るが……。
(対応があまりにも早すぎるな)
これはアルスの予想が悪い意味で当たっていた。指向性に干渉する魔物との遭遇は初めてではない。
ただ、程度の差はある。
これほどの高レートならばいくら付け入る隙があろうと、常に上回ることなど出来やしない。アルスであろうとまだ魔物の領域に踏み込めてすらいないのだから。
付け入る隙があると言うのは、対応されるまでの数手。
アルスの予想では後四回は攻撃の猶予があるはずだった。今の空間干渉魔法への対処は、打ち止めを宣告されたようなものだった。
打ち出した空間は顎を大きく跳ね上げたが、衝撃直後、空間ごと両断されてしまっていた。景色が重なるような、錯覚さえ起こしかねない現象は両断された魔法が空間に溶け込んだことで元通りになる。
もはや対応とかの話ではない。
(ここまで来ると、成長だな)
こちらが手の内を晒すことによってこの魔物が学習している。
幾つかの疑問点が一瞬、アルスの脳内に降り注ぐ。
魔物らしからぬ魔法の構成要件。
人型の形状。
最後に“学習”。
鉱床内の魔物は最初からどこか鉱床外の魔物とは違っていた。そもそもフェリネラと同格のカリアやイルミナ、他にも学院から選抜された生徒が近くにいながら、彼女だけを連れ去るという行動に少なからず違和感は生じる。魔物に関しての多くは未解明であり、経験則で語らなければならない。
全くない話ではないが、かと言ってその時点では生きていた彼女をわざわざ連れ去るというのは……。
(人間が必要……)
強くなる方法が一つではないように、魔物にとって進化――次の段階――への道筋は必ずしも良質な魔力ばかりではないのかもしれない。
すでにこの魔物は高レートに分類されることは間違いない。その先に進むべく、取った手段。
この個体に限った話なのかはまた別だ。
瞬時に学習し、対処されたのではもう同じ手は通用しない。
(こっちの魔法を理解し始めているのか……余計に時間は掛けられないな)
アルスは一度手元のAWRへと意識を傾けた。断たれた鎖からはもう魔法式に繋がる回路はない。
短剣と鎖、同質のものとはいえ、アリスの金槍と輪の関係とは違い遠隔で扱うのに適した特性はなかった。
そう思えば一層、握る短剣が本来の役割に戻ったような気さえしてくる。魔法を構成する上では、もはや不十分だが、物理的な斬撃を加える上ではそれこそが本質なのかもしれない。
刀ほどの長さはないが、魔力操作でいくらでも補うことができるだろう。




