信頼のゼロ距離
渾身の頭突きは両者の頭蓋骨に直接響いた。
裂けた額からは濃い血が流れ落ちていく。
額をつけたままなので、果たしてどちらの血かもわからない。打ち付けられた側のアルスの方が明らかな衝撃を受けたのは間違いないだろう。
密着させた額が熱く痛む。
ロキの両手は、優しく包み込むようにアルスの頭を挟んでいる。汚れた指先が黒い髪を梳いて潜り込む。
汗や汚れ、色々な戦いの痕が指通りを悪くさせていた。
それでもお構いなしに、ロキは全神経をそこに集中させてポツリポツリと言の葉を落とす。
決して暗い色調は伴わない。緊張もなく、寧ろ落ち着いた声音でロキはいつものように口を開いた。
「お目覚めですか?」
血を流しながら、いつもと変わらぬ口調でロキはそう発した。
表面は熱を放ち、頭の芯は冷たくて心地よい。そのことを自覚しながらロキは心が静まっていくのを感じていた。
視界の端で揺らめく【グラ・イーター】など目にも留まらなかった。それほどまでにロキはアルスだけに視覚を割いた。身体に障る捕食者にさえロキが気づくことはない。
彼女は気にも留めなかったが、触れることさえ叶わない【グラ・イーター】にロキは包まれていた。いや、アルスとともに覆われていた。
冷たくも温かくもない。
何も感じるものはなかった。
だから気にすることなど何もない。
今のロキにとってアルス個人以外の全ては些事に他ならなかった。
だが、それでもロキの意識が完全にアルスへの一方向というわけでもない。
背中を向けていてもその魔法の発動は容易に感知することができたのだから。
それでも結局ロキは何一つ行動を起こさなかった。意味の有る無しではなく、己の優先すべきを心が理解しているから。
爆風というよりも、風の気配は鎌鼬に似た鋭い突風のようだった。遥か遠方へと連れて行かんとする強制的な風の流れ。
位置情報を超高速で書き換える魔法――改変を許さない強制的な指向性――それが【東の新生害気】だ。だが、これはあくまでも魔法師側の理屈であり理論。この次元の魔法はすでにロキの予測を大きく上回るもののはず。
それこそ直に受けてみるまで解明の手がかりすら掴めないだろう。
同時に対処もできないことは分かりきっていたことだ。SSレート足り得る魔力は量というより質にこそ疑うべくもなく表されていた。
諦念すらも実はロキの中に微塵も存在しない。最初は有ったのかもしれないが、今や恐れすら取り払われている。
保身などの考えはロキには無い。ずっと保身なんて言葉を自分に向けたことはなかった。存在しない言葉は発しようがないのだから。
魔力の乱流がピタリと止み、そよ風となってロキの背中を押した頃には、彼女の口元は小さな笑みを作っていた。同時に肥大化する【グラ・イーター】の存在も彼女は傍で強く感じていた。
捕食したのだ。【東の新生害気】との発動に合わせ、それが魔法として組み上がった直後――【暴食なる捕食者】は何の迷いもなく本能に従った。
密閉空間における【東の新生害気】は無類の強さを残虐性でもって表す。一度乱流に巻き込まれれば生身の身体は、壁面にぶつけられ卵を割るより簡単に潰される。
これが外気に満ちた外であれば、風の行く先に身を委ねざるを得ないだろう。どこまでも、遥か彼方まで連れ去られる。
魔法の分類上、確実に【極致級】に該当するであろう魔法を、【グラ・イーター】は一瞬の内に喰らい尽くす。
暴食の名に恥じぬ、貪欲ぶりである。
ただ、その行動はどちらかといえばロキの思った通りの結果に過ぎなかった。
何よりそれこそアルスの返事だとさえ思えたのだった。
直後、膨大な魔力を喰らい、吸収したアルスから軽口が出る。
「頭が割れそうだ」
己の意識を手放した覚えはない。だが、この時、確かにアルスは目が覚めた思いだった。
自分の意思で行動していたつもりだったが、脳に霞がかったようにあった気配は新たに受けた表面的な痛みによって晴れていた。
何より、頭の中がやけに冷たく感じられる。吸った空気が脳に沁みるようだ。
ロキに頭突きされたことも覚えているし……フェリネラの姿を確認したことも確かに覚えている。
しかし、スモーク掛かったフィルターを通して見ていたように、他人事として切り捨てていた。
続く言葉をアルスは噛みしめるように吐いた。
「でも、スッキリした」
状況の“正しい”理解はできない。何せアルスの視界は全てと言って良い程ロキの顔で埋まっていたのだから。
アルスは感謝の言葉を口にはしなかった。まだ何も始まっても終わってもいない。
何も変わっていない、自分は何も変えてすらいない。
恥じることも自責する言葉も、己の行動を後退させる感情をアルスはねじ伏せるように胸の内に押し込んだ。
一つわかることは、額のズキズキした痛みだけが、身体の機能を正常に動かしているということ。
「それは何よりです……」
額をつけたまま、溢れた喜色をロキは隠そうともせず顔を綻ばせる。
確認ではないが、至近距離で交わるアルスの瞳は左右で完全に明暗が分かれていた。正常な澄んだ瞳と、毒されたように黒に沈む瞳。
でも、両の目を飲み込もうとしていた黒は押し留められている。
「大丈夫ですか」と心配を口にせず、ロキはいつの間にか胸を撫で下ろしていた。【東の新生害気】を捕食したのだ。【グラ・イーター】との力のバランスは崩れたはずだ。以前のように暴走してもおかしくはない。
そんな心配もアルスの一言で察してしまえる。
だから代わりに、
「あまり力になれそうにありませんけど……」
ロキの身体の具合は決して良いとは言えない。役に立てるだけの余力が残っていないのは、アルスでもわかる。
だからロキが続ける言葉をアルスは引き継いだ。それを彼女に言わせてしまう己の甘さをどこまでも悔やむことになりそうだった。
「あぁ、始めよう。無謀で愚かな行為を」
フェリネラの姿を確認した時点でやるべき事は決まっている。ロキに教えられるまで気づけなかった自分が情けないほどに。
生死の確認は後回し、やるべきは彼女の身体を取り戻すことだ。
内心で込み上げて来る自嘲は、この行動が愚かしいと思っていた過去の自分を認めたからだった。厳密には、頭突きされる前までの“自分”。
これから自分がやろうとしていることをアルスは知っている。外界で無残に命を散らせていった愚者に等しい。感情的で、直情的で、身勝手な行動。
未来永劫理解できないだろうと思っていた無謀な自殺行為。
仲間のためと、息巻いて自らの命を棒に振る愚か者。
だが、それは皆等しく、そして紛れもなく“人”であった者達だ。
(無謀か……人か…………その資格すら俺にはないのかもな。自棄にもなれない壊れた俺だ。それでもロキは俺を人にしたいらしい)
最強の称号を与えられてもなお、未熟な生き物であると自覚せざるを得ない。
まだ人を残していることを教えてくる。
自分の傍、手の届く範囲の小さな居場所だ。そこすらも守れない者に、守れる物は一つもありはしないのだろう。
アルスは片腕をロキの背中に回し、無言で一度だけ強く引き寄せた。
「…………」
「ロキ、一度だけ無理をさせる」
「えぇ、そう言ってくださるとわかっていました」
馬鹿になりきることはできない。
助けるための手立てがあるのだから。多くは語らない、自分を信じろとアルスは有無を言わさない堅い意思の下、ロキに命令した。
それがロキにとってどれほど心打たれる言葉だったのかは彼女しか知らない。知らなくて良いことだ。
腕が離れ、額が離れる。二人の間に小さな空間という距離が生まれた。
物理的な距離など感じさせず、互いに息するように心が通っている。もはや二人に距離という概念は存在しないのかもしれない。
「一瞬だ、一瞬で終わらせる」
「はい」




