再起のない絶望の縁で
背後で遠ざかるアルスの姿が完全に消え、響いていた音さえも消失した辺りで、ロキは急速に足を緩めた。
絶対に見落としてはいけない。魔法師ならば絶対に気づけるはずなのだ。
百戦錬磨の彼が気付かないはずがない。それでも彼は気付かなかった。
ここに降り立ってから、それはずっとこちらを呼んでいたのだから。
無言のままロキは歩き始める。いくつかの分かれ道に脇目も振らず、構造を熟知しているかのような足取りで。
しかし、一度だけ、ほんの少しだけ、ロキはその場に留まることを余儀なくされた。
良く頑張った。良く持ちこたえた。
自らを慰めるような声が内側の震えとともに迫り上がってくる。
歯を食いしばって、表情を固定していても、眉間に様々な感情が寄ってしまう。刻まれた悲嘆の皺が彼女の顔をどうしようもないほど、悲しいものへと変えてしまっていた。
胸が張り裂けそうだ。
発作に似た強い動悸を鎮めるため、ロキは服の上から心臓の辺りを握り締めた。
“一体いつから”そんな自問に意味などなかった。
些細な違和感は、綻びとなって壊れる兆候を示した。あの一瞬、ロキの中で悍ましい物を知ってしまった気がした。
身体の不調?
(――違う!)
もうアルスの中身は壊れていたのだ。無理をさせてはいけないとそう決心していたが、手遅れだった。
わかっていればアルスをこの場に向かわせなかっただろう。決して叶わぬ抵抗だとわかっていても、ロキは絶対に止めようとしていたはずだ。
波濤のように押し寄せてくる己の情けなさ。
人の身体――もっといえば魔法師として魔力を有する身体は寸分の狂いもなく歯車が噛み合っている状態に等しい。これに異物が挟まったりすることはあれど、アルスのそれは歯車そのものに罅が入ってしまっているのではないだろうか。
歪んだ歯車は合致することはなく、今のアルスは強引に回しているように感じられた。無数の歯車が悲鳴を上げながら、僅かに全体を動かしているに過ぎないのでは……。
無理をさせてはならないのではなく、これ以上何もさせてはならないのだ。
全幅の信頼を寄せ、命までも捧げると誓ったロキにとって、二言三言のやり取りははっきりとした赤信号を点した。
「でも……」
そう、顔を上げたロキの瞳はまだ屈してはいない。支えて欲しいと言われたから。
「言われるまでもありませんよ」
傍にいると決めた時より、一時も忘れぬ決意がロキにはある。ならば、彼がいる限り、この世界で生きている限り、ロキの芯が折れることなどありはしない。
「このギリギリで気づけたのは、運が良かった……といえば良いのでしょうか」
乏しい言葉の旋律に力など入ろうはずがない。
彼自身が気づけていない異常。肉体的な故障ではない、アルスの反応からして、間違いなく魔力が関係しているはずだ。魔力はその者の個人を定義する上で大きな割合を占める。
心の状態をダイレクトに受けてしまうのだ。
皆、それぞれに直通の心と魔力を繋ぐ太いパイプを持っていると思えばいい。いくつも張り巡らせる魔力経路。確認されていないが、心境によって大きな影響を齎すと言われているのは周知の事実だ。
様々な方法で各々パイプのバルブを締めている。
それは心を制御する術であったり、強い精神力であったりと、十分鍛えられる余地のあるもの。完全ではないが、魔法師はいかなる場面に遭遇しようと自制し、備える術を身に着けているものだ。
アルスならば当然……。
(違う……アルは遮断することで身を守ってきた)
蒼白となった顔でロキは遅ればせながら気付かされる。
強固な殻で自分の心を守ってきたアルスは、だからこそ最高峰にまで昇り詰められたのだろう。多くの死から目を背けたのではなく、拒絶してきたのだ。託されないため、背負わされないための個人主義……。
「アルは気づいていた! 違う、気づいていたのは自分の変化」
学院で過ごした僅かな時間が、アルスに変革を齎したのだ。ロキもそれは知っている。傍で見てきたのだから誰よりも知っているし、それを誰よりも喜んだ。
昔のアルスは変わったが、根本的なところでやはり彼は彼なのだと嬉しく思っていたのだ。
だが、そこに最大の見落としがあった。
そもそも軍が未成熟な子供を外界の最前線に立たせない理由。それは心の問題だ。
死に対して無防備なのだ。
自己防衛として個々人での向き合い方は存在するが、不安定で未成熟な子供では往々にして壊れてしまう。魔法という叡智とともに再起できない程、砕かれてしまう。
考えないようにしつつも、ロキの足取りは一定のリズムを刻み、思考が先へ先へと連動するかのように進んでいく。
鉱床内部で、まず気付かなければならない不自然な魔力の混在。
魔力という表現はもっと感覚的な物に近かった。この階層に降り立って、アルスとロキに向けられた風の流れ、滞空していた膨大な魔力。不純物を含まないエネルギーの中に微かに漂う意志ある魔力。
細い煙のような魔力がこちらを誘っていた。
奥に進むにつれ、徐々に発信者の存在を意識させられる。
魔物らしからぬ、不思議な感覚。
決して人の発せられる類の魔力ではないにもかかわらず、それが魔物であると断定するのも難しい。
あまりにも不可思議な感覚に見舞われる。吐き気を催すような禍々しさに染まった魔物独特の魔力と少し違う。
そこにはどことなく人間にのみ許された、感情という情報が組み込まれているような気がしてならなかった。
この階層にフェリネラがいる可能性が高いせいか、先入観によって無意識にそう思わされているのかもしれない。
きっとそんな予感がロキに、フェリネラ救出が近いと感じさせたのだろう。
ロキはアルスと約束した“三十分”という制限の中で確認しておかなければならなかった。
先程までの自分の考えをロキは覆した。無駄な戦闘をさせないという使命は撤回しなければならない。
ここまでのアルスの様子から上階にいたような高レートでもない限り、多少の戦闘に支障はないはずだ。
もっと警戒すべきは……。
知らぬ内に、心を守っていた殻の消失によるダメージ。
(あれはフィアさんとアリスさんと行った外界が原因のはず……アルは二人にきつく指導していたつもりだった……けど)
考えてしまったのだ、万が一を……。
アルスは頭では誰よりも理解している。外界の非情さを説く必要などない程に。
だからこそ、頭と心で乖離する。
「――――!?」
しばらくすると、より相手の誘導を知覚できることによってロキの神経が一層研ぎ澄まされていく。
もう考える必要はなかった。
アルスと分かれた段階で彼女の中では決断していたのだから。
断腸の思いは超速で過ぎ去った。後悔も不安も、決断までの間に処理されていたのだろう。支えとして……いいや、アルスを守るための選択をロキはすでに下していた。
彼のためだけに生きてきたという自負が、ロキに迷いを生じさせない。
自分のためじゃない、彼のため。
アルスに幾度と窘められても、一生涯変わることのない優先順位なのだ。だからこそ、迷わないし、嘘を吐くことに躊躇いがない。
魔力の線ともいえる不可視の煙は、徐々にどんよりと墨色に変化してきていた。
ここまでくれば、魔力であることに疑いはない。だが、やはり近づき、上階の【セルケト】同様、化物級であるとわかっても魔力情報に関する疑念が晴れるわけではなかった。
寧ろ更に深まったとさえ言える。
ピタリと足を止めたロキの視界に何かが掠めていった。即座に腰に巻いた収納着へと手を入れ、指の間にナイフを挟む。
ずっと奥の方でそれは壁面に空いた穴の中へと吸い込まれるように移動している。いや、ロキが微かに見たものはもっと大きな塊であった。幽鬼のような、カーテンの揺らめきを残して壁をものともせず透過していったのだ。
背筋に走る緊張感は、気付かぬ内に手を湿らした。
心臓を鷲掴みされた気分だ。強制的に引き起こされる早まる呼吸。
しかし、ロキの瞳には変わらぬ強い意志のみが宿っていた。
奇しくも一度、化物を間近で見ていたことが幸いしたのか。腕に刻まれた奇妙な式が皮肉にも耐性を付けてくれていたのかもしれない。
危機感知能力の欠如――麻痺といえるのだろうが、それでも今動けなくなることだけは避けられた。
解せないのは、魔力の圧力や量だけで、そこにあの【ヨルムンガンド】のような本能的な拒絶反応はなかった。
「ふぅーー」
震えながらも一呼吸吐いて「やはり、呼んでいる」とロキは意識を切り替える。ここからは更に緊迫感を持って事に当たらねばならない。
まずは状況の確認。
魔物の特定に加えて、フェリネラの生存確認をしなければ話にならない。
情報を集めるのが先決だ。
しかし、気づくとロキは胸中に鼓舞する声を上げていた。
(大丈夫、フェリネラさんを助ける……助ける……助ける……それで上手く行く)
早まる鼓動に、呪詛のような目的を刻み込むと、ロキは相手の誘いに乗る。いつでも離脱できるように【フォース】も発動待機させておく必要もあるだろう。
まずはひと目見て…………それから判断しなければ。
言い訳のような感情は、アルスに嘘をついてしまったことへの罪悪感が残っていたのか。
静かに、それでいて素速く後を追いかける。標的は壁を擦り抜けていったが、いくつも空いた穴にはわざとらしく痕跡を残していた。消え入りそうな魔力の流れが一方向を指し示している。
そしてロキは何もない不気味な部屋を見つけた。少し見ただけでも、そこは自然に出来たものには感じられなかった。上階で見たような、丸みを帯びた不規則なドーム状などではなく、計算的に作られた四角い空間だった。
切断されたようなミスリルの綺麗な断面もいくつか認められる。
鉱床内部において、そんな感覚を狂わすような場面にロキは出くわしていた。
(ここの奥に続いている。あまり時間を掛けていられない)
入り口の端で顔を少し出して覗いてみても、先は視界がぼやけて確認することはできなかった。
ミスリルによる影響もあるのだろうが、黒い風のような魔力が主な原因であるのは間違いない。
ロキは左手にナイフを挟み、右手を腰に回して【月華】を握る。
即時離脱を可能な状態にしておくための準備。そう、現段階でロキは相手との戦力差を把握していた。
「まともに戦えば殺される」
小さく溢して、それでも確認のためにロキは一歩、二歩と部屋へと侵入する。
直後、あれほど視界を妨げていた黒い風は突如として晴れて、部屋の隅へと蜘蛛の子を散らすように吹き付けた。
「あ、あ…………」
取り払われた炭のような風の先――全貌を視界に収めたロキは、声にならない声を漏らしていた。
手からナイフが滑り落ちて甲高い音を響かせた。
なんで今なのか、そう思わずにはいられなかった。
震える唇の代わりに、頭の中が一色に染まっていく。
(ダ、メ、ダメダメダメ…………こ、これじゃ、アルは壊れてしまう)
全身で拒むようにロキの身体は震えていた。魔物が怖いのではない、これを見たアルスを見たくないのだ。
今のアルスにこれだけは見せてはいけない。それだけは間違いなかった。
喘ぐように口を開けたものの、衝撃的な光景に声が紡げない。咄嗟に頭で絞り出した声が脳内で強い警鐘として反響していた。
ロキの中ではすでにこの場から離れるという選択肢は潰えている。無論、アルスに報告することもできない。
ぐっと顔に力を込めて、ロキは目を伏せ、口を閉じた。
血を吐くようにたった一言、ロキはその既知とした者の名を呼んだ。人間らしい時間を共有した数少ない存在。彼が生きてきた苦難の人生の中で、ほんの僅かだが、彼の心に触れることができた大切な女性の名を。
「フェリネラさん」




