表出する故障
地下四階層――そこに降り立って真っ先に感じたこと、空気の淀みというものをこれほど体感したことはなかった。
何もかもが眠りに就こうとしているかのように、どこかぼんやりとした温い空気が漂っている。空気というものがその場に残っているとするならば、きっとこんな地下深くにある空気は何年も、何十年も前のものであるはずだ。
粘液のように肌に纏わりつく感覚は上階とは比較にならない気持ち悪さがあった。
この中を歩くだけで川の流れに逆行している気にさせられる。
地下四階層に降り立ってロキはすぐに感じ取った。ここにいるだけで気分が悪くなるばかりでなく、魔力というものを知覚し難くなっていた。探知という方法なり、自身の魔力を用いて知覚するのではなく、平常時でこれほど感じ取れたことなど過去無かった。ここでは魔法師ではない、一般人でも魔力を感じることができるだろう。
魔力というものはどこにでも存在し得る生命の根源に等しい。故に知覚できるできないに関わらず、ありとあらゆる場所に存在しているものなのだ。
加えて誰かに押されているような誘導性を感じた。明確にはっきりと理解できる意志。魔力の海に紛れて小川のような小さな流れがあった。これだけで左右の分かれ道の内、どちらを行けばいいのかがわかる。
(不気味な程の静けさ……でも、魔力に乗せて何かが手招いている?)
魔力が根源的なエネルギーであると同時に、発する物によって不純物足る情報を内包する。故にロキが「手招いている」と感じたのは欲求に似た強い感情を伴っていると思ったからだ。
だが……一先ず現状を正しく把握するため、
「何でしょう。ここには残滓ではなく、自然的な魔力が満ちている気がするのですが。あり得ることなのでしょうか」
警戒しつつも、これまでの階層との環境的な変化にロキは思わず口をついた。
酸素が薄いのはもちろんのこと、しかしそれだけではない。ここに溜まっている豊富な空気は酸素ではない別の成分が多いような気がしたのだ。
その正体が魔力である事実は肌で十分感じ取れる。
「見ろ」とアルスの示す先を目で追ったロキは原因を見た気がしていた。
「ミスリルのせいだな。鉱床内部に無数にあるんだから、互いに干渉して流動しているのかもしれない。そうなるとここが明るいのはおそらく上階の魔力が原因だろう。これほどの純度だからな。AWRの素材ということも考慮すれば僅かに取り込んだ魔力が内部を通り道のように通っているのかもしれない。上階で集められた魔力が下へと集積されていることになる」
内部にくすぶる淡い光は言われて見れば、流れているような気がしてくる。それがここの空気に当てられた目の錯覚であったとしても確かめる術はない。
本来純粋な魔力とは無縁の鉱床内部で、これほど豊富な魔力が存在している理由。アルスが今言った仮説以外に説明がつかないのも確か。
「ミスリルが取り込んだ魔力情報を浄化しているのとしか考えられない。劣化を防ぐ? 活性化というべきか」
だからこそ、ここには情報を含まない魔力しかないのだ。
本来そうした場所というのはいわゆる魔物や人間が存在しない自然をいう。こんな場所に生命が存在しているはずもないので、推測するまでもなくミスリルによるものに違いない。
幾度となく外界に出ているアルスでもこれほどの魔力を感じたことはなかった。
「そんなことよりも」
顔を振って辺りを確認するアルスにロキも続く。
地下四階層の構造は幅広く高い天井の通路が不気味に行き先を示していた。アルスとロキの周囲には左右に伸びている通路。
どちらも先は淡い光に包まれてどこまで続いているのかもここからでは見通すことはできない。どこかで横道があるのだろうが、左右を見ても、それはずっと先のように思われた。
構造自体が少々地下一階層と似ているが、全く同じというわけではない。
早速間違い探しのような指摘が入った。
「さて、嫌な感じはするな」
「はい。この穴は自然発生したものではない、ということですね」
拳程の穴が壁面に空いていた。それも気が遠くなる程の数が、不規則に並び、ちょっとした風の通りとなっている。
微かな風音が笛の音を思わせ、木霊するように連続して聞こえてくる。
直線的に覗き込むことはせずに、目を向けると奥からは風とともにミスリルの光も漏れていた。
「やはり迷路のような構造になっているのでしょうか」
「だろうな。上とそこまで変わらないと思うが、異様さは増したな」
「不気味な程、静かですからね」
無論、風音ではなく魔物の気配。
化物の存在の痕跡。そういった魔力的な異物を差して物音が消失してしまっている。
「あぁ、上の戦闘も騒々しいが、強力な魔法に頼るまでもなかったみたいだな。変異レートと言っても通常のボドスとそう大差なかったみたいだ」
「…………」
ロキはちらりとアルスの顔色を窺った後、意を決するかのように意識して口を開けた。
僅かながら顔に緊張が走るのは避けられなかった。不安の鐘が胸の内で響いていた。
アルスの盾となって彼よりも前で戦うことは、パートナーとしてロキが願っても叶わなかった場所。それが彼の不調によって本来の役割を担うことになったのは、不本意ではあるが、今アルスを無駄に戦わせることは絶対にできない。
ロキは気息を整え。
「この階層は思っている以上に広いはずですよね?」
「ざっと計算しても一階層の倍はあるだろうな」
「アル……」
「ん?」
不安げな声が不本意ながら表に出てしまったロキの心情を察して、アルスはどことなく目を向けた。
「そう心配するな。お前が思っているよりはマシだ。ここまで戦闘らしい戦闘がなかったのもよかったんだろう。快復? には向かってるはずだ。魔製図なんかで体内魔力の調整が必要なのかもしれないが、それでも十分だ」
アルスの力強い目を見て、ロキも安堵したとばかりに大きく肩で息を吐いた。
しかし、やはり原因がわかっていない状態では不安は残るし……積もる一方だ。
フェリネラ救出が近づいているため、ロキはキリッと背筋を伸ばしてアルスへと向き直る。
「いいですか。何度も言いますけど、アルはくれぐれも無駄な消耗は避けてください。これは我儘ではありません。最善なのですからね!」
少しだけ語気を強く、ロキは無茶をしがちな最高位へと諫言する。
「わかってる。今の状態が良くないのはわかってる、俺の身体だしな。それに多少の無茶で済むならば……それくらいは信用してくれ」
ロキの言葉を受けて、アルスも真摯に返す。
真剣な返答は、嘘など入り込む余地がなくロキを頷かせた。しかし、微かに落ちた顔の翳りの中でロキは「信用してますよ」と消え入りそうな声を漏らした。
ロキの中で微かに鳴った不安という音は徐々に収まりつつあった。都合よく解釈してしまっているのか、いずれにせよ“気のせい”だったのだろうと決着を付けたのだ。
そんな矢先――。
「さっさと助けるぞ」
今一度左右を確認するアルスの挙動をロキは些か不思議な感覚に見舞われて待った。
アルスに言われるまでもなく、ロキは右の通路へと足を向ける。
直後――。
「魔物の気配が一切ないというのも不気味だが、そうも言っていられないな。この階層を全部捜索する勢いで探し回るしかない」
(えっ……)
心臓が一度大きく跳ねた。余韻は衝撃となってロキの足を地面に貼りつかせた。背中で発したアルスの言葉は確信的な程に、ロキの中の不安を膨張させる。
彼に隠れるように前へ持っていった手は血が滲む程強く拳を作っていた。
微かに身体が震える。ロキはアルスに背を向けたまま唇を噛んだ。
くしゃりと沈痛に歪めた顔で俯いてしまう。
本当に一瞬、ロキの中で思案する間もなく何かが決まった。
汗なのか血なのか、じめっとした手を開き、何事もなかったかのように振り返る。
「アル、やはりここでも探知は機能しません。でも、二人で一緒に探し回ったのでは時間的にも掛かりすぎてしまいます」
「ロキ……」
なんとなく、アルスも意図を察したのだろう。鋭くなった目を迎え撃つように、機先を制したロキはそのまま先を続けた。
「もちろん、アルの言いたいことはわかります。私も上でセルケトなる魔物を目視していますから、力の差を見誤るようなことはありえません。寧ろ私はアルの方が心配なくらいです」
微笑を作り、ロキは「なので」と釘を刺すように指を一本立てる。本来ならば真っ先にアルスが提案しそうな内容。
それをロキがあえて口に出さなければならない。
「なので、時間を決めて一度ここに戻ってくるのはどうでしょうか。左右から行けば、かなりの範囲を捜索できます。危険がなければフェリネラさんを救出し、ここまで連れてくる。少しでも困難であれば一度引き返し、アルと一緒に向かう。もちろん、アルも高レートとの戦闘になるようでしたら、一度ここに引き返す」
妥協案として提示された方法は、先程ロキが言っていたようなアルスに無駄な戦闘を強いる可能性があった。それでも効率良く捜索できるのであれば、止むを得ない提案だ。
一刻を争う今、探知もできない上、広大な空間での捜索は、身体を使って直接動くしかない。
少しだけ考えたアルスは更に条件を付け加えるべく、ロキの指の上を手で覆って降ろさせる。
「三十分だ」
「わかりました」
「ここではお互い連絡が取れない。だから上位級並の攻性魔法を近場の大きいミスリルに直接放て。距離にもよるだろうが、これだけ澄んだ場所なら波及するかもしれない」
大きく頷き、ロキはライセンスで時間を確認する。鉱床内部では正確に機能するかは怪しいが、一先ず時刻表示だけは生きているようだった。
「アル、必ずフェリネラさんを助けましょう」
「もちろんだ」
まるで互いが反発するかのように、アルスは左側へと風のように駆け、ロキは右側へと走っていった。
二人の背中が見えなくなるのは早かった。




