従える古き者
◇ ◇ ◇
エクセレスの左側から、少し寒くすら感じる旋風が身体を包み込んでくるかのように吹き荒れた。まるで人を避けるように吹く風は次第に、強く身体を取り巻き揺らしてくるようだった。
人によっては全身を愛撫されているかのように感じただろうか。
男性隊員がぐっと足を踏ん張り、両手を重ね顔の横で構えた。その指は鉤爪のように曲げられている。頑丈な扉をこじ開けようとしているかのようだった。
ぐっと合わせた両手を引き、十本の爪で空気を引き裂くように一気に振り抜く。
取り巻く風の渦が、彼の動きに従って空気を引き裂き、いくつもの風の層を生み出した。それらは吸い寄せられるようにボドスの群れへと隙間を縫うようにそよぐ。
風が戯れ、その進行を阻む者の輪郭に沿って吹き抜ける――。
熱い鉄を叩くようなギンッという不快な音が突如鳴り響いた。耳を覆うまでもないが、エクセレスは反射的に表情を歪める。
【翼風の洗礼】は対象とする標的に対して、いくつもの風の層をぶつける。
それは質量のない糸のようなものだ。いくつもの細い風が颯爽と標的を回り込み、吹き抜ける。そして物質の輪郭に沿いながら、薄く肉を裂いていく。
群れに突風が吹き抜けた直後、次々にボドスの身体を切り刻んでいった。微かな傷をつけ、終わったかに思われた後、風の流れは一瞬にして豹変する。後を追うように突如として乱れた気流が、無差別な刃となって与えられた傷口をより深く引き裂いていく。傷が目印となっているかのように、荒れ狂う旋風にボドスは細切れになっていった。
舞い上げられた黒々とした肉片。
幸い、風の向き的にファノンに体液が付着することはないが、真っ先に漂ってくる濃い異臭は鼻の奥を強く刺激してきた。
そんなボドスの塵化を克明に照らし出す光源が今度は右側から放たれる。
その魔法の形状に最前線で戦っていた仲間は皆、一人を残して後ろまで退避していた。
【溶流の右腕】を行使した女性隊員は肩を支えるように手を添え、拳を作った右腕にぐっと力を込めていた。彼女の右腕、肘から先は全て真っ赤な炎に包まれている。
黒煙は彼女の袖を焼いてしまったためだろう。
力強い眼差しは、己の炎に包まれた右腕ではなく、更に先へと向けられる。
ボッと空間が燃え盛ると、瞬く間に燃え広がって巨大な右腕を象った。召喚魔法の一形態として、彼女は炎に包まれた巨人の右腕を構築したのだ。
いや、その炎はすぐに粘性を帯び始め、岩漿となって地面に垂れ落ちていく。
彼女は連動する巨人の右腕を引き、単調な動きで勢いよくボドスらを薙ぎ払う。支柱のせいで多少可動域
は制限されるが、それでも一振りで三十体近くを焼き尽くした。
魔核を捉えられずとも身体を焼かれ、付着した岩漿を取り去ることは難しい。寧ろ、数秒の後に固まり枷となるだろう。
僅かに死に損なったボドスは苦痛に奇っ怪な音を発して地面の上でのたうち回っていた。熱源を離れ、急速に冷え固まる岩漿と一緒に、地面と接着して身動きが取れなくなっている。
それでも十分ボドスの身体を炎に包む高温だ。
思い切った戦略に見えて、実に効率的であったのは一目瞭然だ。
なお、この部隊の連携において、ファノンが直接指揮を執ることはあまりない。そのため、隊員達の間で指示を出す者が決まっており、これは戦況を俯瞰的立場で見られる後衛がその役目を担う。
本来ならば副官であるところのエクセレスが担うべきなのだろうが、彼女の探知の特性や、ファノンのAWR運びなど手となり足となる必要があった。
隊員に女性が多いのは身の回りの世話も兼ねるためだが、当然戦闘力としても申し分ない。
もちろん、ファノンが非情で我儘だということではない。少なくとも部下が確実に勝てないであろうと判断すれば、手柄といって自ら進んで前に出る。
いくら長い時間を過ごしていても腹の中まで確かめることはできないが、エクセレスはファノンのそういうところを特に好ましく思っていた。
ボドスを一度に半分近く倒したのだ、十分状況を打開するに足るものである。
(少々魔力消費が気になりますが、正しい判断です。これで突破口を切り開くことができた)
エクセレスの心の称賛は些細な気掛かりを上回る状況判断に塗り替えられた。この際、多少の魔力消費は仕方ない。予想外の抵抗に遭い、負傷者を出すよりマシだろう。
魔物に動揺は期待できないが、それでも強い抵抗にあったのだ。
一気に数を減らした現状にファノンの部隊員達は、すぐに動き出す。一斉に塵化が始まり、魔力残滓が舞う中を駆け抜けて再度狩りを再開する。
ボドスが持ちうる戦力は武器の生成にあらず、言うなれば人間を凌駕する肉体によるところが大きい。
武技などあろうはずもなく、用途としては実にシンプルである。
魔法師として実戦で練磨された技術に対抗できるはずもない。
ボドスの武器は確かに魔法師が扱うAWRと同じ形状である。武器と呼ばれる物であるのは確かだ。だが、見よう見まねはそこまでであり、扱う側の練度は大きく掛け離れている。
いわば力任せの攻撃に対して技術で対抗する。
ファノンの部隊員達は一気に畳み掛けるべく、各々至近距離で行使できる魔法を存分に発揮した。
士気の高さを維持しつつ、エクセレスも時間の問題だと結論を下した。だが、この隊の中で唯一不気味に沈黙を貫く者がいる。
先程からエクセレスも気になってはいたが、やはり今考えても詮無いことだと感じた。
だから、エクセレスがファノンに声を掛けようかという刹那、彼女の視線はファノンではなく、ボドスの群れ――その奥へと視線が吸い寄せられるように向いた。
グチャ……そんな怖気を孕んだ異音が強調されるように鼓膜を震わせた。
背筋が強張り、無意識に筋肉が硬直してしまうのは、飛び込んできた生々しい音の出処が人間だったからだ。否が応でも想像してしまう。今の音は魔物から発しえないものだと。
地面をバウンドし、仲間の隊員がエクセレスとファノンの横を通り抜けて吹き飛んでいった。魔物という存在がいなければ、人間がボールのように弾き飛ぶ原因を見出せなかっただろう。
噴出する血が地面に撒かれる音というのは、どうしてこうも鮮明に聞こえてくるのだろうか。
仲間の生死など気にも止めずにファノンはずっと奥に視線を固定したまま。
エクセレスも心配し駆け寄るなんて愚行は犯さない。何が起こったのか、探知魔法師として瞬時に察知できなかった己を責めながら注視する。
ボドスの群れや、魔法によって撒かれた魔力、魔力残滓が探知を困難なものにさせていた。
ズズズッとエクセレスの首元を痣が這い上がってくる。
「エクセレス、いつからいたのか知らないけど……いるわね」
「申し訳ありません。気づくのに遅れました」
「いいよ。私だってなんとなく見えただけだし、嫌な空気がしてたからだもん」
「ですが、間違いなくいますね。おそらく外で探知した時に感じたものでしょう」
「なるほどね。じゃあ、あのでかい親玉は倒せば……へぇ~珍しいのが出てきたわね」
ファノンが自ら前線に立つ宣言をしようとしたその声は、分析のためか、記憶から掘り起こす作業のためか、尻すぼみに小さくなった。
小柄なボドスの三倍はあるであろう巨躯が、ヌッと薄暗い奥から姿を現した。まるで指揮官のようにボドスを前で戦わせ己は戦況を伺っているかのような立ち位置。
もっとも姿を見せた魔物はそれらしい知能はなく、寧ろ好戦的といえる種であった。
実に異形の化物らしい真っ黒に塗り潰された双眸。潰れた鼻に、大きな口は下顎から上へと突き出た牙がある。
獣の毛を思わせる太く縮れた体毛が、髪のように生えていた。
身体の構造からして人間とは似ても似つかないわけだが、それでも咄嗟に連想してしまうのはこの魔物が二足歩行だったからだろうか。
屈強に見える体格。不自然に隆起した外皮は何本も束ねたチューブを捻ったような印象さえ与える。
何より特徴的なのは、頭の両側面に角が横に伸びていることから、一目で【オーガ種】と判別できるだろう。
そして既知としているのか、ファノンはどこか素っ気なく口を開く。
「【餓猿鬼】」
「――!! オーガ種の中でも一番初めに発見報告があった個体名ですか」
ファノンの口から告げられた個体名は、まさに種として【オーガ】が認知されるに至った最初期の魔物。




