恵まれた選択
ファノンの何気ない一言によって、空気にひりついた気配が混じり込んだ。
非魔法師であろうと、これほど異様な魔力の気配を感知できないはずはない。そしてこれほど、感情の機微を感じ取れるものもないだろう。景色が歪み、肌に吸い付くような粘性の高い濁流に呑み込まれたみたいだ。
感情の赴くままに魔力を発した巨漢の男。ガルギニスのが纏う鎧から蒸気が上がっているような濃密な魔力が揺らめいている。
副官も、エクセレスでさえもシングル魔法師が放つ純粋な敵意が満たす中で、迂闊に言葉を発せずにいた。
ガルギニスは堪えるように言葉を絞り出した。
「冗談も休み休み言え」
「アハッ、気が短いのは治ってなかったんだ。実際、過去の老兵が息巻いたところで実力が向上するわけないし、ただの予想よ、予想……高確率で当たっちゃう予想」
冷や汗を流すエクセレスの目の前で、この隊長は悪びれる様子もなく面白可笑しく言ってのける。その胆力はさすがのシングル魔法師と言えるが、この場では控えてもらいたかった。
親しくしろ、とまでは言わないが、それでもこれから共闘しようという時に、この険悪なムードは好ましくない。幼いとは思う一方、ある意味では仕方のない側面もある。特にシングル魔法師は良くも悪くも癖の強い者が多く、基本的には協調的ではないのだ。
その意味でいえば、過去アルスとジャンが共同作戦を実施したのはまさに二人の馬が合ったというところが大きいのだろう。
普通ならばそうはいかないし、エクセレス自身こうなる予感はあった。反骨精神や反抗心ではないが、ファノンの性格上、他国のシングル魔法師相手に一歩も譲る気はないのだろう。
そしてエクセレスは二人の会話の中で一つ――擁護するわけではないが――正しいと感じる一語があった。
それは……。
――オルドワイズ公はすでに帰らぬ人となっているでしょうね。外界を知り、武神とまで呼ばれる男。引き際は十分心得ているはず……。
三時間という長時間が意味するものは至極簡単な答えだけだ。目的が救出という以上、時間は限られたものに変わる。それは同時に救出として援軍に駆けつけたファノン、ガルギニスにも共通する。すなわち遅きに失した感が強いのだ。何よりこの救出という任務そのものの前提は、後続の二人の部隊にも大きな影響を齎すはずだ。
エクセレスは背後からファノンに叱責ともつかない圧を発した……厳密には念じた程度だが。
いずれにせよ、諌める行為がガルギニスの目に止まったのか定かではないが、彼の憤怒は消沈したように鳴りを潜めた。
彼もエクセレス同様、理解はしているのだ。が、元が付くとはいえシングルの名を冠した程の実力者であるのは彼自身が良くわかっているだろう。
ガルギニスはテーブルにドンッと手をつき、
「どちらにせよ、この場にはオルドワイズ公はおられない。状況が状況だけに俺だけでもすぐに向かおう」
表情を明るくする副官とは対照的に、ファノンは眉間に小さな皺を作った。
「あんたのとこの脳筋バカは勝手に突っ込んでくれてもいいんだけど……情報がいくつか足らないわ」
ファノンは拳を作った手の親指を唇に合わせながら簡易椅子をエクセレスに持ってこさせる。
急を要するであろう任務にも関わらず彼女はどっしりと腰を降ろした。
そして指を二つ立て。
「一つ、オルドワイズが救援要請を出した原因。もう一つは、学生が撤退したとする肝心の魔物の情報ね。この辺りがちょっと曖昧で、嫌な感じ……」
直感での判断だが、シングル魔法師であるファノンの予感は論理的な推測よりも当てになる。
無論、相手に同意を求めることはできないが、いくつも戦地をともにしたエクセレスには、大いに賛同できるだけの経験があった。
正直、この辺りは長年シングルの座を守っていたファノンの卓越したセンスである。
もちろん、相手に伝わり易く噛み砕くのは副官であるエクセレスの役目なのかもしれない。
彼女はわざとらしく唸ってから会話に割り込んだ。
「ファノン様にしては珍しく慎重ですね。そうですね~、少なくとも鉱床内部の構造。オルドワイズ公の救援要請は現戦力の不足を意味しているはずです。なのにその原因がわからないのは腑に落ちません。他には内部の魔物の数とかもざっくり知りたいところですし、新種の魔物について無策というのは……実際に目撃した生徒さんがいるんですよね?」
「いるにはいるのですが、生徒は鉱床に取り残された三名を除いて、内地に帰還させまして……」
生徒の姿はまだあったはずだが、帰路に就く直前だったようだ。
だが、当の副官はすでに聴取は済んでいるとばかりに不思議な顔を浮かべていた。そこにはミスをミスとも思わない呆然とした姿があるだけ。
ここで彼を責めるのはさすがに酷なのだろう、とエクセレスは表情を変えずに考えた。
魔物の報告をわざわざ本人から聞く必要など本来はない。ましてや敗走してきたのだ、情報に尾ひれがつき精度は下がる。
実際問題として、高レートと呼ばれるものであろうと、情報が正確に伝達できればそれで済む話だ。事実ファノンも右から左に流すこともしばしばあるほどだ。ただ、それで苦労したことはない。
とはいうものの、ファノンがここまで慎重に事を構えようとしているのを目の当たりにすれば、いつも以上に気を配るべきなのだろうとエクセレスは改めさせられる。
こういった危機感知能力は魔法師ならば誰でも備わっているし、シングル魔法師ともなれば精密機械並みには信用もできる。その中でもファノンのセンスは危機感知能力とは異なるものだ。傍目には群を抜いている洞察力と思われるが、実際は気分次第でコロコロ変わる程度のもの。野性的とか、生存本能という意味ではない。今日の気分で着ていく服を決めたり、靴を選んだり、そういった何気ない選択の一つなのだ。
アルスのように合理的な判断の下、行動方針を決定する魔法師もいれば、より感覚に頼った決定を下す者もいるというだけだ。
以前、討伐目標をロストした時のこと、ファノンが「あっちの方が天気がいいから」という理由だけで始めた探索が、結果的に早期発見に繋がったりした。そんなことが度々あり、挙げればキリがない。理屈を越えた先を彼女は予見することがあるのだ。部隊内ではそれとなく、彼女の気まぐれな判断を【恵まれた選択】として呼んでいる。
そんなことが積み重なったためか、隊では彼女の機嫌を害さないような配慮が自然と構築されている。
バイザーの下で渋面を作るガルギニスには悪いが、これはファノン率いるクレビディート最高戦力を誇る部隊のやり方だ。他国は知らないが、これまでと同じようにするだけのこと。
加えても一番大きな問題もある。おそらく、この中ではファノンもガルギニスでさえ気づいていないことをエクセレスだけが察していた。
だが、まずは目の前の問題をクリアしていくことに専念すべきなのだろう。
ファノンは自分の腹心としてエクセレスに厚い信頼を寄せており、彼女が付け加えた懸念について無下にすることはなかった。
「エクセレスの言うようにやっぱり救援要請自体、意味がわからないのよね。私より弱くてもそれは仕方のないことだけど、ホラ、6位さんは旧兵にお熱だから一応は強いんでしょ。多少の事前情報は欲しいし」
「でしたら、新種の魔物に関してはここに生徒から聞いた物を資料として……」
副官が慌てた様子でテーブル上の紙束を漁り、矢継ぎ早に手書きの資料をファノンに差し出した。
それをファノンは指に挟んで顔の前に持っていく。見つめる目は期待していないような冷めたものになっていた。
目を滑らせる程度で、興味を失くしたように紙を翻しエクセレスへと渡す。
「エクセレスぅ、鉱床の探知はいける?」
「えっと、かなり困難です。ミスリルということですので通常の探知魔法では不可能ですね」
魔法による探知。特にエクセレスは風系統での探知方法を用いているわけだが、それは通常の場合に限定される。もちろん、ファノンの意図を汲むのは容易いが、その方法は一般的に他国の目があるところでは控えてきたものだ。
「【不自由な痣】ならいけるよね。探っておいて」
一瞬だけ考えたが、自国の魔法師のトップからの指示ではエクセレスに拒否権はない。秘匿性が高いとはいっても、それはいわば魔法師個人の取得魔法と同じ扱いであり、詮索をしないのが暗黙の了解程度でしかない。言ってしまえば個人の都合でしかなかった。
ただ、探位2位のリンネがそうであるように、この力はエクセレスが探位1位である証でもある。
「……了解しました。でも精度の保証はしかねますよ」
「それで良いよー。ちゃちゃっとお願い」
「……わかりました」
後は自分がいない間に揉め事が再燃する可能性がエクセレスの後ろ髪を引かせた。彼女としては祈るぐらいしかできないのだが。
資料を見ても結局ファノンの懸念は払拭されることはなかったのだろう。次に小さく溜息を溢した後、ファノンは他人事のように副官の男へと「それで? すぐに生徒を呼び戻せるんでしょ?」と確定したものとして伝える。
「…………」
副官の男が言葉を返すよりも早く、幕舎から出ていこうとしたエクセレスから回答が齎された。
「その必要はないようですよ」
ちょうど出ていこうとしたエクセレスと入れ替わりにその人物は入ってきた。全員の視線が幕舎の出入り口へと注がれ、エクセレスが誘導するように女生徒を招き入れたところである。




