古めかしい理想は託してこそ
イリイスは「すまんな」と言ってそれとなくラティファを外へと出した。彼女の書斎、その脇には屋上庭園へと繋がる扉がある。協会本部は背後には職員の部屋もある重層感漂う別棟があり、そこと繋がっている。この屋上庭園はいわば連絡通路も兼ねているのだ。
観賞用の木々や芝、どれも天然のものなのだろう、行き届いた手入れが見受けられる。
ラティファはいつもそうしていたように車椅子の車輪を手で転がし、器用に向きを変えた。
「お兄さん、また後で」
横を向いたまま、不自然に頭を下げるラティファ。またしても消え入りそうな声音が感情を伴わず、発せられる。
意図せずこちらの感情が揺り動かされる気持ちになってくる声だ。それでいてどこか大人びた響きも伴っている。長年眠り続けていたとはいえ、彼女の実年齢は容姿とあまりにかけ離れているのだ。
だからだろうか、そんな実感すらない時間の経過に彼女は合わせようとしているのかもしれない。過ぎた時間を思えばすでにラティファは大人なのだ。だから彼女は子供ながらに無理して近付こうとしているのだろう。
表面だけでも無理して大人を装おうと必死なのかもしれない。
だが、悲しいかなその背伸びは近づく死を意識している証でもある。しかし、イリイスが望む死と同じものでも、ラティファが子供ながらに思う死はきっと違うのだろう。
ここには二つの、いや多くの死生観が溢れていた。辛気臭いほどに。
そして、それは身近にも……。
「ラティファさん、お姉ちゃんと少しお話ししませんか?」
ロキは大人びた口調で、細い腕で車輪を回すラティファの背後に回った。そして取っ手を持ち、ニコリと微笑む。
華を咲かせたような笑みを浮かべただろうラティファの頭は何度も激しく頷かれた。彼女の頷きとはワンテンポ遅れて揺れる被り物は、内部で頭を激しくぶつけているに違いない。
ここにも寄る辺ない不安定な少女がいる。拠り所を探し、それをアルスに見出したロキは依存ともいえなくもない。そこにしか己の価値を見つけられないのだから、嬉しい半面それは寂しいことなのだろう。アルスが見てきたどんな魔法師よりも気高く、そして脆いのだ。
共感する部分をラティファに見つけたのか、それとも単純に空気を読んだのか、いずれにしてもロキは多少なりとも彼女に入れ込んでいる節があった。
それが「姉」という呼び方に機嫌を良くしたからだとは考えたくないが。
とはいうもののやはりラティファは表層的に大人ぶっていても、まだまだ子供ということなのだろう。被り物程度では隠しきれない喜色が伝わってくる。
それに安堵するのはアルスだけではなかったようだ。イリイスや行動に移したロキも同じだ。
ロキには後でアルスが委細説明するとして。
二人が色彩が溢れる庭園へと出ていったのを見届け、イリイスは盛大に溜息をついて眉間の皺を深くした。
「それじゃ、お前の魔力が捻ったままの蛇口のように垂れ流されていることから聞いた方が良いのだろうな。あまり粋るなと言いたいところだが、そうじゃないんだろ?」
アルスは頷いてから、イリイスが肘を突いた重厚感のある事務用デスクに寄り掛かる。すぐ後ろにはイリイスが頬を潰しながら手を突いていた。
正直いえば魔力の漏洩は未熟の証だ。彼女が「粋るな」と注意したい気持ちもわかる。
「本題ではないが、まぁいいか。実は任務中に目を使った。いや、異能というべきかな」
アルスの目――つまり魔眼についてはクロケルが口にしただけで、彼自身確証が得られていない。確かに異能《グラ・イーター》を使えば目に痛みが走るため、何かしらの関係はあるのだろう。
それが魔眼であること自体、可能性としては最も有力といえなくもない。魔眼の研究が進めばもう少しわかることもあるはずだが。
「喰ったか」
「あぁ、それ自体はいつも通りだが、魔力が体内で混在しているようなんだ。調べてみないことにはわからないが、身体に異常はない。置換速度が遅い、もしくは置換できないか」
アルスは淡々と語る。それは事態を軽視しているせいもあるのだろう。初めての出来事とはいえ身体に直接的な変調があるわけでもない。
「それでイリイスの魔眼について少し訊いておきたいんだけど」
「貴様相手に隠し立てするようなことはない。事実私も魔眼をどこまで理解しているか。扱えることと、仕組みを理解することは同じではないからな。またその逆も然りだ」
「わかってる。だが、そうも言っていられないしな」
イリイスはわざと曲解したように意識を背後の庭園へと向ける。すると卑しく口元が弧を描く。
「冗談は置いておくとしてだ、小僧。お前の力は間違いなくこちらよりの異能だ。魔眼というに差しつかえなかろう。人智を超えた力だ。お前の言わんとしていることはわかる。私とて自分を人と言い張れるわけもない」
生身を失い、水と化すイリイスの身体は、知らない者が見れば、やはり魔物寄りの認識になってしまう。あまりにも人間からかけ離れ過ぎてしまうのだ。不可能を可能に……それは奇跡であり化物でもある。紙一重なのだ。取り分け人間という生き物は、想像を越える現象を受け入れることができないのだ。
人の言葉を扱おうとも、それは変わらない。
ふとイリイスは思い出したように魔眼についての知識を口にした。
「そうか、お前には言っていなかったな。魔眼を掌握するということについて」
「扱う上では俺も問題はないぞ。さすがに限界も弁えているつもりだ」
「そうじゃない。魔眼には本来の性質や特性がある。貴様の魔眼が魔力を喰らうのは性質じゃないんじゃないか?」
アルスはピクリと意識を背後へと向けた。これが魔眼であるにせよ、その最大の特徴は魔力の吸収にあるはずだ。そこに疑いはない、だが。
「つまりは魔力の吸収自体は本質じゃない、と?」
「あくまで憶測だがな。魔眼には魔眼足る最大の力が存在するものだ。魔眼でできることは多い。私で例えるとだな、最大の特徴は生命を生み出すことだ。正しくは生命をあたかも与えたと思わせることだ。創生の力を最大限に活かした力でいえば、私の場合【レヴィアタン】がそれにあたる」
逆にいえばそれしかない、とさえ言える。できることは魔眼の本質ではない副産物に過ぎないのだ。つまりは魔眼単体の力。
「ようは魔力を吸収するという能力は、その先にあるものの影響」
「あくまでも仮説だがな」
「いや、プロビレベンスの眼を調べる機会があったんだが、そこにある魔法式も含めて明らかに以前との変化が見られた。イリイスは魔眼が成長する、進化すると感じたことはないか」
その問いにイリイスは唸るように考え出す。思い当たる節があるのだが、そうと断ずる決定的な変化があったわけではないのだ。
「最初から何もかもができたわけではない。しかしこと【レヴィアタン】に関していえば……いや、なんでもない」
「おい! 勿体ぶるな」
「そうじゃない。お前にとっても、そのプロビレベンスの所持者にとっても良い話ではないかもしれんぞ」
イリイスはあくまでも経験に基づいて喋りだした。それは多少なりとも彼女に苦痛を与えているようだった。
「上手く言えんが、魔眼を理解する。魔眼と同化する、といえば良いのか。私とて初めからこの水の身体だったわけではない。開眼後も徐々にだった。酷く喉が乾いたりもした。だが、この身体の全てが水と化したことを知った時、魔眼と同化してしまったのかもしれない。そこで初めて【レヴィアタン】を扱えたのだ」
流れ込む創生の力。その扱い方を理解できてしまうのだ。脳みそに最初から書き込まれていたように、知識が最初から備わっていたように……まるで思い出した感覚に似ていた。
「それを成長や進化と表現していいものか、わからんのだ」
「そうか……いや、聞けてよかった」
彼女の説明が事実であろうと、なかろうと結局できることはない。長年ともにしてきた目だ。魔眼で助かる方法は開眼前に潰してしまうこと。
ならば開眼後にそれが有効な保証はなかった。
今更惜しい生命とは思えないが、軍に居た頃のように、もう一人だけの生命ではないのだろう。
アルスは一息をついて「調べないとなんともなー」とやや他人事のような含みをもたせて宙に放った。
今の所、問題はない。だからと楽観視するつもりはないが、彼の周りにいる者達はアルスを一人にはしてくれない、そんな気がした。
憂慮を抱える若人を見て、イリイスは老婆心からか。
「お前は私と違って人間の身体なのだから、そう臆病になるな……」とイリイスははにかんでアルスの背中を押すように発した。自分に出来なかったことを彼ができるというのならば、未だ心残りはあれど大いに応援したくなったのだろう。
アルスの顔が見えないことを良いことに、いつもの余計な一言を付け加える。おちょくる調子で、イリイスは、それでも慎重に言葉を紡いでいった。
「生きている間にできることは少ない。取り返しがつかなくなる前に……ハハッ、ババアに言わせるな。できることがあるなら私も手を貸そう。私が見る夢ぐらいは良いことがあってもいいからな。目が覚めた時に何か残したいのだ」
自ら禁句を発したイリイスは、自嘲気味に頬を掻いた。
「年寄り臭いな……あれほど若い若い言ってた奴の台詞とは思えないぞ」
「甘ったるいもんを見せられれば、それはなぁ。私もついつい口を挟みたくなるものだ。アルス、貴様程面白いやつも早々おらん。一時代さえも築き上げることができるだろうよ。だが、私もお前も、どうしてこうも不器用なのだ。魔眼持ちの宿命か?」
不器用が魔眼に共通するとは彼女自身思っていないだろう。イリイスが何を伝えたいのか、それを理解した上でアルスは視線を天井へと向けて、後ろをチラリと見る。
「嫌な宿命だな」
「同感だ」




