揺れる眼の感傷
「あ、あぁ、久しぶりだな」
「こんにちは、ラティファさん」
「ロキお姉ちゃんも、こんにちは」
無機質な被り物の顔を器用にアルスとロキへと向けるラティファ。彼女は目が見えないため、その視線は微妙にずれていた。
それでも彼女の声は久しぶりに会いに来た知人へ、隠せない喜色が篭っている。
さすがのアルスも手放しの好意を素直に受け入れることはできず、気後れする。ラティファとの間には取り払うことができない壁があるのだ。彼女とは外界基地で数日一緒に過ごした。
当然、クロケルがもたらした人類史に残る凄惨な事件の全てを、アルスは自らの口で明かしたのだ。何十年も仮死に近い状態で眠っていたためか、ラティファの知能は幼いまま、言葉には子供っぽさが見受けられた。
ラティファにとっては未来にタイムリープしたようなものだ。そこに広がるのは、過去彼女が経験したような生きることに必死な殺伐とした世界ではなく、秩序と安寧が約束された世界だった。ただし、彼女の最愛の兄はすでにこの世にはいない。
簡単な作りの墓標の前でアルスは説明的な口調で語った――事実も私見さえも。
クロケルはラティファ以外の全ての人間を敵に回した。だが、結果として彼女だけはこうして再び地に足をつけている。そこにのみ正しさを見出すことができるのだ。
アルスが車椅子を押し、彼女は黙って真っ直ぐ、見えない目で必死に見つめた。どこに墓が建っているかなど、彼女には見えもしないが、それでもただじっと前だけを見つめ、話を無言で聞いていた。
全てを理解することはできなかっただろう。
だが、彼女は最後に嗚咽を我慢しながらも「ありがとう」と絞り出すようにそう口にしたのだ。誰に対してなのか、それが何に対してなのか、彼女にしかわからないことだ。
いずれにしてもそれから、アルスは彼女の目などをどうにか治すことはできないか、一通り調べたのだ。
そういった経緯があり、少なくともアルスとロキは彼女と数日ともに過ごしている。
その頃と比べると髪の成長速度は尋常ではないだろう。以前も長かったが、一年もしない内に倍近く伸びているのでないだろうか。
それにしても、とアルスはラティファが見えないのをいいことに苦い顔を作った。
彼女の声は、そう儚いのだ。耳に残らない弱々しい声。誰の記憶にも残らないことを願っているかのように、その声音は耳へと溶けるように入っていく。
「まだ痛むのか?」
ラティファは幼少期からすでに両目がまったく見えない状態だったらしい。それに加えてクロノスの体液をその身に入れ、取り除いた現在は原因不明の痛みが発症している。簡単にいえば瞼を透かす程の日光が当たることで眼球に痛みがでるのだ。
一緒に居た時でさえ、眼帯で覆い隠していたほどである。
「ちょっとだけ……これなら内側は真っ暗だから大丈夫なの。それに見えないって誰も気を遣わないでしょ? みんな知ってるから、あまり関係ないんです」
「ん? ラティファさん、少し喋りがお上手になりました?」
会話を聞きハッと我に返ったロキは、頬を緩めながら意外そうに訊ねた。ロキは一時の間「お姉ちゃん」と呼ばれ、その余韻に浸るよう照れていたわけだが。
するとこれまた声は被り物の中で反響するような響きをともなった。
「はい! みんなもそういってくれるんです」
「みんなって……」
嬉しそうに被り物の頭がカクカクと左右で揺れる。
ロキのさらなる疑問に応えたのは、イリイスであった。
「ラティーは本部じゃちょっとした有名人でな。随分と可愛がってもらっている。見た目通りマスコットキャラといったところだ。いろんな奴と話し込むんですぐに覚えだした。頭の良い子だ。お前も見ただろ?」
ホレッと彼女は手をすっぽり覆い隠した袖で本棚を指し示した。
「そこにある魔法関連の本をラティーは好むんでな。とはいっても読んでもらったり、私が教えたりだが、そういう意味でもここの者たちは親切だ」
親しげに愛称で呼ぶイリイス。無論、誰のことを指しているかは推測するまでもない。ラティファが長年人類を守り続けたバベルの防護壁を生み出していたなど知る由もないだろう。それでも不自由な彼女に手を差し伸べるものは協会に多くいるのだ。
「――! 結構難しそうなものまであるが、理解できるのか?」
するとラティファは勢い良く顔を振って否定する。小さな手が胸の前で激しく振られた。
その勢いに被り物は半回転してしまった。
手の掛かる子供にするように、ロキが嬉しそうにそれを直してあげていた。
「さすがに全てを理解するのは難しいが……ラティーは物覚えが良いぞ。私もたまに教えてやってるしな。アルス、近い内お前とも議論できる日が来るかもな」
「それは楽しみだ」
彼女は目を覚ましてから、貪欲に様々なものを吸収しているのだ――失われた時間を取り戻すように。
魔法に関してはそもそもイリイス自体がかなり精通しているため、そんな彼女が言うのだから本当なのだろう。ラティファが生きていくことに望みや意味を見いだせたのならば、それがなんであれ喜ばしいことだ。
車椅子が手動式なのは腕の筋力を付けるためだ。しかし、それがきっかけとなりラティファを気遣う者がこの協会には多くいるのだろう。
人と触れ合い、日々に色を残していく。いつか、彼女が特別ではない日が来ることをアルスもロキも、イリイスも願っていた。
「ラティーの髪はようわからんな。暇な時は私が切ってやってるんだが、どういうわけか、伸びる速度が増しているようでな。面倒なので少し放置することにしたわけだ。目の方は言うほど心配いらんぞ。聖女の孫娘が主治医として定期的に見ているしな」
「フリンか、なら心配はいらないな。髪についてはさすがに異常ではあるが、身体自体には異常が見つかってないわけだしな。一先ず様子見だろう」
「フリンもそういうておった。それにしてもあの聖女が孫を持つまでなったのだから時が経つのは早い……それにしてもなぁ」
眉間に若々しい皺を作ってイリイスが苦い顔で溜息を吐いた。
「聖女、ネクソリスを知っていたのか」
「まあな、あれほどの美貌を持っていた美女が、あ~も化けるとは。あの頃のアヤツはそれはそれは美しかったものだ。しかし、もうあれほど男を狂わせた女が見る影もない。半分化物だぞあれは」
子供のような、それこそラティファよりも幼く見えるイリイスが、そら恐ろしいモノでも見てきたかのような物言いにさすがのロキもついつい口を挟んでしまう。単純な好奇心故だ。
「名高き聖女ネクソリスさんはそんなお綺麗だったんですか? もちろん聖女と呼ばれていたので、きっと若い頃は凄い美人だったかと思うのですが」
「聞いて驚くな。あやつに治してもらいたいがために、男どもは魔物の群れに挑んでいった程だ。あれはあれで魔法にも勝るのだろうよ」
ゴクリと生唾を飲み込むロキ。歳を取ることの恐ろしさをこの歳になって知ってしまった気がした。
そしてそれを老いることのないイリイスが言うのだから、これほど恨めしいこともないだろう。
だが、誰かのための死を望むロキにとって、もしかしたら死ねないことは想像を絶するほど辛いことなのかもしれない。軽口を叩くイリイスでさえ、年老いた聖女を羨んでいたのかもしれない。そんな推測にロキは同情してしまいそうになった。
が――。
「このうら若い身体を自慢してやったぞ……勝手に老いた罰だ」
悪戯っぽい笑みを浮かべるイリイスは、明るく振る舞っていても、そこには一抹の寂しさがあるのだろう。そしてその感傷は今だからこそ感じるものなのかもしれない。
まだまだ十数年しか生きていないロキには、彼女が抱く取り残される気持ちというのは理解できないのかもしれない――「寿命」という等しく訪れる死。彼女だけが人としての法則から逸脱してしまった。それはまるで死に忘れ去られてしまったかのようにさえ思える。
少し空気が湿っぽくなってきた辺りで、アルスは本題に入った。
「解明の進んでいない魔眼の影響じゃどうすることもできんしな」
ハザンとの戦いで、一時とはいえイリイスの身体は生身の、人間そのものの脆弱なものへと戻った。それが薬による一時的な作用であったのはいうまでもない。また同じ物を、とイリイスは思わなくもなかったが、今はやるべきことの多さからこの身体に助けられている。
「さて、今回わざわざ直接会いに来た理由を話してもいいか?」
イリイスは頬杖をつきながら「厄介事じゃなきゃお茶でも出すが?」と食った顔を向けていた。
「なら遠慮しておく」
「任務の一件、多少は聞いているがな」
「残念ながら別件もあるんだ」
「それは大層興味のそそる話だ」
イリイスはうんざりしつつも、琥珀色の目は真っ直ぐアルスを見据えていた。そこに迷いはなく、この後、アルスからどんな話が出るにせよイリイスはきっと断らない。
この二人の間に騙し合いや利用するといった打算はなかった。それこそ意味がない。




