往時に報いる
ボルドーを一人会議室に残し、アルスとロキは愛想だけで作られた笑みを、ここまで案内してくれた女性に向けられた。愛想が良い、と感じるにはそれはあまりにも不純物を含まない純粋なものだった。
人の愛想や愛嬌といった元々備わっているであろう雰囲気を褒めてしまいたくなる、といった不思議な感覚に見舞われもする。
彼女を連れていけば、如何に難関な商談であろうと取り付けることが可能なのかもしれない。それほど彼女は相手に警戒心を抱かせない。いっそ旧友ですらあるような錯覚すら起こしてしまう。
扉の前で待っていたのか、その女性はにこやかに出迎える。
すると、背後からボルドーの声がアルスとロキを飛び越え、その女性に飛んでいった。
「きさっ!? ――す、すまないが、お二人を更衣室までご案内して差し上げろ」
「畏まりました、ボルドー大佐。会議が長引きそうでしたので、お連れのお二方は先にご案内させていただきました」
テスフィアとアリスの姿が見えないのは、彼女の気遣いからのようだ。
「そうでしたか。わざわざありがとうございます」
「仕事の内ですので、お気になさらないでください。では、さっそく移動しましょうか。大佐、失礼いたしますね」
アルスの台詞だったが、その女性が言ってしまったため急遽言葉を変更する。
「では、ボルドー大佐。また何かご入用でしたら、協会まで」
「わかった」
淡い後光を背負ってボルドーは変わらぬ、如何にも軍人らしい強面を維持して返答した。
アルスとロキが会議室から去った後、ボルドーはドサッと椅子に腰を落とし手元のボタンを操作して扉を施錠した。カチッと乾いた音が室内に走る。
端的に言えば、ボルドーは今ひどく頭痛に悩まされていた。無論、持病や偏頭痛というのではなくやるべきことの多くが、脳を圧迫しているためだ。
一度訂正されたが、バルメスで起こったSSレートの出現報告、それに勝るとも劣らない出来事がイベリスでも起こった。ボルドーの知る限りSSレートの出現は、過去のクロノスを除けば最近問題になったばかりの【背反の忌み子】が記憶に新しい。とはいうものの実際に目にしたのはアルファ軍の数名の魔法師だけという話だ。本当にあったのかすら、朧気であった。あるのはバルメスから多くの魔法師が失われたという事実のみ。
この出来事が多くの魔法師を脅かさず、何より早期終息したため知らない者も少なからずいた。
そのため大半の軍人にとっては、今回の報告はまさに未曾有の災害といえた。そしてSSレートという脅威を知る者にとっては……。
ボルドーは自分の手が気づかぬ内に震え、微かに机を揺らしていた。
それは身体の反射的なトラウマの症状であって、思考は驚愕をとうに越えていた。そのせいで寧ろ良く頭が回るのを感じていた。
だからだろう、ボルドーがパニックに陥ることなく、冷静に段階を追って対策を講じることができたのは。
何か喉を潤すものがあれば、一思いに流し込んだだろう。
今はそれが叶わないと諦めると、両手で襟を正した。その石のように硬くなった皮膚はあまりこういった礼儀や作法を行うために、培われたものではないだろう。
そんな無骨で太い指が宙空をなぞっていき、仮想液晶が起ち上がる。ボルドーのプライベートチャンネルだ。
発信のマークが仮想液晶の中で微かに振動する。わざわざ液晶付きにしての通話であった。そのためにボルドーは居住まいを正したのだ。
普段ならば切ってしまうほど長くコール音が続くが、ボルドーはただ緊張した面持ちで待つ。何せ忙しさでいえばおそらく世界一だろうから。
「報告か、ボルドー。む……少し待て」
「は、はい。いくらでもお待ちしますが……」
画面には相手の姿が映っておらず、何やら慌ただしい物音だけがスピーカーから抜けてくる。
本来ならば今すぐにでも本部内を駆け回りたい程には忙しい身ではあるが、相手が相手だけに待つことしかできなかったのだ。もっとも、ボルドーが本格的に仕事をするのはもう少し後のことで、上申書が出来上がってからだろう。
そしてどれほどの高さなのかわからないが、向こうの液晶から見える景色は広い空だけを映していた。荒れた天気の翌日のようにそれは清々しい程の快晴である。何よりその空はここ、ハイドランジと繋がっているのだろう。
「待たせたな。首尾はどうだ?」
「予想を上回った、というべきなのでしょうね、最悪の一言で全てを表現できます」
「だが、それを予期して手を打ったのは貴様だ」
「私一人ではどうにも……協会の協力、延いては“ミナリス”様のご恩寵があればこそ」
画面の向こうで不敵な口元がクローズアップされたかのように、口端が持ち上がる。
「その名は今は使っておらん」
「失礼しました。イリイス様」
「相変わらず堅苦しい奴だ。昔は突撃銃片手に息巻いていた小僧だとは誰も思わんだろうな」
「お恥ずかしい限りです」
「で、あいつは気づいたか?」
今度は無邪気な子供の笑みを浮かべるイリイスにボルドーは回答を思案する。あいつ、とはもちろんシングル魔法師1位のアルス・レーギンのことだ、が。
「どうでしょうか。しかし、彼のおかげで【夜会】について大方の予想が付きました」
アルスからの報告をできるだけ詳細にボルドーは語った。するとイリイスは
「夜会か。あれがそうだったのか……なるほどなるほど。坊や、夜会……いいや、現象自体がいつから行われていたのか知っているか?」
「ルーツは誰にもわかりますまい。夜会というのは現象の一形態。それも便宜的に名付けられたものでは?」
「違うよ。成長したのは図体だけかい? お前らが言う【夜会】に見られる特徴の一つとして、そこには必ず【闇夜の徘徊者】の存在がある。私自身直に見たことがあるからな。お前もアルスから聞いての通りだ」
その問いにボルドーは反射的に頷いた。
実際の状況などかなり曖昧な部分も多いが、一先ずは記憶している。何より、ボルドーは事前にイリイスからも夜会という現象についての予想を聞いていた。
「奴らが何をやっているのかはわからないが、私はあれを見た時一つ連想したものがある」
液晶の向こうで、少女の小さく細い指が一本立てられた。
ゴクリと生唾を飲み込んで「それは?」とボルドーは続きを促す。
「“神事”だよ。奴らは崇めているんだ。古来より廃れた風習に似てるな、生贄を捧げて神を降ろす、そんな狂気じみた因習にどことなく似ている」
とはいえボルドーでさえピンとこない言葉だ。イリイスが言っているのは人類が7カ国に併呑するより以前の話なのだから。
その手の文献は非常に少なく、栄えていた時代、様々な文化が入り乱れていた時代のことなど本当のところでは想像する他にないのだ。
旧時代の都市など、地図には大まかではあるが場所が記されている程度で、そこで何が行われていたかなど、詳細なことは実は知らない人々がほとんどだろう。
いわば分野の違いなのだ。学者などは精通しているのかもしれないが、軍人や国民は知らずとも役割を果たせるため、綺麗に情報が遮断されてしまっている。
もっともこれだけ文化が混在し、新たに渾然一体となることは一種の統合ともいえる。
「そうなるとだ。【闇夜の徘徊者】のルーツとはなんだろうな」
そんな解決の糸口すら紡ぐことのできない疑問だけを放り投げて、イリイスは話を切った。
液晶の向こうでボルドーは外見こそ孫に近い歳の少女に値踏みされているような視線に肩肘を張った。
「それにしても」と失笑するかのように紡がれた声がイリイスの目元を解していく。
「あの童が、やっと名が体を表したというところか。言葉通りの意味になってしまったようだがな」
うっ、と言葉に詰まる。
確かにこの名前は威厳こそあるが、それは今になってこそなのだろう。自分の若かりし頃を思い起こして気恥ずかしい気分になってくる。
「ミナ、イリイス様はあの頃よりお変わりないようで……寧ろあの頃のままです。一体どんな絡繰りなのでしょうか?」
戦線を共にしたかつてのシングル魔法師の姿、そのままのイリイスにボルドーは訝しげに問う。
一体空白の年月に何が起こったのか。
ボルドーが新兵だったあの頃から、次の世代にバトンを渡そうかという今日に至るまでの、その時間は長く尊い。
しかし、神妙な問いもあの頃のように彼女は変わらず、茶化すような口調で返してきた。
「ボルドー、貴様その歳になってもまだ女を知らんのか? よいか、女は秘密でできているんだよ。お前など一生かかっても理解できぬわ。理解できぬことを理解せよ」
クハハハッと少女のようにあどけなく笑みを溢すイリイスであった。
そんな笑いが途切れようかという頃、ボルドーは深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
「気にするな。対価はもらうのだからな」
「この一件が片付きましたら必ず」
「ボルドー、貴様にはハイドランジ軍と協会を繋ぐパイプになってもらうぞ。まったくもって面倒なことだがな。良くも悪くもハイドランジは閉鎖的だ。協会の介入を良く思わない者が軍部に多い」
「えぇ、それも先の報告漏れが原因でしょうな。今頃になって火消しに追われているのですから」
「それもあるが、これまではある程度の問題は自国のみで対処できてしまっていたんだろ。トップが腐っても軍は機能できていたんだ。結果としてその自負心は強固な一枚岩を作り上げ、閉鎖を生む」
だからこそ、ボルドーはイリイスに直接申し入れて、表向き協力の意思表示と軍部の了解を得て依頼を出したのだ。
そこで鍵となるのは……。
「協会発行のライセンス。良いところに目をつけたな」
「疑惑を生むのは各国がライセンスのデータを管理しているからです」
未討伐の報告漏れなどは主にライセンスのデータを自国が管理しているためだ。それによってシングルを無理やりねじ込むなどの不正疑惑も出て来る。
しかし、協会発行のライセンスは全ての入手情報が協会のデータベースに保管される。今回アルスやロキが遭遇したという魔物のデータもハイドランジで堰き止められることなく、協会に送られる。
最新のライセンスではより詳細に魔物の判別や魔力の読み込みによって脅威度を正確に算定することができる。
加えて、シングル魔法師であるアルスの報告ならば誰も疑いはしない。相応の説得力があり、即座に対応することができるのだ。軍とはシングル魔法師という価値を正しく評価出来る場所だとボルドーは確信していた。当然のことながら前シングル魔法師のクロケルはその価値を貶める程、外界での成果が少なかったのだが。そんな経緯もあり、魔法師の象徴たる一桁の威厳に翳りが落ちた時、近年レハイルの活躍もあって取り戻しつつあったことも肌で感じていた。
この好機にボルドーは賭けたのだ。上申書の価値を引き上げるために。
そして保険として協会のライセンスに着目した。
それでも夜会が数日開かれてしまったのは止める手立てがなかったためだ。行動に移さなければ今回のことも問題視されなかった可能性すらあった。
だが……計算違いがあったとすれば……。
「イリイス様、今外界で何が起こっているのですか」
「イベリスのことか。こちらにも情報は来ている。化物が目の前にいるのに長年気づきもしなかったんだ、滑稽も良いところだ……が、協会が発足したからにはそれでは済まされん。私が会長という座に就いていなければ知ったことではなかったのがな。まぁ、お前にはバリバリ働いてもらうから、覚悟はしておけよ、坊や」
「はい。それにしても追加で学院生が二名同行するとは聞いておりませんでしたが」
それだけは確実にボルドーに分のある話であった。
責めるわけでもなかったが、内心気が気でなかったのは事実だ。ここの外界は他国と比べて難易度が高いのだから。
しかし、画面の向こうの少女は顔を逸して「忘れた」とだけぞんざいに言い放つのであった。




