大人の破壊力
窓からの入室という行為が今、肯定されようとしている。
あまりにも流麗な動作でリンネは窓からファサッとスカートを翻し、一片の曇のない喜色をその端正な顔に浮かべた。
さも、窓から入ってくるのが正しいとでも言うように。
さすがのアルスでさえも自分が言っていることが本当に正しいことなのか、疑問に思ってしまう――もちろん正しいのだが。
華麗な一礼を披露したリンネは常に貼り付けている微笑に疑問を含ませており、本当の意味での喜色とは少々異なる。
「アルス様、シセルニア様には一日だけお時間を頂きましたが、そんなに早く会場入りする必要はないかと」
会合場所は当然、旧バベルの塔近辺の古城である。そこへのアクセスは基本的にリンネやシセルニアのような一部の選ばれた人間のみが所持しているアクセスコードが必要なのだ。
バベルの塔の周囲を覆う広大な湖は到底渡ることができない規模で、バベルが立つ陸は聖域とされ、禁制区に指定されている。各国元首に選ばれた者のみが立つことを許される。
強引に渡ろうとすれば不法進入として捕縛対象となる。
今回は協会として参加するアルスだが、当然仲介人としてリンネが間に入っていることもあって、アクセスコードは彼女しか持っていない。
時間は学院内でいうところの放課後。その最後を告げるチャイムが鳴り終わった後なので夕方ではあるのだが、季節的にもすでに陽は最後の抵抗虚しく、闇に負けてしまっていた。
悪足掻きのような陽射しが遥か遠方からか細い光を伸ばしている。
「さて、始めましょうか、リンネさん」
「はい?」
珍しく小首を傾げるリンネの顔は引き攣り気味であった。
彼女の視界の中では整然と並び立つ検査機器が万全の状態で電源が入り、機械的な音を奏でている。
詳細な説明をしている間にリンネは手渡された薄い患者衣を持ってパーテーションで区切られたロキの部屋に通されていた。
壁越しに一方的な説明が飛んでくる。
「これでついに検査ができますね」
「あ、あのアルス様。以前私の調べたデータをお送りしたと思うのですが」
それで許してもらえる、と思っていただけにリンネの中ではすでに解決されたものだと思っていたのだ。
室内にはリンネ一人。
「もちろん、拝見させてもらいましたよ。でも、あのデータ二年前のものですよね。魔力情報も変化しているはずです、色々と再検査したほうが正確なので」
「わかりました。約束は約束なので応じさせていただきます」
ある意味で期待をしている自分がいることにリンネは気づいている。これまで何回と何十回と検査を受けてきた身だ。辟易することもあるが、もしかするとアルスならば何かわかるかもしれない。そんな期待があった。
「アルス様、データなどはコピーでいいのでいただけますか?」
「もちろんです。着替え終わったら一応書類にサインをしてもらいます」
了承の返事をしながら、パチパチとメイド服のボタンを上から順に外していく。腰に巻いた革のコルセットのヒモを解いて締め付けられたお腹にゆとりができ、リンネはふぅ、と息をついた。
続いてスカートのファスナーを下げ、次々に脱いでいく。
そこでふとリンネは室内を見渡す。
自分もそうだったが、すごく殺風景な部屋だ。リンネも魔眼のせいでろくな幼少期を送っていない。だから、ロキの境遇もなんとなく察することができた。
自分と似たような多感な時期というのを経験する間もなかった者が陥る無関心。
そう、自分の部屋に何を置けばいいのかが、わからないのだ。
ハンガーに掛かった制服を見て、リンネは微笑む。
殺風景ではあるが、全く物がないということではない。必要のない物がないということではなかった。
あまりジロジロと見るのは褒められたことではないのだろうけれど、それでもリンネは視線を辺りに散りばめた。
AWRを研ぐためか、砥石のような物もあれば、学院の教科書もある。狭い机の上には埃一つなく、他に物もない。
ふと、パーテーションの壁に一つだけ傷があることに気づいて指で触れてみる。そこには横に付いた傷の端に「目標」とナイフで掘られた痕があった。
自然と笑みが溢れてしまう。身長でも気にしているのだろうか。リンネからしてみればロキは小さくて愛らしいのだが、やはり本人には本人のコンプレックスがあるのだろう。
他にもないか、といつの間にかリンネは着替えを忘れて室内を見渡す。
よくよく目を凝らせば絶妙な場所に隠された物は意外に多い。グルメ本なんかもあり、下着のカタログもあったりで、悪いと感じながらもリンネは微笑ましげにそれらを見た。
すると、箪笥の端から何か毛糸のようなものが出ていることに気づく。
ここまで来てしまえば、という引き返せないための言い訳を自分にしてリンネはそっと引き出しを空けてしまった。
――なんだ。ロキさん……私とは違うんですね。
それが何故か凄く嬉しかった。
「リンネさん、着替え終わりました?」
「――ッえ!?」
室内へとロキが顔を覗かせた。そして一拍したのちロキの目はジトッと細められる。
「これは、あの……ごめんなさいロキさん」
「いえ。構いませんよ。見られて恥ずかしいものはありませんので。でも、できれば内緒にお願いします」
「もちろんです。数回しか会ったことがないのですが、なんか嬉しくなってしまって」
普段の完璧なまでの笑顔とは違い、今のリンネはほっこりとした破顔をロキに向けた。
「ところでロキさん、これも?」とリンネは身長の成長記録として付けられた壁面の傷を指差した。
「――!! それは違います! 気にしてるとかではなくて……」
慌てふためくロキを見て「フフッ」そんな笑みがリンネの口元から溢れた。
「それよりも早く着替えてください。アルが待っていますので」
それを言い残してロキは部屋を逃げるように出ていった。可愛らしい羞恥はリンネが仕える主ではあまりお目に掛かれないため、彼女には新鮮に映った。
止まない嬉々とした笑みが表情を占領する。リンネは前屈みになって後ろに手を回し、腰に両手を添わせた。そして薄い患者衣を羽織って「お待たせしました」と小さな少女の様々な心が詰まった部屋を清々しい気持ちで出ていった。
診察室然と変化していたアルスの研究室。
アルスの机の横でリンネは丁寧な説明を受けていた。
「せっかく調べるので徹底的にやりますが、一応リンネさんがやりたくない検査があるかもしれませんので、その都度許可を取ります。検査データに関しては正式な診断書としてお渡しします。検査についてご了承いただけた旨としてこちらにサインをお願いいします。二枚目には問診書もあるのでそれもお願いします」
「は、はい……」
妙に緊張するリンネは終始、患者衣の裾を握っていた。襟は前で重ね合わせただけ、腰の位置で紐をとおして結んであるだけなのだ。バスローブを着ているような格好である。
リンネは書類にサインをしながら、恐る恐る訊ねる。
「あの、アルス様……痛い検査とか、ないですよね。恥ずかしいのですが、その……痛いのは……」
もじもじと内腿を擦り合わせるリンネは窺い見るようにチラリとアルスを見上げる。
これまで何度も検査し、何度も辛い目に会ってきた。検査とはいってもその方法は全て違う。時には麻酔もなく、骨髄を採取されたことだってある。
シセルニアに出会うまではそんな苦痛の繰り返しだったのだ。
「大丈夫ですよ。痛いといっても採血ぐらいです。怖いならいくつか方法はありますけど」
「あっ、大丈夫です! それぐらいなら大丈夫です!」
大の大人が注射を怖がるなんて情けない、と思いつつもアルスの顔は小馬鹿にした風ではなく、それどころか意外なギャップに頬を綻ばせていた。
「な、なんですか…………」
「いえ、何か子供みたいだなって」
無表情でジト目となったリンネはどこか姉のような空気を纏い「いいですか、アルス様……」と続けた。
「怖いのではなくてですね。大人として知っておきたいのです。そうです。せっかく調べていただけるのですから、無駄は省いていきましょう。注射なんておままごとみたいなものです。チクッと……うん」
自分でチクッと言っておきながらリンネの目尻は微かに反応していた。
背後でロキの笑いを堪える姿がなんとも……。
今回は一応ロキにも助手のようなことをしてもらうつもりである。とはいっても彼女にも依頼についての知識を入れてもらうため全てに付き合うことはない。
受け取った書類を確認してアルスは「まずは体調を見ていきましょうか」と触診の準備を進める。専門家ではないが、下手な医者よりは触診に自信がある。
人体について――壊す方面――だがある程度勉強しているし、外界での応急処置のためにも触診する機会は多かった。
魔力を直に触れたり、反発させる時の反応も確かめる必要がある。魔眼という異能についてはわからないことが多すぎるため、慎重に調べていくしかないのだ。
自律的に魔力消費する魔眼は他者の魔力に反応するかも、いざという時に対処するために確認しておかなければならない。
これから始める魔眼の検査はアルスが長年手をこまねいていた研究課題の一つだ。やっとその手がかりを得られるかもしれないと思えば、感慨深くもある。これで自分が何なのかの確証を得られるかもしれない。
「じゃ、前を少しだけはだけてもらっていいですか」
「わ、わかりました」
椅子を移動させて、リンネの前まで来ると手を突き出し…………。
滑らかな肌の上に手を添える。本来ならばこの後に手の甲をトントンッと叩いたり、魔力を少しずつ放出させて反発具合を確かめたりするのだが…………。
「あのリンネさん、下着は――」
「えっ、検査に下着はつけちゃいけないのでは? 正確に調べられないんじゃ……」
「今の技術ではそれぐらいは問題ないんですよ」
「へ?」
手を添えたまま、アルスとリンネの時間が止まる。
患者衣がはだけた状態で微かに揺れる。
はだけた患者衣が肩から滑り落ちる直前、ロキが後ろから抱きつくように押さえつける。
「キャッ!! ロ、ロキさん?」
「これ以上はダメです、絶対……それに……」
とロキの視線はそのまま胸の谷間から下へ向けられた。これ以上は本当の事件になってしまう。
検査という大義名分をロキは見過ごせなくなってしまう。
「早く、下着を着けてきてください!!」
「は、はい!!」
ロキに言われるがままにリンネは胸元を握りしめて、再度ロキの部屋に駆け込んでいく。
額の汗を拭うようにロキはそのあられもない後ろ姿を見て。
「ふぅ、油断なりませんね」
などと溢していた。




