それは黒く美しい者
テスフィアとアリスの二人と別れ、しばらく歩くアルスは本校舎が見えてきた辺りでうんざり気味に足を止めた。
「いい加減出てこい……まさかバレてないと思ってるわけじゃないだろうな」
唐突な声にあからさまな動揺が木陰で揺れた。
研究棟を出る前からなので随分と熱心に隠れているようだが、さすがに素人でもわかる追跡。夫の浮気を調査する妻のほうがよっぽど上手く隠れるだろう。
ロキも少し呆れがちに手の中のAWRへとため息を零す。
「アルがわざわざフィアさんやアリスさんの前では、と気を遣ったのですよ」
叱責に近い語気でロキはとある木陰に向かって言い放った。
――気を遣うなんてことは、これっきりにして欲しいのですけどね。
そんなロキのセリフにアルスは少し居た堪れない。わざわざ裏側を他人に明かされることはこれで結構恥ずかしいものがあった。気の遣い方など本人が知っていればいいのだ。
テスフィアもアリスも用事についてとやかく訊かなかったのは、彼女達も追跡者の存在に心当たりがあったからだ。
揺れる髪が木の端から見えるし、いろいろと隠れきれていない。角度が基本的におかしいのだ。アルスとしても「もうちょい右なんだよな」と職業柄その素人然とした隠れ方に助言したくなる。
基本的に自分から見えるならば相手からも見えるのだが、どうやら彼女は隠れる気がないのか、本気で隠れようとしているのか、わからない状態だった。
実際、フィオネは一人になったところで意を決して出ていく算段だったのだが、間抜けにも看破されてしまい、慌てふためていた。
確かに気づかれないはずはない、とわかっていたのだが――結果的には気を利かせて一人になってくれるような気はしていたのだ。
だが、その前にロキが全てを明かしてしまったためフィオネは隠れきれていない木の後ろで困惑し、ついには頭を抱えてしゃがんでしまった。
――ど、どどどうしよ~。
「おい、さっさと行くぞ」
予想外の方向から声が掛かってフィオネは咄嗟に顔を上げる。いつの間にかアルスは先に進みその分だけ斜角が広がったため、遮るための木は意味をなさなくなっていた。
不機嫌というよりも、それこそ時間が勿体無いと言いたげな声にフィオネは弾かれたように立ち上がる。
「え、でもどこに……?」
あまり追求されたくない状況なのは確かだが、フィオネの脳裏にはアルスの言葉に対する疑問が真っ先に浮かんだ。
「決めたんだろ? 一応間に合ってよかったな。もう少ししたら数日研究室を空けるかもしれんかったからな」
「…………はい」
小さくも明瞭な言葉をアルスは背後で聞き、微かに頬を上げた。
灌木を飛び越えるべく軽くスカートを翻してフィオネは歩道へと跳んだ。
その様子を黙って見届ける銀髪の少女は後に付いてくるよう、待ってから歩き出す。フィオネの心の支えは綺麗に取り払われたかのようにその跳躍は軽やかであった。
「あっ! 私のAWR……」
「こちらでお預かりしてます。後でお渡ししますよ――アルの手から」
何故か棘を感じるロキにフィオネは崩れそうな笑みで「お願いします」と軽く頭を下げた。気になるのは自分のAWRが見慣れない鞘に収まっているぐらい。
落ち着かない様子で一番後ろを歩くフィオネは目の前の自分より華奢な少女の足下だけを見ていた。規則正しく歩く動作一つがまるで異質な経験の上になりたったように思えた。修練や特訓、そういった作法とは別物だし、かといって努力の結晶というわけでもない。
そう、言うならば無駄のない所作は身を置いた環境によって身についたもの。
自分よりも小柄で人形のように整った顔つきがある種、フィオネに畏怖すら抱かせた。
そんな少女の足が止まったのはあまりにも突然であった。辛うじてぶつからずには済んだが、前方を歩いていたアルスはある建物内に入っていく。
「えッ! 訓練場……」
咄嗟について出た言葉は予想の斜め上を行くものだからで、あまり良い気がしないのは逃げ出した場所だからなのかもしれない。
訓練場の中にアルスとロキが消え、フィオネが続く形となったが、そこには踏み止まりはしたものの進むに阻む感傷的弊害はすでになかった。
「さすがに閉場ギリギリだけあってガラガラだな」
「でも勝手に使って良いんですか?」
観客もいなければ訓練をしている生徒もほぼ切り上げたようで、訓練場は区画を解放されもぬけの殻だった。というのも照明も落とされた後で、アルスが手動で点けたのだからそれもそのはずだ。ついでに置換システムも作動させたようだ。
とはいえまだ声は聞こえるため、更衣室には生徒がいるのだろう。本当に閉場ギリギリの時間。
どこか物寂しくもある訓練場を見てフィオネは不安に駆られ、規則違反ではないかと申し出た。
「ま、良いんじゃないか。少しぐらいは大目に見てもらえるだろう。言っても時間的には後数分はあるからな」
「でも……」
閑散とさえ言える今の訓練場は区画を全て解放されており、その中でフィオネは言いようのない不安を感じていた。これから何が待ち受けているのか、それとも単にAWRを返してもらって終わり……なわけがない。
あの一件以来どこか天上人のようなアルスが彼女の中で実体を築き上げていた。会話や発する声に心が通い、意思が宿る。そんな気迫で冷徹な一面の中で人間味を感じたのかもしれない。
訓練場の中央に進み、一人孤立するように遅れてフィオネが続く。ふとアルスとロキが立ち止まってフィオネも足を止めた。
ホレッ、そんな声に視線を上げてみれば視界内でこちらに向かって飛んでくる二つの影を捉えた。慌てながらも突き出した両腕でそれを抱えるようにキャッチする。
フィオネの……僅かなお小遣いで買った自分のAWR。不良品として数ある商品棚の中にも入れない価値のない物。値段すら付かないゴミのような扱いであったものをフィオネが買ったのだ。
買った当時は鞘すら無い抜き身の状態で、その後に買った革の鞘は正直言って本体よりも値が張った。
しかし、今腕の中にある二対の短剣、それを収める鞘はその場凌ぎのカバーなどではないほど上等な物である。中身の安物にはあまりにも不釣り合いであった。
握る手は貧乏性のせいか、考えれば考えるほどに湿っていく。
思考を振り払ってフィオネは性急に本題へと入ろうとした。
「わ、私は……」
必死に言葉をひねり出し、選び抜いて、それでも思いの丈や決断の言葉はうまく纏まらない。決めたのに言葉が支える。
「面倒だ。無理に言葉にする必要はない。お前のそれは言葉じゃ到底言い表せないだろ。追求するつもりも深く知るつもりも俺にはない。だからその答えは全てAWRで証明しろ。AWRは魔法師のための補助武器であり、魔法師でない者にとっては過ぎた力だ」
「はい」と紡がれた一言。それは平坦といえるほどの声調であった。意気込みや覇気などは微塵も含まれない、単純に凄く納得したという意味だけを伝えていた。
あまり慣れていないのかフィオネは装着に少し手間取っていた――心なし気分が高まっていたのか、手が縺れる。
その間をゆっくりと待つアルスは隣で静観しているロキへと口を開いた。もしかするとそれは独白に近かったのかもしれないが、口に出さずにはいられなかった期待と予感。
「ロキ、ちゃんと見ていろ。魔力がその者を証明する上で最も顕著に表れる。そう言われるのは何もデータの数字だけを根拠としているわけじゃない。感情や意志といった曖昧なものほど魔力に大きな変化をもたらすのは確かだ」
だからこそ魔力の暴走が起こりうるのだ。根源的な情報が乱れれば器としている人間に歪みが生じるのは必然である。
それでも急激な変化というのは凡百にはありえないことでもあった。だからこそ魔力という多くの情報を含むが故の変質は革新ともいえるものだ。
無言で頷いたロキはじっとフィオネを――実力的には下位の一年生へと異様とも思える視線を注いでいた。
もたつきながらも腰に短剣を装着するとフィオネは一度大きく深呼吸する。
そして落ち着かせるように細く漏れた息。
彼女はいつものようにAWRを鞘から抜いた。
これから戦うわけでもないのでただ抜いただけ、脱力した風にも見えるそれは構えるというよりも感触を確かめるようでもあった。抜いた短剣にはびっしりと、それこそ刀身を埋め尽くすほどに刻まれた魔法式。
彼女は今、内から地響きのように溜め込んだ魔力を一気に解放した。
直後、アルスの頬が微かに持ち上がった。
ゾクリと全身を駆け巡る高揚はさしものアルスでも予想を超えるものであったからだ。魔力の質、それが系統と合致する。
フィオネの周囲には新たな魔力の奔流が渦巻いていた。薄墨色の透明感のある魔力。魔力の質が以前と比べて比較にならないほど向上したのだ。それは闇という印象を覆すに足るものだ。
暗色としての暗闇・影に陰・負・怨・死、そういったマイナスなイメージをもたれやすい系統なのだが、彼女のそれは夜闇に近く、もっといえば夕闇の薄暗さを連想させた。
「これほど変われるものなのでしょうか」
「いいや、本来はここまでじゃない。そういう意味でもあいつらは面白い奴を見つけたもんだ」
目を見開いてその有り様、フィオネという少女その者が変わってしまったかのようにロキは呟いた。いや、これが彼女本来の、持って生まれた素質なのかもしれない。
アルスにしてもロキにしても、闇系統をこれほど美しいと思えたのは初めてだった。
しかし、当の本人は困惑したのだろうか、魔力が乱れ始める。
「あ、あの……これッ」
不思議そうにAWRを見つめてからアルスへと視線を移したフィオネはAWRへの疑問を浮かべる。客観視出来ていないのか、この驚くべき変化にフィオネはまだ気づいていない風でもあった。
「あぁ、魔法式は俺がいくつか追加しておいた。それとこれまでの系統基盤から系統式への誘導もしてある。少し不格好だがな」
「……ありがとうございます」
食い入るように見るフィオネの目は定まった意志を伝えている。もっともアルスが口にする専門用語の意味を彼女はほとんど頭では理解できなかったのだろう。それでも感覚的な部分でフィオネはわかる気がした――生まれ変わったAWRの本当の役割を。
自分と同じく、存在が定義されたような気がした。どっちつかずの曖昧な物ではなく、自分にとってこのAWRは一心同体のようにさえ思えた。
毎日磨き、常に傍らにある相棒。二対の短剣に惹かれたのは自分のように何者にもなれないからだったのかもしれない。だから自分と一緒にAWRも変われたことが素直に嬉しく思えた。
本来ならば魔法式は直剣ならば縦に刻むもの。もちろん、AWR全体として魔力を満遍なく注ぎ込むためで、多くの情報を均一に送り込むことができる。
フィオネのAWRが不良品扱いになっているのは基盤のみを刻んだためだ。日々改良される魔法式については近年、基盤式を直接系統式に組み込む簡略化された式があるため、基盤式のみというのは実は数年前までの技術である。
基盤となる式を刻み、そこから系統式に繋げるため余分なスペースが必要となるのだ。魔法を構成するまでのプロセスに一つ余分な項目が増えると考えれば良い。
つまるところフィオネの短剣型AWRの幅では更に系統式を加えるだけの幅もないわけだ。
しかし、アルスのAWRもそうだったように、アルスは魔法式への造詣も深く刻むための技術も心得ている。
そのため試行錯誤した末、彼女のAWRには隙間なく魔法式が刻まれる結果になったわけだ。
「ま、上出来だな。どうする? 少し相手してやろうか」
「は、はいッ!! お願いします」
気を緩めた隙に魔力は途切れて消えるが、フィオネは構いもせず頭を下げた。
これまで拒む感情と魔力の中で練っていたせいか、まだ上手く馴染んでいないのだろう。おそらく闇系統の魔法なんて一つも知らないはずだ。
それでもフィオネは勇ましく微笑を湛えて構える。
「では」と距離を置いたロキの合図をもって細やかな雛の腕試しが始まるのであった。静寂と閑散が満ちる訓練場内は初々しい黒き光を灯しだす。
芽生えた才能の一端は誰よりも険しく、誰よりも異端なのかもしれない。しかし、少女が映すは誰よりも純粋な黒の輝きであった。




