脆弱な生き物、だからこそ
たった一撃、たった一発の魔法。それを背に受けたテスフィアは防ぐことも回避することもできずにただただ暴力的なまでの破壊をその身に受けた。
ズキズキと頭が脈打つのはいつものことだ。今回は今までとは比較にならない痛み、それに加えて身体中がじんじんと焼け付くような痛みが走っている。
どこか擦り剥いたのだろうか、テスフィアはおもむろに膝を見下ろした。そこには血が滲んだような傷があった。この訓練場内ではありえないものだ。
アルスは本当に手加減をしない、その意味を肌で感じて身体が戦慄に打ち震える。
怖い、恐い、それでもテスフィアは貴族としてのプライドからか、はたまた力をつけたことへの自負からか、震える足で立ち上がり刀を構えた。そうだ、苦難を乗り越え、確かに自分は強く成長した。少なくともあの頃より一歩、いいや、半歩でも前に進めたはずなのだ。
テスフィアの瞳にあるのは真っ直ぐ過ぎる色。
「ま、まだやれる……わ。この程度……」
未だ二人が立っていられるのはアルスの絶妙な加減があってこそ。もちろん、それを知るのはアルスだけでいい。
しかし、テスフィアの虚勢にアルスは冷ややかな視線を注ぐだけだった。
彼女はまだわかっていない。
これを訓練だと割り切って、現実を見られていないのだ。絶対に殺されることはないと信じて疑わない。もしかするとこの傷は事故かなにかだと決め付けているのかもしれない。もっとも、それはアルスへの信頼の表れでもある。だが、今はその信頼は必要のないものだ。
特に最初である今回の戦いは今後に響くため、心を鬼にしてアルスは狙いをテスフィアに定めた。
予想していたのか、アルスが触れれば届くその距離を一瞬で詰めた時、テスフィアは小太刀【雪姫】を抜き、自分の周囲を【永久凍結界】で事象を改変、強固に定義付けた。
ほんの僅かな範囲を自らのテリトリーであるかのように氷結世界で彩る。
しかし、ダンッとアルスが一歩地面を踏みしめた時、テスフィアが発現した【永久凍結界】はアルスの踏み出した足元から放射状に罅を走らせた。
構成における改変、その強度は今の彼女ではあまりにも脆弱なものだった。局所的な【振格振動波】程度で意図も容易く構成が崩壊する。
走った罅は凍結した地面を埋め尽くし、冷気のみを残して霧散していく。
「――!?」
テスフィアからすれば、何をされたのか理解できなかった。それでも自分の影響下である氷の世界は容易く侵された。
今はただ最上位級魔法すらも通用しないということだけがテスフィアの視界に映る。
彼女もまた、本当の意味で守られていたことを悟った。プライドも、積み重ねてやっと手に入れた力も、その全てが否定されたように崩れていく。
呻き声すら喉を通らない。
テスフィアは次にアルスがとった攻撃の体勢に反応することができなかった。流麗な動作で短剣を頭上に掲げているアルス。彼が引いた鎖は鮮やかな魔力光を纏っていた。
その短剣に脅威はない、いや、もっと注意すべき物がテスフィアの頭上に出現していた。ズズッと重低音すら聞こえてきそうな巨大な氷塊――その粗削りが故の鋭い尖端が自分の目と鼻の先で滞空していたのだ。
少し顔を上げただけで深い碧が一面を覆い尽くしていた。
その巨大な氷塊はまるで天井から細い糸で釣られているかのように、今にも降ってきそうなほど不安定な恐怖を与えている。息を吹きかけるだけで、それはテスフィアを押し潰してもおかしくなかった。
《死ぬ》その二文字が強烈に脳裏を埋め尽くしていった。
途端、テスフィアは全てから逃げ出した。
腰から崩れるようにヘタリと座り込み、頭を抱えて小さく蹲ったのだ。当然、その目は瞑ってもなお、強く閉ざそうと力がこもる。
死ぬことが恐い、そしてその死をもたらすのが彼であるのが恐い。
そんな現実から目を背けた結果であった。
しかし、数秒後――。
コツンと俯いたテスフィアの頭をノックでもするかのように軽く小突く。
「おい、立てるか?」
まるで今の今までが夢であったかのような労りの声。アルスは早々に潮時と見て、戦闘モードへと切り替わった意識を解いた。
最初でこれだけの敵意や殺意に晒された今、これ以上はやり過ぎると判断したのだ。
こうなる予想はあった。それでも魔法師だろうと人間だ。恐怖は必ず存在する、それを自覚し乗り越えるからこそこの訓練には意義がある。今は明確な死を直感であろうと知ることが必要だったのだ。
もちろん、恐怖に屈すれば魔法師としての才能自体がスポイルすることも考えられたが、一度は乗り越えた彼女たちだ。魔物と相対した課外授業を乗り越えたからこそ、十分耐えられるはずだと踏んだのだ。
いや、耐えられるはずだと信じたのかもしれない。
そう、アルスは彼女たちが導き出した決意の答えを聞くまではこの訓練方法は取らないつもりでいた。あまりにも早過ぎると思ったのだ。それは能力ではなく、精神的な意味で理想だけを投影した魔法師の姿はもはや害悪にしかならない。
それを断ち切った上で、彼女たちはなおも魔法師を目指した。共に戦うことを選び、そのための力を求めたのだ。
故にアルスはこの訓練を決行するべきか悩んでいるようでいて、他の選択肢を用意していなかったことも事実だ。彼女達の成長がそれを物語っていた。
だからこそアルスはこの学院に一人呼び寄せもしていたのだ――万が一に備えて。
頭を抱え込み、蹲ったテスフィアの傍らには刀が打ち捨てられていた。それを見たアルスは、胸が軋むのを感じる。こういうのを罪悪感というのだろう。
必要なことだとわかってはいても、震える彼女を見て心がざわついた。
――教えるというのはこういうことだったのか。本当に俺には向いていないな。
疎まれ役を笑顔で買って出て、僅かな間だというのに懇切丁寧に教え導く。それは鳥が雛を育てるように旅立つまでのその僅かな間、生きる力を備えさせるかのようだ。
そこまで行けば、一種の境地なのだろう。しかし、アルスはやはり自分は向いていないと思ってしまう。
今も震える紅い髪の上に手を乗せようとして自分の手を省みる。伸ばした自分の手は、はたして無垢な少女に触れて良いものなのだろうか、と考えてしまうからだ。
この汚れた手で何ができるのだろうかと。
人を殺めることはできても、包み込むことは出来ないのだろう。
そう思い至って手を引っ込めようとした時――アルスの視界、その奥でこちらに向かって微笑みかけるロキの姿があった。
その表情を読み取ることは本当に造作もないことなのだろう。まるで自らを卑下し、自虐するアルスの心を見透かすように背中を押してくれるのだから。
恐れないで、そんなふうにさえ聞こえてくる。
――何をやってるんだ俺は……。
らしくないな、と手を引っ込めて、そのまま項の辺りを強く擦る。手は後ろ暗い感情を振り払うかのようにそのまま後ろ髪をワシャワシャと掻き乱していた。
今度は何も考えず、アルスは自然な面持ちでその手をテスフィアの頭に乗せる。
「一先ず、大丈夫か? 今はその恐怖を忘れなければいい。その上で一つ一つ乗り越えていけばいい。乗り越えられるまでは付き合ってやるから……」
髪を優しく撫で、アルスは拒絶するかのように両耳を塞いだままのテスフィアの手に触れた。その上からゆっくりと手を握る。彼女の心が屈してしまわぬように強く包み込んだ。
我に返ったテスフィアはゆっくりと湿った瞳でアルスを見上げる。何も言葉を発することはなく、ただただ見つめた。
本当に怖かった、恐ろしかったのだ。何もできず抗えない自分の無力を自覚した時、小さな生命の灯火は、それこそ簡単に吹き消されてしまうほど弱々しいものだった。
いくら力をつけて、強くなったところで、弱々しい灯火に変わりはない。そう、力を付けるということはその弱々しい灯りを守ることでしかないのだ。いかなる脅威からも防ぐための防壁でしかない。
元々弱々しいものでしかないのだ――人の生命など。
だからこそ無防備に消し去られることを是としないために、己を磨く。技術や知識や、経験が自然と灯火を守る力と変わるのだ。
魔物と戦う技術はそれこそ一部でしかない。それでも彼女たちが立ち向かう脅威は明確化されており、そのための対処もまた明確であるのだろう。
今、やっと、二人はどれほど人間が脆弱な生き物であるかを認識したことだろう。もっともそれは腰を落としてテスフィアへと気遣わしげな目を向ける彼も等しく同じである。
そんな簡単なことがわかった。日常的に見聞きしている死、それはやはり遠い場所で、自分とはどこか関連性のないものだと思っていたのだろう。
人は死に直面するまで、変わらぬ今の価値を軽視しがちである。その命題を説く意味はないのかもしれない。それでも彼女達が目指す場所を考えれば無視できないことだ。
その意味を知った時には、大方無意味なものへとなっているのだから。全てが意味のないものへと還っていくのだから。
アルスの言葉、そのどれに返したのかわからないが、テスフィアは一つ頷いた。手を取り、勢いを付けて立ち上がるが、しっかりと地面を踏み締めることまではできないようだった。
本能的な死の予感は頭ではなく、身体が素直な反応を示す。
今のテスフィアはまたすぐにしゃがみ込んでしまいそうなほど焦燥しきっていた。それでも彼女は目元を擦って恐怖に屈したその証を消し去ろうと努めた。
「バカ……」
虚勢のように紡がれた言葉の意味は明らかだった。そう、これはやはり訓練であったのだから。
立っているのですらやっとの状態のテスフィアは未だ長い睫毛を湿らせていた。そして彼女は罰だといわんばかりにアルスの袖を掴んでいた――代わりに支えろ、そう言わんばかりに。
気がつけば訓練場の観客席にいたはずの下級生はあまりの一方的な戦い、もとい鬼気迫る戦闘に逃げ出したようだった。もしかすると教員に報告しに行ったのかもしれない。
その言葉を想像するならば、差し詰め「1位が乱心した」といったところだろうか。
何はともあれ、区画分けされた訓練場は内外問わず、水を打ったような静寂が訪れていた。
訓練をしていた生徒も今の鬼気迫る戦いを見た手前、継続して訓練を続けることはできなかったようで、そのまま逃げるように出ていく。
テスフィアに寄り掛かられたアルスは当分解放されないだろうと見て、軽々と赤毛の少女を抱え上げる。「ちょっと!!」という声は無視して一先ずは場所を移動させるべきと判断したまでだ。いくら区画分けされたとはいえ、アリスとの距離は声を張り上げないと正確には聞き取れないほどである。
「アル~私もぉ~」
一方、アリスのほうはテスフィアほど深刻そうな調子ではないものの、満足に歩けないという点では一致していた。
もしかすると、自分も抱きかかえて運んで、という要請かもしれないが。
腕の中のテスフィアは以前のような抵抗は見せず、あまり見られたくないように腕で目を隠していた。もっともそれはあまり上級生として見られたくないのは確かだろう。少しでも威厳を気にしようものなら否が応でも拒絶したはずだ。
それでもこうして腕の隙間から見える顔は微かな赤みを帯びていた。
「ちょっと待ってろ」
ぞんざいにアリスへと返す。これ以上、訓練は続行できないだろう。中央で沈黙している巨大スクリーンの下部では今回の訓練時間が短いことを告げている。
まだ放課後から一時間弱しか経っていなかった。
わざわざアリスを抱える手間を省くためアルスはテスフィアを抱えたまま向かう。その意図を読んだロキは平静さを装いつつも後ろに続いた。
チクチクとした視線を背中に受けながらアルスは走りたい衝動にかられるのであった。
もっともロキからしてみれば抱きかかえるまでは想定していなかったのである。だからというわけではないが、注いだ視線はアルスに対してではなく、その腕に包み込まれるテスフィアに対しての嫉妬であった。
せっかく確保した訓練場を時間一杯まで有効活用するために、アルスはこの後の予定をロキとの訓練に充てようかと思案していた。
しかし、それは予想だにしないところから遮られる。
「おい!!」
そんな物騒な声は突如として区画内に響き渡った。




