戻る日々と変わる日々
◇ ◇ ◇
研究室で膨大な資料を読み漁っていたアルスはふと時計を見る。そろそろ下校時間、つまりは以前のようにテスフィアとアリスが訓練をしに来る時間帯である。
アルスとロキが学院に戻ってきてから騒ぎが一段落ついたのは一週間後のことだった。毎日研究棟の前に生徒が集っては職員に注意をうける光景も定着していた。
なお一階には誘導棒まで設置されている。
その代わりというわけではないのだろうが、度々研究棟内で教員とすれ違う度に相談を受けることもしばしばだ。ここの職員は研究者気質な者が多く、引っ越してきた時と比べると好意的な関係づくりはできているのだろう。最も話してみると、やはり研究者というのは多かれ少なかれ通ずるものがある、ということなのだろう。
学院内ではすでにアルスは校内にいない、という噂が広まったおかげで静かになるのは意外に早かった。とはいえ、その理由はここ一週間研究室に籠もりっきりだっただけの話なのだが。
実際のところ、アルスは自室に引きこもって研究をしていたというよりも知識を深める作業に没頭していた。
総督に手配してもらった資料の山は、各国から集められた貴重な古書と呼べるもの。僅かばかりのお礼のつもりなのかもしれなかったが、どちらにしてもアルスにとっては有用なものだ。
魔法師や研究者の多くは生存領域に目を向け、如何に己を守っていくか、防衛に徹する傾向は根強い。実は外界のほとんどが未だ見ぬ未踏の領域といえる状態だ。
そこにアルスだけの望みがあり、ロキの望みに繋がる世界があるのだろう。
だから限られた時間はそう長くはない。
そのためにも。
「さて、そろそろ次のステップに移らなきゃな」
今にも破けてしまいそうな巨大な本を丁寧に閉じる。本来ならば厳重に保管されて然るべき古書は防腐剤のような匂いを閉じた時に吐き出した。
これは現存する数少ない世界地図である。無論、数ある中で微妙な食い違いは存在するため、どれも正しいようで正しくないものだ。
現在、アルスの研究室の片隅には厳重とは言い難いが、貴重な書物が置かれた棚がある。これらは新しく補充された分で、借り受けているのでいずれは返さなければならないものだ。
その中で何点か、アルスの興味――もとい懸念を抱かせる物があった。それはバベルの塔から押収された膨大な研究資料だ。
現在、バベルの塔はその資料や構造など急ピッチで解析している最中である。だが、その機密性から進捗状況は芳しくないだろう。何せあれだけの巨大構造物だ。
現在ではその発生させていた防護壁についての解明程度、実際の研究はまだまだ謎を秘めている。何より、単純な疑問としてクロノスの体液を投与された被験体、その廃棄場所はクロケルが記した場所しかわかっていない。これはハイドランジが裏で手を引いていた可能性もある。
だが、それ以前に廃棄された被験体はクロケル主導ではなかったため、廃棄場所は特定できていない。彼は研究を引き継いだに過ぎないのだ。
現時点ではここまでしかわからないだろう。
一先ずの区切りを付けると、アルスの机の上には新調したティーセットが載せられ、その場でロキが紅茶を注ぎ入れる。気に入ってくれているのはいいが、残念ながらロキが自らのお金で購入したものだ。もちろん、二人で選んだわけなのだが。
「お疲れ様です、アル」
「ありがとう。さすがにこれだけの文献を貸し出してくれたのはありがたいが、些か不用心だからな。さっさと返却するに限る」
「だから、急いでお読みになられたのですか?」
「それもある」
「他にも?」
紅茶を溢さないようにアルスは深く椅子に背中を預けた。
そんな横顔を覗きつつ、ロキは机に寄り掛かる。紅茶からユラユラと昇る湯気を、これから張り詰めるでだろう、そんな空気感を茶葉の香りが和ませつつあった。
「ん? 今日はいつもと違うな」
「はい、フルーティーな香りが特徴的で、砂糖を入れなくても十分甘みがあるようなので丁度いいかと」
綻ぶ頬、ロキは湯気の向こうで柔らかい笑顔を浮かべた。
ティーセットを購入した時に一緒に買ったのだろう。丁度いい、という言葉にアルスはカップを口に運びながら目を伏せる。
こういう気配りには脱帽せざるを得ない。男を落すなら胃袋を掴め、とはいうが、アルスの場合すでに彼女のコントロール下にあるような気がしてくる。
この静寂なティータイムもまた安らぐ一時だ。
「……もちろん、他にもあるさ。まずは約束通りあの二人をまともな魔法師にするところからだ」
「そうですか……いえ、そうですね」
含みを持たせたロキの声はたゆたうように湯気に紛れて溶け込んでいく。棘のような鋭さはなく、同調するような柔らかい声。
もうテスフィアとアリスは何も知らないただの雛ではない。それは近くでアルスを、二人を見てきたロキだから気付ける微妙な変化なのだろう。もっとも同性だからということも少なからずある。
ロキはだからこそ、明確にしておくべきだと意を決して口に出す。彼が自分を大切に思っていることは何となくだがわかる。戦いにおいて足を引っ張る以上に、アルスにとって気がかりな存在であってはならないのだ。おそらくハザン戦でもロキの実力が上回っていようとも彼はきっと「危なくなったら逃げろ」と言ってしまう。
多くの者を目の前で死なせてきたアルスには拭えないほどの死の予感が付き纏う。それはロキにとって思わしくないことだ。彼の傍に居続けたいと願う一方で、自分という存在が彼の足手まといになってはならないのだ。
彼の傍に居続ける大切な存在は自分一人である必要はない。万が一の時に彼の傍で支えられる人が必要な気がする。
だから。
「アル、私は何番でも構いません」
「…………!」
一瞬吹きかけたアルスはロキの視線を受けて、すぐに察する。すでに一部では知れ渡っているが、優秀な魔法師の子はその潜在的素質が遺伝するという研究結果がルサールカから発表されている。無論、大々的には公表されてはいないが、無関係という以前の研究結果を覆すに足るものだった。
無論、連日のように研究棟前へ集う女性陣は隙きあらば力ある者に応じて用意される席を狙っているのだろうと、ロキは考えていたのだ。
これはルサールカに立ち寄った際、元首リチアから聞いた話だ。そのため、アルスもすぐに察することが出来た。
唐突な話題ではあるものの、近いうちに掘り返されるものだという予感を抱いていたため、アルスとしては「来たか」という程度の驚き。
「何番とか、俺をなんだと思っているんだ」
「ですが……」
「まぁ、軍の縛りはなくなったとはいえ、魔法師という枠組みに入るからな。求婚の類はあるかもしれない。もっとも俺がそんな器用な人間に見えるのか?」
「もちろん」
即答するロキは過大評価であることは事実だが、実際のところアルスには必要な存在であることも確かだ。
ここ数ヶ月、ともに行動してきて新たにわかったことがある。彼の中で未だ答えがでないのもそのためだ。養うという意味でさえ、果たしてどこまで理解できているのか、ロキはだんだんと不安になってきていた。
きっと大切に、大事に想うその感情に彼は明確な回答を導き出せていないのだ。心の奥深くに踏み込んでしまうことを彼は躊躇っている。
恋や愛とはほとほと縁遠い生活を送ってきたアルスにはやはり致命的な欠落があった。朴念仁以前の話だ。一度も触れてこなかったのもそういうことなのだろうとロキは考えている。
しかし。
「お前はそれでいいのか?」
「…………!!」
朴念仁以前というのは返上して、朴念仁へと繰り上げる。それが良いことなのかと聞かれればロキは原点に帰らざるを得ない。
だから言葉に詰まることはなく、一変の曇りも無く微笑を浮かべてこう答えた。アルスが望み、その支えとなり、彼が幸せであるというなら何も問題はない。ただのその中に自分がいたいという願望はあるが。
「はい…………でも、できればあまり遠くにはいかないでいただける、と」
不安を乗せた視線がアルスへと向けられる。
「それこそいらない心配だ」
そういって立ち上がり、アルスはロキの前まで移動すると憂慮を取り除くようにそっと手を銀髪の上に乗せる。
「本当ですか?」
「お前こそ、目の届かないところに行かないでくれよ」
表情を変えず、ロキは真っ直ぐアルスを見つめ返す。背伸びすれば届きそうな距離に彼の唇がある。
だが、アルスの口から発せられた言葉はきっと本心であると同時に、恋や愛とは少し遠くにあるような気がして、ロキは爪先を立てることができなかった。
今までのように彼が求めた場所へと戻ってこれたが、時間が止まらないように少しずつ何かは変わってきているのだ。
丁度話もこれ以上、広がりを見せない所で、本日もいつも通りテスフィアとアリスが研究室を訪れるのであった。何かが変わるその変化の兆しには彼女たちも含まれていることをロキは知っている。
アルスが学院で過ごす僅かなタイムリミットをどう過ごすか。
アルスが言うように鍛えて終わるのならばそれでもいいだろう。だが、何かしらの答えはきっとテスフィアやアリスに求められる。
唯一、知る者として彼女たちの答えにロキは口を挟むつもりはない。もう深く関わり、アルスにとっても必要な存在へと変わっているのだから。
・「最強魔法師の隠遁計画」書籍化のお知らせ
・タイトルは「最強魔法師の隠遁計画 1」
・出版社はホビージャパン、HJ文庫より、2017年3月1日(水)発売予定
・HJ文庫様の公式サイト「読める!HJ文庫」で外伝を掲載させてもらっております。
(http://yomeru-hj.net/novel/saikyomahoushi/)




