戦地の死地
戦いの口火――もとい反撃の狼煙を上げたのはメクフィスからだった。
アルスが有する圧倒的蹂躙の化身たる異能の存在をメクフィスは既知としていたが、その解明はできていない。いや、異能に関していえば彼は使うことすらできないのだ。
せいぜい分析が関の山であった。魔力情報の欠如という厳然たる事実のみ。
それでもこの身体はメクフィスの中でもトップに入る戦闘能力を有している。ヒスピダという素体を容易く手放してしまうほど。
完全なる無手のメクフィスは最も新しいアルスの容姿を取っているため、彼の服装は簡素なローブを纏った戦闘服である。無論、それすらもメクフィスの一部であるため、本来備わっているはずの機能はない。
ローブのポケットに両手を差し込み、お辞儀をするようにジャンを覗き込む。
その醜悪な表情の変化にジャンが気づくのは一拍遅れる。
それはなんの予兆すらない。
眼前に現れたそれはまさに小型の太陽であった。最上位級に属する【煉獄】である。効果範囲は狭い一方で範囲内の物は抗えない業火に身を焼かれる。否、人の身では焼かれることすら認識できずに燃え尽きるだろう。
即座にジャンは【八津原の剣】の形状を盾へと変え、内側に浮かび上がる魔法式の魔法名を唱えた。
「【命涙】」
一粒の雫が太陽に落ちた――直後、そこを起点に火球は一瞬にして膨大な水へと姿を変え、津波となって押し寄せる。しかし、魔力で作られた水は何も濡らすこと無くすぐさま消えていく。
盾へと変えた【八津原の剣】はその表面から今も煙を吐き出している。
「即座に対抗魔法を構築するとは――侮れませんね」
「――!!」
耳元で囁かれたような声の位置。
視界の端でメクフィスの手に伸びる【凍刃】が瞬く。手首を丸々包んだような剣。そもそも【凍刃】などエンチャントと呼ばれる魔法はその媒体となるAWRがなければならない。自らの手首ごとというのは凍傷すら辞さない常軌を逸した戦法だ。
ガキッ――声がすると同時にジャンは手を盾に触れさせて閃く氷の剣に向かって振り抜く。盾は一瞬で凝縮され再び【八津原の剣】へと変えていた。
鍔競り合いになると思われた刹那的な攻防――しかし、メクフィスの空いたもう片腕が、間髪入れずに振るわれる。剣先が地面の上を滑り振り上げられた。
ジャンはこのやり取りだけでも相当気が滅入る思いをしていた。まるで戦闘スタイルはアルスのそれとは異なるが、手足を動かすように魔法を行使するアルスの魔法工程がここまで厄介なものだとは思っていなかったのだ。
しかし、人間を相手にしているという意識を取り除いたジャンは容赦の必要性を感じない。
よって己の系統外の魔法だろうと相手を殺すために手段は選ばない。
足に込めた魔力が瞬時に魔法へのプロセスを終えた。【地割れ】、中位級魔法であろうと使い方次第では有用である。発動までの時間はそれこそ最速という自負を抱いているジャンだが、ことアルスという魔法師を相手にしては造形や情報構成の密度で天と地ほどの差がある。
体勢を崩してまで下から振り上げようとするメクフィスの手元を踏みつけた。
蹴りとしては弱々しいもの、されどもその攻撃は何かが砕ける音を伝えてくる。ボキッと足元で【凍刃】があらぬ方向に手首ごと曲がる。
そのままジャンは二段蹴りへと移行させようとした。
だが、苦悶というものとは遥かに縁遠いメクフィスの表情を見。
目の前のアルスを模した頭がお辞儀でもするように垂れ下がる。ただの無防備――だが、その奥に閃く巨大な氷剣の切っ先に動き出したジャンの蹴りは一瞬の迷いを見せた。
「【アイシクル・ソード】」
射出と同時に紡がれた魔法名。メクフィスが頭を下げたすぐ上を通過し、ジャンの鼻先へと狙いを定め飛来する。
「――ック!!!」
意識の隙間を突いたように【八津原の剣】と拮抗し【凍刃】が刀身を削るように手元へと滑ってくる。この体勢では拮抗が崩れるのは当然であった。
しかし、ジャンは【凍刃】の軌道を誘導し、仰け反りながら上に受け流す。ほぼ瞬間的な判断だったが、受け流す動作は同時に【アイシクル・ソード】の切っ先を逸らすことと、身体を仰け反らせる手助けをした。
それがなければ鼻先を通過する程度では済まなかった。
仰け反ったがために片足も地面から離れ、寸刻身体が宙に浮く。この隙を相手が見逃すはずもなく、ジャンとて百も承知であった。
足が地面から離れ、鼻先を氷剣が通過していく中で、唯一魔法行使中の右足がフリーとなり、腰を捻ってメクフィスの首に命中させた。こんな体勢で放たれた蹴りが果たしてダメージとなるのかといえばならない。
それでも十分だった。未だ魔法を解いていないのだから。
空中で視線を足元へと向けた。
首から伝わる砕ける音。内部破壊の効果を持つ【地割れ】は狙い通り首の骨を砕いた。メクフィスの顔が驚愕に染まり、首の反対側に突き出るような骨が出っ張る。
「――!!」
だというのに怯むことすらしない。
跳躍したメクフィスはネジ曲がった顔で眼だけをジャンに向けていた。そして彼のもう片腕も砕いていたはずだが、メクフィスは些事だとばかりに頭上で両手を組み合わせる。
肘の下から長大な【凍刃】が瞬く間に構築された。
魔法としての定着もほどほどにジャンの真上へと叩き落される。やはり【凍刃】は水面に水滴を落とすように爆音を上げて粉砕された地面を巻き上げた。
長大な【凍刃】はその威力に刀身を細かく砕く――が魔力残滓として消えるはずの破片はそのまま全方位に向かって飛び散る。
そこに魔法の後押しがあったのは疑うまでもない。いや、この魔法が発動した時点では戦いは終わっていないことを意味していた。
めくれ上がった地盤の上に足を置き、メクフィスは真下ではなく、真横へと顔を向けていた。曲がった首は何事もなかったようにいつの間にか完治している。
「なんと厄介なAWR……」
「そりゃ、どうも」
鞭のような形に変わったAWRが徐々に【八津原の剣】になるが、やはり回避するための変形であり、防御まではできなかったようだ。
腕をクロスさせて頭を防いだジャンの腕には数カ所ほど突き刺さった破片から血を滴らせていた。
即座に霧散する破片に傷口のみが赤い染みを落とす。
厄介なAWRというのはメクフィスの認識である。回避にまで使える、という意味だけではなかった。やはりあの剣はメクフィスにとって思わしくないものだ。
魔法の構成を破壊するでもなく、打ち返す。まるで磁石の反発のように弾かれるのだ。で、あるならば魔力の情報で構成されているようなメクフィスの身体はあれに堪えられるだろうか。
戦い慣れたジャンにとって破片が突き刺さった程度は大したことではない。
剣を構えるその姿は神妙の一言に尽きる。
――頑なに【八津原の剣】で来ますか。
少なくともメクフィスに対しての有効な手段と察しているのだろう。
ならばやることは最初から決まっている。しかし、最強の素体である一方で魔力量の消費は尋常ではない。
凍傷と無理な攻撃による彼の腕はジャンの比ではないほど血が痛々しく流れ出ており、左腕は拉げていたのだが、首同様に今は元通り、血さえ徐々に体内へと引いていく。
切羽詰まってもなおメクフィスは不敵な笑みを湛える。
「ふふっ、では魔法師らしくいきましょうか…………こんなこともできるのですから」
ジャンの金髪がなびいたと思った直後。頭上から局所的に叩きつけるような風の壁が吹き付けた。
「【摂理の失墜】かっ!!」
足にかかる負荷が容易く地面に罅を走らせ、その力は段階を追って増す。
魔法を弾く――正確には分離させることすら可能な【八津原の剣】をもってしてもこう断続的な魔法では一時の時間すら稼ぐことは適わない。
それでも――。
「【千年樹の鼓動】」
一帯の地盤が盛り上がる。メクフィスとジャンの両者から離れた場所が震源地だろうか。二人を中心に周囲を覆うように何かが地面から姿を現す。それは大木の幹のような太さの木だ。
枝のように生えたそれは周囲の十数箇所から二人の頭上へと伸びていく。
そしてジャンの頭上に覆い被さると太い木々が互いに捻じれ合いながら天に昇っていく。次第に葉が茂り始めた。夜の帳が降りたような暗さ。
全身を押し付けるような風は天然の天蓋に防がれるが。
そう思った直後、超巨大な千年樹が一瞬にして業火に包まれた。葉が落ちるように頭上から火の粉が降ってくる。
「――!!」
「さすがにあなたが対抗魔法を即座に構築してくると思ってましたから……」
千年樹を燃やし尽くしたであろう本体が突き破るようにジャンの視界に飛び込んできた。
――【不死鳥】!! こんなものまで――だが。
その選択にジャンは救われたのかもしれない。
この段階ではメクフィスは掌の上であるような高揚を抱いていた。だからこそ気づけなかったのだろう。召喚魔法は魔法の使用による練度以上に即座に組み込める構成プロセスが最も重要になる。
これほどの召喚魔法だ、言ってしまえば召喚できたとしてもアルスとの差は歴然だ。
アルスがルサールカの第1学院で使っていなければ気づけなかった。
そうあの時と比べれば現実への定着が明らかに弱い。つまり、緻密な構成に無理が生じているということだ。それでも発現できるということまでは予想していなかったのだが。
いつの間にかジャンの手の中には剣ではなくハンドベルが握られていた。
愚直にもメクフィス向けて走り出す。当然に【不死鳥】の落下速度を上回るものではない。
だからこそ、メクフィスも何も対策を講じようとはしなかった。
走りながらジャンはベルを鳴らす。このAWRがあることによって生まれた風系統の魔法。
「【無罪の音】」
鼓膜を微かに震わす心地良い鐘の音。だがその音波のような空気振動が伝播した直後。
頭上の業火の鳥――【不死鳥】は断末魔のような甲高い叫び声を轟かせて全身を霧散させた。
「馬鹿なッ!!」
そうこの魔法でさえ本来アルスが召喚したならば構成そのものを乱すのに数秒は掛かってしまう。それほどまでに存在を定義されてしまえば、召喚魔法に絶対的優位がある【無罪の音】とて手間取ってしまうだろう。
メクフィスの驚愕は瞬刻の時間すら与えられるものではなかった。すでにジャンの右手には【八津原の剣】が握られており、その間合いまで切迫していたのだから。
「ルンブルズウウゥゥゥ!!!!」
メクフィスはざわつく内の危機感を吐き出すようにアルスの顔で極限まで怒りを込めて叫んだ。




