燃える黒の森閑
◇ ◇ ◇
ベリックたちが一時的な拘束を強いられた翌日。それは静かに、荒々しい早朝を白んだ空に映していた。防護壁からだいぶ離れた距離であろうともこの轟音は物々しく妙に澄んだ空気を伝って届いたかのように思えた。
それほどまでに苛烈な進行がゆっくりと行われていた。いや、一定の距離まではそれこそ速かったのだが、確実に近づくというところで問題が発生したのだ。いや、問題というより彼にとってはセンセーショナルな演出に過ぎなかった。
「凄い、凄い!! よくもまぁこれだけ集めたものだね」
「やはり裏でアルファが手を貸していたようですね」
外界の清澄な朝の空気は瞬く間に塗り替えられていく。連れてきた部下のことごとくが目標に向けての進行を阻むようにトラップに引っ掛かっていた。寧ろそう命令しているのは彼なのだが。
まるで子供がはしゃぐように命を散らしていく部下をクロケルは歯牙にも掛けず、ただただトラップの量に驚いてみせた。一国が防衛に配置する量に匹敵するトラップは巧みに仕込まれていた。様々な系統の魔法が瞬時に瞬いては凄まじい爆風を撒き散らす。
魔力によって衣類に付着する液体はないにも関わらず、仲間の塵を払うかのように服の上を叩くと。
「そんなのはわかりきったことさ。全てがもう遅いとはいえ、さすがにアルファの元首殿は気づいた頃かな」
会合での表情を目敏く見ていたクロケルは悠長な元首に正直辟易していた。あまりにも手応えない。こんなことならばもっと早く実行に移してもよかったのではないかと思ってしまう。
とはいってもそれは感情面での話だ――そう、これは感情の話なのだ。
クロケルの足は意識せずに急かされる想いが気持ちを先行させていた。
さすがに魔物の影は見えないものの、散歩のように、とまではいかない。狩る者と狩られる者の心理は果てしなく隔たりがあるのだから。
とはいえ。
――彼がそんな臆病なら苦労はしないのだけどねぇ。
数十人連れてきた部下は寒空の朝日を覗かせた時には指の数で十分足りてしまうほど減らしていた。魔法師として道理に反した犯罪者であろうとも、その実力は決して並の魔法師に劣るものではない。それどころか今日まで生き抜いてきたことを考えればそれなりに身のこなしは高いレベルにある。
だからといってクロケルが感傷に浸ることなどない。最初からいようといまいと差して違いはないのだから。さすがにここで臆病風に吹かれる者はいなかった。
きっと彼らにはそのトラップが憎き敵にでも見えているのだろう。
そうさせている隣を歩く白髪の美丈夫を見る。
彼がこの姿になるのは、それこそ彼と会った時限りだった。この青年が本当の彼な気もするが、以前、メクフィスはこの素体も入れ物として重宝していると言っていたような気がする。
まったく素顔を見せない彼にクロケルはどこか儚げな目を向けた。
「何か付いていますか?」
「い~や。ただこれから神に等しい存在になるのだと思うとね~。長かったなぁとか思うわけさ」
「さすがにご高齢ともなると涙腺が緩くなって、とかは言わないんですね」
「老人扱いは酷い。これでも身体はれっきとした20代なんだから」
「これは失敬。これから本番だというのにもう先を見据えているのかと思いまして」
「結局はアルス君も路傍の石でしかないからね。そもそも論でいえば僕のミスから始まっているからただの回収作業なんだよ」
外界においてこれほど似つかわしくない会話もそうはないだろう。緊張感に欠けるというには日常的な雰囲気に弛緩しきっていた。
これまで黙って聞いていたハザンが苛立ちを隠そうともせず、背後で聞きに徹していた。彼の気を紛らわすのはせいぜい部下のつまらない死に様を傍観する程度だ。せめて少しは嫌々なところを見て、逃げる兎を追うように自分が手を下したかったが、自ら喜々としてトラップに飛び込む姿は実につまらないものだった。
そろそろ会話に加わろうかと聞き耳を立てるが。
「とはいえ、おそらく君は死ぬよ。てか、僕以外は死ぬんじゃないかな」
「ふふっ、それは残念ですね。新しい世界とやらを見たかったのですが」
「なんか嬉しそうじゃない?」
「私もそんな予感がしていたので。それを覆すのも面白そうですしね。変な話ですが、この身体になって生きている実感というのを感じたことがなかったんですよ。だから、一度は死んでみたいと」
朗らかな笑みを湛えるメクフィスにクロケルもつられて歯を見せて微笑んだ。狂ってこその世界だ。正常な思考など端から必要とされていない。
「願わくば頑張ってくれたまえ……」
溢した言葉にメクフィスは返す暇もなく、ふいにクロケルが足を止めるのと同時に立ち止まった。
目の前でまた一人部下が馬鹿の一つ覚えにトラップに引っ掛かっては爆炎が火柱を天に昇らせた。黒煙が蔓延する中で、それは意図的に払われていく。外界の巨木の隙間を息吹が吹き抜けたのだ。
そして――。
「シングルにまで紛れ込んでいたとはさすがの俺も盲点だった」
晴れた先に待ち構えていた少年を見て、クロケルは一層頬を持ち上げる。それは焦がれた存在であり、最大の弊害。
「いずれはバレることだしね。それにしても意外だなぁ。てっきり見つけるのに時間が掛かるだろうと予想していたけど、そちらからお出迎えしてくれるとはね」
漆黒のローブを纏ったアルス。その表層には幾何学的な模様がうっすらと見えた。
そして背後からぬらりとずれ、姿を現した銀髪の少女。
「第5位クロケル。あなたの仕業だったんですね」
キィッと射抜くような視線が向けられるが、とうのクロケルは意外感を露わにする。
「おや、なんだいその子は……外界に逃げた時点でてっきり一人を選ぶと思っていたんだけど……いいのかい? 殺すよ」
冷徹に細められた瞳に冷笑を称える口元。それを見てもロキは臆することなく進み出た。
「少なくとも私がいればこちらに気を回さなければいけなくなりますし、当然そこの雑魚では役者不足ですよ」
「そういうことだ。いらない気を回すな、どうせお前が先に死ぬだけだ」
姿を見せた時点でアルスはこの一件に決着が着くと確信している。見た目上分が悪い戦いではあるが、今のアルスは然う然う死ねない。
目の前の銀糸のような髪を見てから視線を相手に向ける。
「そうかい、まぁこっちは別にいい、よっと」
「「――――!!」」
クロケルが片手を上げた直後、左右に控えていた残り二人の部下が――一人は胸から腕が突き出て血飛沫を撒き散らし、意識することなく即死。もう一人は背後から振るわれた豪腕によって全身の骨を砕けさせて吹き飛んだ。激突した幹に凭れ掛かるように倒れるが、すでに人のあるべき形をしていなかった。
最初から人形を連れてきたのではと勘違いしそうなほど、一瞬の出来事だった。
それを指示したクロケルは意にも介さず。
「時間の無駄だからね。どのみち、彼らには死んでもらわないと困るし……それにその子にいったい何ができるんだい?」
「イカれたことをするからさぞかし湧いているのかと思えば、随分利口だ。何ができるかは瀕死になってから気づいてくれれば構わない」
どこか怒気を孕んだアルスの声音に身構える者はいなかった。それどころか部下を排除したハザンとメクフィスが各々不気味な笑みをピクリとも変化させずに口を開く。
「もう少し賢い者が多ければこの世界は変わったでしょうね。所詮魔物の出現はただの淘汰、人間を統べるのは人間でなければならず、誰かがしなければならないことでしょう」
「…………」
本心からの言葉に必要以上の哀愁を込めてメクフィスが告げた。その姿、そのものが魔力を発しているような異様過ぎる不審感を抱く。本物の人間の皮を被っているのかとさえ思われた。
「イリイスにいっぱい食わせたんだろ。楽しめそうじゃねぇか」
一人殺した後にハザンは自らの身体に小さなカミソリのような剥き出しの刃物で一筋の切り傷を付けた。相手の強さなども加味されていたのか、薄っすらと血を滲ませるだけに済ませた。
鋼の褐色肌が胸筋を盛り上げ、服の間から覗かせる。腰に刺さる剣の柄に鞘は見当たらず、物々しい鈍色が鈍く輝いていた。野獣のような獰猛な瞳が値踏みするように笑みを湛えた。
「あの時のデカブツか。おいおい雑魚がまだ残ってるぞ」
ブチッ――何かの血管が切れたような音がハザンの近辺に鳴る。それは同時に凄まじい威圧感をともない、一瞬にして巨漢を見失うという事態に陥った――いや、この場に見失うような者はロキを含めて一人としていなかった。
アルスとロキは確実に視界に迫る影をしっかりと見据え、切迫し、豪腕が振り下ろされる直前に回避していた。
地面が粉砕される。木々が一振りにざわめいた。
魔力を纏っただけの攻撃で十分初位級並の威力にアルスは内心で苦々しくも称賛した。単純にこれが外界に向かってくれれば随分と楽できただろう、という少し邪な考えだが。
何はともあれ。
「見た目通りの反応だな」
当然追撃はない、小手調べ程度の一撃だったのだろう。
それでも己の感情を自制できていない時点で少しは光明が見えてくる……何より予想通りではあった。バルメスでの一戦でアルスは彼の魔法を吸収している。そのため、感覚的な部分で魔法の選択や構成に注がれた魔力から明らかに乱暴な構成を辿っているのが読み取れたのだ。無論、本来ならばこんなことを感じ取れることはないが、彼の場合には純粋な魔力が構成に収まっていなかった。
故に性格の見当が付いたのだ。
「ホラホラ、少し落ち着きなよ。みっともない」
腕を地面に埋めるハザンの後ろで丁度同じ高さになった頭をクロケルはノックするようにコンコン叩く。
「予定変更。君はあの小さいのを先に殺してきて」
「おい! 約束がちげぇだろ!?」
「言ったよね。どのみち君じゃ彼に勝てない。死んでも構わないけど、正直邪魔なんだよ……意味、わかるよね」
そう至近距離から向けられた澄んだ碧眼にハザンは殊勝にも悪態を吐きながら了承した。勝敗でいえばハザンは食って掛かっただろうが、クロケルの有無を言わせぬ圧力に渋々折れたのだ。
不貞腐れるように首を回すハザンに。
「君も長いことクラマにいたんだ、殺したら戻ってきていいからさ」
「そうじゃなきゃ頷くか……」
のそっと立ち上がったハザンは「それじゃ、先始めるぜ」とぼそっと呟いた――刹那、巨体が一足飛びに駆ける。
激流のように魔力を纏った身体が一瞬にしてロキの目の前で停止する。魔力の性質が風系統に切り替わっているのを感じたのは回避行動に移った直後に理解させられた。
魔法としての発現はないが、魔力が風という実体の現象を引き起こす段階で留められているのだ。
それは叩きつけられるような向かい風となってロキを襲う。真正面で受けた彼女は回避行動を取る直前に自分の足が僅かに地面から離れていることを悟り、踏ん張りが聞かずに回避のための距離がまったく稼げない。
瞬時に身構える。
真下から振り上げられる岩のような拳はただの打撃ではあったが、先程の攻撃でも直撃すればどこかしらの骨は確実に持っていかれるだろう。
一瞬の間にロキとアルスはアイコンタクト交わす。
そうここからが開戦なのだ。
単調な攻撃をロキは持ち前の探知ソナーを使うまでもなく回避できない宙空で魔力を滑らかに伝わせていく。腕に限界まで力を込めて一部の狂いもなく巨大な拳の側面を叩いた。
その拳を逸らすことができない代わりに自分の身体を弾かれたように捻る。
傍を抜けていく拳をやり過ごしたロキは回転する身体に任せて回し蹴りを丸太のような首元に叩き込んだ。到底ダメージを入れることはできないが、それでも安易な攻撃による返礼。
コンマ数秒の停滞の中で腕を足場にロキは大きく跳躍して茂みの中に消えていった。
呆然とするハザンは己の思惑どころか、一発見舞われたことにすぐに事態を把握することができない。
が――。
「あのがっきゃあああぁぁぁ!!!! もう殺すだけじゃ済まさねえぇぇ!!!」
野太い濁声の咆哮が一気にハザンの頭に血を昇らせた。癇癪を引き起こす憤怒。溢れる激情は膨大な魔力を感情とともに吐き出す。それどころか状況を理解する時間が増えるごとにギリギリと握られた拳が硬くなり、浮き上がる青筋が激昂と殺意を露わにした。
巨大な魔物のようにロキの後を血走った目で追う巨体は腹いせに木々を次々に薙ぎ倒していく。




