さらば英主
ミンダウガスの人生は、上手くいかなかった事も多々あるが、それでも大体の部分で打った手が嵌まっていた。
若き日にモンゴルを見て恐れを抱き、その脅威に立ち向かうべく布石をし続けた。
部族連合だったリトアニアを統一し、王国にまで成長させた。
モンゴル騎兵を見倣い、軽騎兵部隊を育てあげ、それが決戦では大いに役立った。
外交において、親モンゴル派の「ネヴァ川の英雄」アレクサンドル、反モンゴル派のダニエルと、バランス良い付き合いを続けて来た。
決戦の地は、配下諸公から「強引だ」と言われながらも侵略を行ったルーシの地、本土が無傷ではないにせよ、外地にてモンゴルを食い止められた。
ミンダウガスはただモンゴルとだけ戦って来た訳ではない。
彼は今も、キリスト教騎士団による征服事業に立ち向かい続けている。
それでいて、キリスト教社会から学ぶべき事は学ぶ。
キリスト教から見た異教国ゆえ、また部族連合国家だったゆえ、国家の制度は古いままであった。
それを当時としては標準的な国家体制に作り替える事に成功。
その上で、亡き兄より託された「リトアニアらしさ」も維持し続ける。
結果、リトアニアはまだ大国ではないにせよ、欧州諸国から一目置かれる強国に成長したのだ。
一旦甘く見て、傲慢な態度に変わって来た周辺の騎士団や国家も、再度リトアニアが異教に戻った以上、それなりに警戒せねばならない。
キリスト教の後輩国として上から目線で接していたら、噛み付かれたようなものだ。
この国の牙は抜けていない。
ここまでのリトアニアを作り上げたミンダウガスだが、きっと彼一人では成し得なかっただろう。
彼はズバ抜けた天才ではないし、最初から油断も隙も無い梟雄でもなかった。
むしろ「次男坊で、兄に従っていれば良かった」普通の人物だった。
それを英主に育て上げたのは女性たちである。
師とも言える「女傑」プリキエネ。
心の安らぎをもたらしてくれた最初の妻ルアーナ。
そして、その2人を失った後、自分を見失っていたミンダウガスを救ってくれた、二番目の妻で初恋の女性でもあるモルタ。
ミンダウガスは今、そのモルタを喪おうとしていた。
「気がついたかい?」
昏睡から目覚めたモルタの手を、ミンダウガスは優しく握っていた。
この男は、政治面では非凡だし、本人は向いていないと思っているが、駆け引きなんかは相当にしたたかな部類である。
だが私生活においては「一般人のような、平凡な夫」であった。
むしろ、女性に依存しがち、時には尻を蹴っ飛ばされて発破をかけられないと動かないような駄目人間な側面も持っている。
そして、当時の高貴な者が持っている、女性に対する冷たさを持っていない。
キリスト教において、女性は「悪魔の誘惑に負けて、夫をも堕落させた弱き者」である。
現在のヨーロッパを作ったともいえるゲルマン民族の祖法「サリカ法」、これは女性の相続を認めていない。
リトアニアもその影響を受けてはいるが、それでもまだ原始社会に近い女性の尊厳が残っていた。
そして次男のミンダウガスは、「女は所詮、部族間の関係を繋ぐ為の道具」とか「一夫一妻は守るが政治や軍事には口出しさせない」といった教育も受けていない。
むしろ、自分とは違った目で世界を見ていたプリキエネの影響もあり、女性軽視とは異なる精神を持っていた。
その為、病気で余命いくばくも無い妻の為に、政務を投げ捨ててまで付き添う情の深さを発揮していた。
ミンダウガスは、妻モルタが大好きで堪らないのだ。
当時はもう老人となった年齢でも変わる事無く。
「夢を見ていました」
モルタが小さな声で話し掛ける。
うんうんと黙って聞いているミンダウガス。
ここだけ見ると、王家ではなく庶民の家庭の老夫婦そのものだ。
「13歳の私は、貴方に助けられた後、そのまま貴方と結婚していました。
貴方が連れて来たルアーナさんを見て嫉妬したりしましたが、何故か仲良くなって、一緒に貴方を盛り立てていました。
妹も貴方に保護され、そこで育てられて、皆で笑って暮らしていましたわ」
「そうか。
そういう事も起こり得たんだね。
そうなっていたら、俺はもっと幸せだったかもしれない」
だがモルタは首を横に振り、否定をする。
「幸せな貴方は、そのまま一地方の公爵のままでした」
「それでも良かったよ」
「いいえ、そうなっていたらリトアニアは、タタールか騎士団か、どちらかに征服されていたでしょう」
「それも夢で見たのかい?」
「いいえ。
目が覚めてからそう思ったのです。
夢の中は幸せな世界でしたよ。
きっと夢の世界を司る神は、私には楽しい世界を見せてくれたんでしょうね。
現実とは違って」
「現実は辛かったのかい?
俺は君に苦労を掛けていたのかい?」
モルタは否定はせず、微妙な表情になる。
「確かに苦労はありましたが、辛くは無かったです。
思ったよりも駄目人間な貴方に発破をかける苦労はありましたけどね。
でも、母親がリヴォニアに連れて行かれ、そこで生まれた高貴でも何でもない身の上の私が、王妃なんて過分な身になれたのです。
これはこれで面白い人生だったと言えますね」
そう言ってから、一つ溜息を吐く。
「でも、もしかしたら素の私は、夢の中で見たような平凡な人生を望んでいたのかもしれません。
初恋の男性と結婚し、王とか公とかでない村人の生活をする。
貴方のように、一見男らしいけど、私の前では途端にだらしくなくなる人で十分。
平凡な人と、可愛い子供たちに囲まれて、笑っていた……」
「俺が君に出会った事は迷惑だったのか……」
「違うって言ってますわ!
ああ、貴方はこういう時にグチグチ言って、黙って私の死に際の独り言を聞いていればいいんですよ!
貴方が私にそうして来たように!
私も喋っているだけで、自分の人生を総括出来るんですから」
「いや、モルタよ……。
君は結構俺に文句言って来たじゃないか……」
ミンダウガスはその次の言葉を出せない。
死の床の筈のモルタから、強い目で睨まれたからだ。
ミンダウガスが愚痴を零した時に発破をかけられる、浮かれている時は窘められたような目で。
「はあ……」
モルタはまた溜息を吐いた。
溜息な筈なのに、息が浅い。
彼女の衰弱具合が分かる。
「ミンダウガス様、私は別に貴方に文句を言っているのではないのですよ。
ただの村娘が王妃になる、それは面白い人生で感謝をしています。
でも、もしかしたらあのまま村に残り、平凡な人生を送っていたかもしれない。
今も私は幸せなのですが、もしかしたら別の幸せもあったのかもしれない。
運命というのは分からないものです……。
って、なんで私が私の人生を貴方に伝わるように、分かりやすく纏めないと駄目なんですか!
死にそうな女にそんな事を言わせるなんて、貴方は駄目な夫です。
反省して下さい」
「はい……」
国王にも関わらず、シュンとするミンダウガス。
また一呼吸置く。
「私は思うのです。
貴方もまた、本当は公でも王でもない、村人の夫婦のような人生を送っていた方が幸せだったのではないかな、と」
「否定はしない。
元々俺は、その程度の人間だったと思うよ。
君を助けた後、ヴィスマンタス公になんか預けなければ良かった。
あのまま素直に君に告白し、打算も公的な立場も何も無しで結婚していれば……」
「そうしたら、今の貴方にはなっていないし、ルアーナさんと出会う事も無かったのでしょうね」
「う……」
「運命というのは不思議なものです。
あの時、貴方が私を手放したから、ミンダウガス様は優れた王になれたのかもしれません。
貴方がささやかな幸せを掴めなかったから、今、より大きな幸せになったのかもしれません」
「そうだね。
そう思う事にするよ。
結果として良かったんだって。
俺は君にも、ルアーナにも出会えたんだから」
「そしてリトアニアの民も、騎士団やタタールに蹂躙されずに済んだ」
「うん、それは俺の功績だ。
褒めて褒めて」
「調子に乗らない!」
「はい……」
モルタは遠い目になっている。
過去を思い出しているようだ。
「確かに私たちは幸せになったのかもしれません。
でも、私の最初の夫、貴方が預けて失敗したっていうヴィスマンタスは不幸になりました。
あの人は、貴方のせいで死んだのですよ。
私の妹も、貴方のせいで夫と死に別れた。
でも今は幸せだと聞いています。
分かりますか?
貴方はもう、私たち家族の運命だけを左右する存在じゃないのです。
もっと多くの人たちの運命を変えてしまう存在になったんです」
「うん……」
「私は政治も軍事も細かい事は分かりませんし、口も出しません。
でも、そういう事は分かります。
私が貴方の元に連れて来られた時、ヴェンブタス公はリトアニアの為だ、って言っていました。
私はそんな大きな事は知りません。
私はただミンダウガス様だったから、それが運命だと思ったから貴方に嫁ぎました。
貴方は、私が居ないと……ルアーナさんやプリキエネ様が亡くなった後はおかしくなっていたって聞きました。
だから……」
「だから?」
「私が死の神ピクラス様の元に行った後、おかしくならないで下さい」
「嫌だ!
そんな約束はしない。
俺はお前が死んだら、どうなるか分かったものじゃないぞ。
だから、死ぬな!
俺より先に死ぬな!」
モルタは、疲れた体で何度か目の溜息を吐いた。
「もし出来ないのであれば……」
「出来ないのであれば?」
「王なんてお辞めになって、村民にでもなりなさい。
それが多くの人たちの幸せの為ですよ」
「……分かった、考えておくよ」
こうした会話は、モルタが死ぬまでの間、毎日交わされていた。
次第にモルタは口数が少なくなっていき、起きている時間も減っていく。
長い日数、会話を続けていた為だろうか。
その時が来たが、モルタは死を前に覚醒する事は無く、最期は何も言わずに旅立ってしまった。
ミンダウガスは泣いた。
遺体にしがみついて、何度も
「目を開けろ、俺が暴君になっても良いのか?」
「頼む、もう一回俺の弱さに対して発破をかけてくれ」
「何もしなくて良い、だから、ただ生きていてくれ、いや、生きていて下さい」
「俺を一人にしないでくれ」
と弱音を吐き続けた。
子供たちは幼く、父と同じように母の遺体に寄り添って泣くばかり。
ミンダウガスは心の支えを、再び失ってしまった。
それでもミンダウガスの存在は生きている。
死ぬまでの間、彼は王として振舞わねばならない。
だが、結局老いた彼は立ち直れなかった。
リトアニア王妃モルタと共に、リトアニアを強国に育て上げた英主もまた、どこかに去ってしまったようだ。
最後の混乱が幕を開ける。
本日は2時間後に最終話をアップし、その後に余話をアップします。
事実上、この回が最終回みたいなものですが、ミンダウガスの死まで追いかけます。
最後までお付き合いよろしくお願いします。




