棄教
西暦1260年、リヴォニア騎士団長ブルクハルト・フォン・ホーンハウゼンは、クールラントにおけるセミガリア人討伐の軍を興す。
1月25日、ローマ教皇アレクサンデル4世は十字軍を祝福する教皇勅書を出す。
騎士団は、ポーランドの貴族マゾフシェ公と和平条約を結び、その後クールラントに侵攻した。
そしてリトアニアのジェマイティア総督トレニオタの行動を知ると、これを撃破に向かい、両軍はドゥルベ湖の南岸で衝突する。
ドゥルベの戦いである。
この戦いで、リヴォニア騎士団は以前の帯剣騎士団に戻ったかのような醜態を晒した。
まず中心となっているリヴォニア騎士団と、援軍のエストニアから来たデンマーク人部隊が対立した。
デンマーク人部隊は、下馬しての戦闘を拒否。
その馬は沼地での戦闘に適していないから、下馬戦闘の方が有利なのだが、誇りが傷つくとあくまでも下馬を拒否する。
この辺り、シャウレイの戦いで「馬を大事にして頭を失った」ホルシュタインの騎士とまるで変わっていない。
リヴォニア騎士団はデンマーク人に高圧的に命令してかえって反発を招き、結果統一行動が取れなくなった。
そしてリヴォニア騎士団は、ジェマイティア軍に囚われている自軍の捕虜・クロニア人を見捨てた。
これに憤慨した、十字軍に組み込まれていたクロニア人部隊が反乱。
リトアニア軍に寝返って、十字軍の背後を襲う。
トレニオタはこの隙を見逃さない。
彼は、沼地での機動力に長けた自軍の長所を生かし、素早く敵の左右に回り込む。
こうしてクロニア人も含めた包囲陣が完成し、後は騎士たちを殲滅するだけ。
どうにか逃げ出した騎士にも追撃を行い、損害を与えた。
十字軍は4千人のジェマイティア軍に倍する兵力だったにも関わらず、完全敗北し、従軍していた190騎の騎士の内、150人も失ってしまった。
トレニオタの勝利は、父のシャウレイの戦いをも凌ぎ、騎士団は最悪の被害を更新した。
「国王は居っか?」
ドゥルベの戦いを終えたトレニオタがミンダウガスの元にやって来る。
彼は「シャウレイの英雄」こと、亡き父ヴィーキンタスの如く大勝を収め、鼻息が荒かった。
なにせ彼は、ドイツ騎士団相手に二連勝している。
モンゴル相手に国をガタガタにしてやっと辛勝のミンダウガスより、国民だけでなく、周辺民族からの人気も高かった。
まあ、モンゴルを知っていればそういう評価にはならないだろうが。
「『ネヴァ川の英雄』から書状が届いとっと」
「アレクサンドル大公から?
読ませて貰って良いか?」
「内容は『騎士団と縁を切り、自分と同盟して欲しい』チもんじゃち」
「……俺より先に読んだのか?」
「うんにゃ、まず俺い宛に使者バ来よって、そん中におはんを説得せい書いちょった」
「そうか……俺ではなく、先にお前の所に来たのか」
以前のミンダウガスだったら、自分よりも国民や外国からの人気が高い者に嫉妬しただろう。
トレニオタの父・ヴィーキンタスにそう感じたように。
しかし年下の血気盛んな男相手に、60歳近い国王が妬心は抱かない。
ではあるが、アレクサンドル大公には一言「序列を守れ」くらいは言ってやりたい気分ではある。
騎士団と手切れになるという事は、棄教も頭に入れねばなるまい。
ミンダウガスも大義名分のようなものを考える。
カトリックの中の内輪揉めのような形になると、兵たちが着いて来ない可能性がある。
リトアニアにおいて、ミンダウガスの改宗は基本歓迎されていない。
騎士団が大人しくなったのと、新しい技術や文化が入って来て、国が豊かになって来たのは国民も認めていた。
しかし、キプチャク汗国との戦いで、仮初の繁栄は炎の中に消えてしまう。
予め持てるだけの私財を持って避難していたから良かったが、それでも畑は荒らされ、家は焼かれた。
そんな復興中の民に、新しい文化とかどうでも良い。
中世ならずとも、現代ですらこう思う者もいよう。
「国の代表が間違った神を信じたから、災害が起きたのだ」
と。
そんな中で騎士団と手切れになり、争いとなると、王と言えど愛想を尽かされる可能性がある。
それくらいなら、棄教してバルトの古い神々への信仰に戻った方が良いだろう。
都合よく……と批判されるが、対立軸としてはこれが良い。
ミンダウガスは、キリスト教を素晴らしいと思って改宗した訳ではない。
四面楚歌な状態を切り抜ける為には、キリスト教改宗という手順が必要だったから、そうしたまでの事である。
ところが、妙にローマ教皇に気に入られるという、予想外の結果となった。
教皇は二代に渡ってミンダウガスに好意を寄せているし、便宜を図ってくれる。
息子のヴァイシュヴィルガスについても、教皇は次期国王として認めたのだ。
彼がカトリックではなく、正教徒だというのに、である。
それ程に教皇はミンダウガスを優遇した。
リトアニアが国として、国際社会……というかキリスト教社会にデビューするのに、これ以上の後見人は無かったと言えた。
その意味では、キリスト教徒であり続けるメリットは有る。
しかし、キリスト教改宗時に考えていたメリットは、リトアニアがモンゴルを防ぎ、脅威が遠のいたと判断されてから無くなり始めた。
対モンゴルで、彼等がリトアニアに求めていたものは「障壁となって食い止めろ」だった事は、ミンダウガスは十分に理解していた。
共に戦うのは、精々ハリチ・ヴォルィニ大公くらいで、援軍が期待出来ない孤独な戦いを強いられるであろう事も。
だから、邪魔さえして来なければそれで良かった。
だが、目的を果たした途端に、彼等はリトアニアを見下した態度を取り、内政に干渉をし始める。
ミンダウガスは、度重なる領土の寄進要求を受けていた。
南部のセリヤ地方、更には後継者無く没した場合はリトアニア全土、と。
リヴォニア騎士団の帳簿には「リトアニア王が約束した」と、こうした寄進要求は決定事項のように記載されているという。
実際にミンダウガスが寄進に応じたのは、ジェマイティアの一部と、騎士団領に接するナドルヴァ地方の半分など、全体から見ればごく一部に過ぎなかった。
しかし騎士団は、最終的には国全部を寄進しろという。
後継者が居ない場合は、という条件等、後継者を皆殺しにすれば簡単に満たされるだろう。
ローマ教皇はそれも見越してか、ヴァイシュヴィルガスを正統後継者に認定したのだが、彼自身は自らの意思で修道会に属し、騎士としての修行を始めているのだから、精神的に人質に取られているようなものである。
ヴァイシュヴィルガスは統治の為の方便で、正教会とはいえ改宗したに過ぎなかった筈。
それが今では敬虔なキリスト教徒になっている。
わずか数年でこうも変わるとは、宗教というのは中々侮れないものだ。
それ故に警戒すべきであろう。
その教皇もアレクサンデル4世からウルバヌス4世に代わった。
リトアニア改宗を成果とし、ミンダウガスを優遇した教皇が薨去すると、後の者は既にリトアニアがキリスト教であるのは当然と看做し、
「国民への布教が十分ではない。
王は率先して国民を教化せよ」
と高圧的に言って来たりした。
またミンダウガスには、個人的にキリスト教に疑問を持つ事も起きていた。
妻のモルタが病気で倒れたのである。
元が病院修道会であった、ドイツ騎士団の病院にミンダウガスは期待を寄せていた。
だが、治る様子が見えない。
科学技術というものを知らず、現代人視点では無知なミンダウガスは、この時代の医療なんてものが神に祈る事に毛が生えた程度のものである事を知らない。
確かにアラビアの先進医療は、外科の知識や薬学の発展に寄与している。
しかし、疫病に対しては無力である。
占星術でどうすれば避けられるかを見たり、万能薬なるものを飲ませたりする程度だ。
万能薬には、アヘンが含まれていたりもする。
それで効かない場合、神に対して懺悔をさせられる。
(これでは、死を司る神ピクラスに、病人を連れて行かないよう頼む、生贄を捧げるバルトの神々への信仰と大して変わらないではないか)
目に見えた治療法も無く、ただやって来ては「己の罪を神に白状しなさい」なんていう司教や、薬は飲ませるが後は祈るだけの修道士を見て、ミンダウガスは失望を覚えていく。
ミンダウガスには、どこかに駄目人間の要素が抜けずに残っていた。
妻の病状が悪化し、キリスト教の医療関係者から「無闇に近づかないように」と言われ、愚痴を吐き出せなくなると、その駄目さがまた顔を出し始める。
騎士団からの要求に対し、妻が元気だった時は上手く受け流していたのに、最近では衝突するようになって来た。
騎士団の方も要求が図々しくなって来ている。
寄進要求は更に激しくなっていた。
また、キプチャク汗国に対する形式的な降伏を撤回し、再び最前線になれと言う。
再度キプチャク汗国に降伏したダニエル大公を説得し、抵抗運動を起こさせろと指示する。
更に正教会のダニエル大公やアレクサンドル大公を、カトリック陣営に引き込めと、
「それは本来、あんたらの仕事だろ」
といった事まで命じて来た。
精神から余裕がちょっとずつ減っているミンダウガスの短気が悪いのか、帯剣騎士団時代に先祖帰りし始めているリヴォニア騎士団の図々しさが悪いのか、両者は次第に対立関係に戻っていく。
そして、ついにその日は訪れた。
「クリスティアヌス、お前を追放する。
一緒にこの国に居る修道士を連れて、リヴォニアに戻るが良い」
ミンダウガスは、ついに宣告を出した。
騎士団から派遣され、リトアニアが国として制度を整える上で助けてくれた補佐官のクリスティアヌスだが、最近の騎士団との意見衝突では騎士団側の意見に同意し、ミンダウガスを説き伏せに来るばかりであった。
「国王陛下、それはもしや……」
「そうだ。
俺はキリスト教を棄教する」
結果しか述べないミンダウガス。
「お考え直し下さい、陛下。
そんな事をすると、如何なる神の懲罰が有るか……」
「せめてお前が、騎士団の図々しい要求を緩和するなりしていれば、俺もちょっとは考え直しただろう。
だが、お前は全面的に俺に非があるとして、リトアニアの為には働かなかった。
キリスト教は所詮、リトアニアの為のものではない」
「後悔しますぞ」
「どうやら、ウラジーミル大公アレクサンドル殿が俺と同盟を結んでくれるようだ。
後悔はしない。
『神の懲罰』は騎士団による侵攻であろう?
手は打ってある」
「いや、それだけでなく」
「では病気になるとでも言うのか?
だったらモルタの病気は何だ?
妻はキリスト教に背くような生活はしていなかったぞ。
なのに病気になった。
キリスト教の神は、罪無き者を病気にするのか?」
「それは偶々に過ぎません」
「ならばキリスト教の神の力で、今すぐ妻を治癒させてみろ」
「…………」
「話はここまでだ。
今までの貢献は感謝している。
例えそれがリトアニアの為でなく、キリスト教の使命や、将来寄進という形で奪う為のものであったとしても、お前の知識と情熱は国作りに役立った。
だから、お前は無傷で送り返す。
こんな形の別離となったが、今までありがとう」
クリスティアヌスはミンダウガスが差しだした手を握らなかった。
そのまま一礼すると踵を返し、王宮から去って行った。
リトアニアは再び、キリスト教から見た異教の国に回帰したのである。
「最後の異教の国」はここに復活した。
おまけ:
アレクサンドル・ネフスキー「私は『共にドイツ騎士団と戦って欲しい』とは言った。
キリスト教を棄教しろとは言ってないぞ!
話を混ぜないで欲しい!
なんだったら、正教会に改宗すれば良いのに……」




