3-22 見えないもの
ホームズとワトソンが追いかけるクリフの前に、三つの人影が立ちはだかった。スカージ、ジャーパス、トレイブの三人だった。そのまま走り抜けようとしたクリフだったが、大人の男性三人の、とりわけ頑強なドワーフの血を引いたトレイブの膂力には抗う術を持たず、その小柄な体を受け止められることとなった。三人の男の抱えられるようにして、クリフは泣き続けた。
クリフはそのまま自室へと運ばれ、ベッドに寝かされた。水を飲み落ち着きを取り戻すと、肉体的にも精神的にも疲労が限界に達したのか、すぐに寝息を立て始め、それを確認してからホームズたちは食堂に集まった。
「すみません」と開口一番、スカージが詫びの言葉を口にして、「クリフのやつ、ちょっと目を離した隙に、ここを抜け出てしまって」
「仕方ありません」とホームズは、「それよりもですね……」
第二作業場で起きた出来事を話した。
「宝石の換金を記録した書面……?」
ジャーパスは苦々しい表情になり、スカージは、ううむ、と唸り、トレイブは、「ちゃちな捏造だ」と一笑に付した。ホームズは、自分もそう思う、と言いながらも、
「しかし、今話したとおり、第一部隊、第二部隊双方ともに行動を保証する証人がいない以上、たとえ捏造だとしても物証を握っているスワイプスのほうが有利というわけです」
「それに」とスカージは、「宝石商の証言もあるとなると……」
と語尾を小さくし、腕組みをするとまた、ううむ、と唸り声を上げた。
「ホームズ殿」ジャーパスが声をかけ、「向こうに戻らなくともよいのですか?」
「ああ、そうですね。でも」
ホームズは、クリフの部屋の方角に視線を向けた。
「クリフのことなら、ご心配なく」ジャーパスがその心中を察したのか、「我々で見ていますから」
「ええ、お願いします」
と言ってから、ホームズは余計なことだったかなとも思った。彼らがクリフのことを心配するのは当たり前のことだ。ことさら自分が頼み込むような話でもない。
「ところで、クリフさんの自室には初めて入ったのですが、思っていたよりも子こぢんまりとした部屋でしたね。あれなら、俺たちが使わせてもらっている二階の客室のほうが、広くて使い勝手もいいでしょうに」
「ああ、あれは」と、その疑問にはジャーパスが、「スカージに気を遣っているのですよ」
「どういうことですか?」
ホームズは、何やら照れくさそうな顔を見せたスカージを視界の隅に捉えながら、ジャーパスに訊いた。そのジャーパスは、言ってもいいな、とでもいうような顔で一度スカージを見てから、
「スカージは、極度の高所恐怖症でしてね」
「高所恐怖症ですか? あ、そういえば、スカージさんの部屋も一階にあるとか」
「そうなんですよ。二階の窓から下を見るのも駄目なくらいで。特に、この建物は天井が高く、通常の二階よりも高さがあるでしょう」
「ははあ」
ホームズは天井を見上げた。なるほど確かに、ホームズとワトソンが暮らしている「フレックス通り1番地23(魂の住所「ベーカー街221B」)」と比べると、天井の高さが二倍とまではいかないが、一倍半はゆうにありそうだ。
「いや、お恥ずかしい」と、スカージは照れ隠しのような笑みを見せ、「アンハイドが存命の頃は、クリフの部屋は二階にあったのですが、私がここに住むようになり、アンハイドも召されると、クリフ、リパッグ、私の誰かに何かがあった場合、誰もが早急に駆けつけることが出来るようにと、クリフが自分の部屋を一階に移動させたのです」
「そういうことでしたか」
そういえば、リパッグの部屋も一階だったなとホームズは思い出した。同時に、クリフはの心やさしい青年だとも改めて感じていた。高所恐怖症の叔父のために自室を手狭な一階の部屋に移し、ゴブリンとも家族同然の付き合いをし、その死に誰よりも涙する。
「では」とホームズは立ち上がり、「俺たちは戻ります」
ワトソンを連れて、事務所棟を出た。
中庭まで差し掛かったところで、ホームズは足を止めた。遠くから鐘声が響いてくる。現在は工房の作業が止まっているため、いつもの作業音は当然ながらしてはおらず、注意深く耳を澄まさなくとも、工房の敷地内にいて教会の鐘の音を聞くことが出来ていた。
「三時だね」
ワトソンも遙か街の方角に目をやる。
「もう、そんな時間か」
中庭の芝生の上に立ちながら、ホームズは作業場のある方角を見やった。屋外に出ている衛兵の人数はまばらで、ほとんどは第二作業場の中で、ミラージュとスワイプスの攻防を見守っているのだろう。
「ホームズ、行かないの?」
ワトソンに問われ、
「……いや、俺たちは、現場をもう一度見てみよう」
ホームズは足を展示室棟の出入り口に向けた。
展示室に入ったホームズは、もう一度マントを被せられたリパッグの遺体に黙祷してから、現場の隅々までを見ていった。が、
「これといって、新発見はないな」
「うん、事件発覚直後の状態を再確認しただけだね」
「はあ」とホームズは壁際にあった椅子に腰を下ろして、「これが俺のいた世界(のミステリ小説)で起きた事件なら、さしずめ、呪われた鎧がひとりでに動いて殺人を犯した、みたいな怪奇趣味に彩られるところなんだけどな」
「そういえば、この“紅騎士”デモリスの鎧の模造品には、殺人事件の“いわく”が付いてるんだったね」
その隣の椅子に、ワトソンは前後逆の状態で跨るように座り、背もたれの上に両腕とあごを乗せた。
「そんな話もあったな。演劇用に作られていて、着用者が自分ひとりで着脱できるようになってるんだっけか」
「ホームズも着てみる?」
「嫌だよ」
「何か事件の手がかりが見つかるかもしてないじゃん」
「うーん……」ホームズは、散乱したままの鎧のパーツ群を見回して、「やっぱり、やめとこう」
鎧のパーツには、リパッグの緑色の血が所々付着したものもあり、日の差さない屋内であるためか、まだ血が乾ききっていないものもある。リパッグに対してどうこうあるのではないが、そういう状態の鎧を着込むというのは、やはり抵抗があるものだ。
「ねえ」とワトソンは首を傾げ、ホームズの顔を覗き込むようにして、「スワイプスが犯人の可能性はあると思ってる?」
「思ってない」
「どうして? リパッグを殺す動機があるのは、関係者の中で彼だけってのは正解なんじゃない?」
「さっきのあいつの言動を見て、それはないなと思ったからだ。なぜかというとな、多分、あいつはリパッグを生きたまま逮捕したがっていたと思うんだ。あいつは、リパッグを犯人に仕立て上げて、執拗に尋問して、精神的にも肉体的にも苦しめて、それを楽しみたがっていた。そういう加虐趣味のあるやつだと俺は踏んだ」
「だから、逮捕もしないうちから殺すわけがないと」
「そうだ」
「となると……やっぱり犯人は、あの四人の中に?」
ワトソンは事務所棟のほうを見て、大きな目を細めた。
「それは……」ホームズは言い淀みかけたが、「そう考えざるを得ないだろうな」
「……だとしたら、ここの鍵を持っているクリフさん、スカージさん、ジャーパスさんの三人が、まず疑われるべきだね」
「だが、その三人――トレイブも含めた四人には、十二時から一時まで完璧なアリバイがある」
「うん、なにせ、僕たちと一緒だったんだからね」ふう、とワトソンは息を吐いて、「やっぱり、僕たちの知らない外部犯という可能性も」
「魔法使いの仕業か? だとしても、どうやってここに? スワイプス犯人説を話し合ったときも俺は思ってたんだが、ここに忍び込むっていっても、事はそう簡単じゃないと思うぞ。この工房の敷地は外周が壁で囲まれていて、出入り口は正門ひとつしかないうえ、そこかしこを職人がひっきりなしに行き来している。怪しいやつが侵入するのは難しいだろ」
「“透明化”の魔法を使ったとか」
「“透明化”だと?」
ホームズは、がたりと椅子を鳴らして立ち上がった。
「そういう魔法があるんだよ。文字どおり、透明になって姿を見えなくするっていう魔法で……」
「本当にとんでもない世界だな、ここは。リアル『見えない男』ってか。今度はブラウン神父に傘でボコボコにされるな」
「なにそれ……あ」
ワトソンは、ホームズに向けていた視線を出入り口に動かした。そこには、
「クリフさん」
ホームズもそちらを見て、出入り口すぐに立っている人物の名を呼んだ。クリフは、ちょこんと頭を下げると、ゆっくりとした足取りでホームズたちのほうに歩いてくる。
「寝ていなくともよいのですか?」
ホームズが声をかけると、
「はい。少し眠ったのですが、すぐに起きてしまいました」僅かに微笑んだクリフは、視線を部屋の中央に滑らせて、「こうして落ち着いて見てみると、確かに異様な光景ですね」
散乱した鎧のパーツ群を見回した。
「ええ、この謎が解けない限りは……」
ホームズは、クリフの視線が止まったことを見て、自分も言葉をつぐんだ。クリフの視線の先にあるもの、それは、中央が細長く盛り上がったミラージュのマントだった。
「すみません」とホームズは頭を下げて、「事件が解決したら、きちんと葬ってやって下さい」
クリフは黙って頷いただけだった。またしてもホームズは、余計なことを口にしてしまったと思った。リパッグの亡骸を丁重に葬る。わざわざ自分が言わなくとも、クリフがそれをしないわけがない。ホームズの醸しだしている気まずい空気を察したのか、クリフは足を踏み出して、
「それにしても、よりによって犯人は、どうしてこの鎧を……。ここにある唯一の父の作品だというのに」
屈み込むと、鎧のパーツのひとつを掴み上げた。
「あっ、クリフさん」
それを見たホームズが声をかける。
「はい?」
鎧のパーツ――小手の部分だった――を持ったまま、クリフが振り向く。
「その、まだ血が……」
「えっ?」クリフは小手を掴んでいる自分の手を見ると、「あっ」と声を上げた。ホームズの言ったとおり、その小手には、まだ乾ききっていないリパッグの血が付着していたのだった。クリフは小手を床に置き直し、自分の手の平を見る。そこには案の定、湿り気を帯びた緑色の血が、クリフの白い手を染めていた。クリフは懐から布巾を出して、血の付いた自分の手を拭った。
「――!」
ホームズは、頭の中で何かが弾けたのを感じ取った。
「クリフさん!」
「は、はい?」
突然名前を呼ばれたためか、クリフは目を丸くしてホームズの目を見返す。そのホームズは間髪入れず、
「事務所棟の保管室から宝石を持ち出すとき……どのようにされているのですか?」
「ど、どのようにって……」クリフは戸惑いの表情で、「職人――前にもお話ししたように必ず二名以上で来ます――から作業で使う宝石を聞いて、私がそれを必要個数保管室から出し、職人にも確認してもらったうえで受け渡しています。出入りした宝石の種類と数は、その都度記録していますよ」
「そうですか……。あの、宝石を職人に渡す際に、何か“変だな?”と感じたことなど、ありませんか?」
「変……って」クリフは記憶を探るように虚空を見つめて、「あ、たまにあります」
「それは、どのような?」
「ええとですね……ひとつの武具に対して、同じような宝石ばかり使うんだなと、そう感じたことが何度かあります」
「……」
それを聞くと、今度はホームズが宙に視線を向け、しばらく口元に手を当てていたが、突如として足を踏み出すと、展示室を走り出た。
「――ホームズ様?」
クリフは慌てた様子でそのあとを追い、椅子の背もたれに両腕とあごを乗せた姿勢で、面白そうにホームズの様子を眺めていたワトソンも、ゆっくりと立ち上がり、二人に続いた。
「ホームズ様!」
クリフが中庭に出てみると、ホームズは中庭に設えられているオープンテラスの椅子に座っており、じっと中庭を挟んだ対面、展示室棟の壁に視線を刺していた。いや、正確には彼の視線が壁に刺さることはない。展示室棟の中庭側の壁は、高さ三メートル程度の生垣で覆われていたためだ。生垣はかなり密に生育し、葉も垂れてほとんど地面に接しているため、生垣を通して少しでも向こう側にある壁の表面を視認することはほぼ不可能だった。
「ホームズ様」クリフが、ホームズの隣に立って、「いったい、どうされたというのです?」
ワトソンもクリフに追いついて隣に立つ。が、ホームズは二人に構うことなく、一心に生垣の方向を見つめているだけだった。中庭の地面は全面に芝生が生えているため、ホームズの視界は今、生垣と芝生とが作り出す、ほぼ緑一色の世界となっていた。
「……クリフさん」
ようやくホームズが声を発し、
「はい?」
名前を呼ばれたクリフは答える。
「ここですね?」
「えっ?」
主語のない質問をされ、クリフは戸惑うような声を返した。ホームズは声をかけながらも、しかし、その視線を未だ正面――中庭を挟んだ生垣――に向けたまま、
「この椅子に座って、本を読んでいたのですよね。今日の午前中は」
「……ええ」ようやく質問の意味を察したのだろう、クリフは頷いて、「そうです。まさに今、ホームズ様がされているのと同じような感じです。体を展示室棟側に向けて座っていました」クリフも、ホームズと同じように中庭側を見て、「どうですか、これだけ広くて何の障害もない場所ですから、たとえ読書に集中していたとしても、この中庭に誰かしらが入ってきたとしたら、必ず視界の隅に入って気が付くでしょう?」
クリフは、聴取での自分の証言を繰り返した。
「……そうかもしれません」ホームズは呟くように答えると、次に、「ここからでは、鐘楼は見えませんね」
水平にしていた視線を上に向けた。クリフも、同じように屋根を見上げて、
「そうですね。ご覧のとおり、あの屋根は山型をしていて、リパッグの建てた鐘楼は、屋根のてっぺんを越えた反対側にありますから、高低差があることも加わって、ここからでは鐘楼の先端部分も見ることは出来ません」
それを聞くとホームズは駆け出し、また展示室棟の出入り口に走る。呆気に取られた様子で、クリフとワトソンも顔を見合わせたあと、ホームズを追いかけて引き返すこととなった。
展示室に戻ったホームズは、再び現場の前に立って、
「開いていた天窓……散乱した鎧……鐘楼……鐘の音……」
ぶつぶつと単語の羅列を呟きながら、足下と頭上――すなわち、鎧のパーツが散乱した床と、その直上にある開いていた天窓の間――に数回視線を行き来させてから、
「クリフさん!」
「はっ、はい?」
またも突然名前を呼ばれ、頓狂な声で応じたクリフに、ホームズは、
「この展示室ですが、職人の方が見に来るということはありますか?」
「……い、いえ、ここはあくまで外部のお客様向けの施設ですから、職人が訪れるということは、ほとんどありません。そもそも、普段は施錠されていますからね。たまに私が掃除をしに入るくらいで……ああ、そういえば」
「何ですか?」
「リパッグが入ったことはあります」
「リパッグが? どうしてです?」
「ちょうど珍しく、私が仕事で忙しくしていたときがあって、ここの掃除を代わってもらったことがありました」
「それは、いつのことですか?」
「一週間くらい前だったと思います」
「一週間前というと、もう宝石すり替え事件が発覚していた頃ですね」
「はい」
「そうですか……」
ホームズは、再び単語を呟きながらの推考に入った。
「リパッグ……紅騎士デモリス……見えない男……」ホームズは、そこで呟きを止めて、「そうか」
視線の焦点を定め、頭の中で事件の骨格を捉えた。同時に、数時間前、死体発見直後に違和感を憶えていたことも思い出し、その正体も捕まえていた。と、そこに足音が近づいてきて、
「〈たんてい〉殿、ここにおられましたか!」
ひとりの衛兵が展示室に飛び込んできた。
「今度はどうしたのです?」
ホームズが訊くと、
「大隊長がお見えになったのです!」
「大隊長?」
「そうです。衛兵騎士団を総括しておられる、スプリーム大隊長がいらしたのです」
「で、その大隊長さんが来たから、どうしたというのです?」
「スワイプス第二隊長が、証拠を提出しました」
「えっ?」
「こうなっては、ミラージュ隊長に抗う術はありません。〈たんてい〉殿、どうしたら……」
ミラージュの部下であるその衛兵は、泣きそうなほどに困惑した顔を見せていた。
「ホームズ」
ぽん、と肩を叩かれた。椅子から降りたワトソンだった。
「何だよ……」
艶やかな黒髪を肩まで伸ばし、褐色の肌をした少年の顔――いつものような屈託のない笑顔――を見下ろしたホームズと目を合わせて、ワトソンは、
「もう時間がないよ」
「時間がない、って……」
「リパッグが書いたとされる書面の証拠が提出されて、大隊長がそれを正式な証拠品と認めてしまったら、リパッグの有罪はほぼ決まってしまう」
「なに?」
「あの書面は証拠としての価値が大きいよ。さらに、宝石商の証言との合わせ技を巧みに繰り出されたら、リパッグは宝石すり替えの窃盗犯という汚名が正式に着せられたまま、葬られることになってしまう。そして、この横領事件の捜査は終わりさ」
「うっ……」
ホームズは横目でクリフを窺う。自分たちの会話が当然耳に入っているのだろう、悲痛な表情を見せた。
「どうすればいい?」
ホームズがワトソンを向くと、
「ひとつしかないね」
「何だ?」
「大隊長が“証拠”を認める前に、真犯人を見つけることだよ」
「……」
「謎が、解けたんでしょ?」
ワトソンの顔が下に向いた。その視線が示すのは、ホームズの右手中指にはまっている指輪だった。顔を上げたワトソンは、ホームズと目を合わせて、にこりと微笑んだ。ごくりと唾を飲み込んで喉を鳴らしたホームズは、
「……やるしかないのか」衛兵の顔を見て、「スカージさんたち事務所棟にいる三人と、ミラージュ、スワイプスを、ここに連れてきて下さい。その大隊長さんという方も」
「は、はい!」
衛兵が駆け足で出ていくと、ホームズは右の拳を固く握った。




