18日目 ゴネる女
7月も終盤。
これから暑くなっていく時期だが、反対に日の出は少しずつ遅くなっていく。
俺はアパートの戸締りをもう一度確認すると、明け始めた陽の光の中に身体を晒す。
今月の初め頃には死すら選ぼうとしていたのに、少しのきっかけでここまで変わるのだから、世の中何が起こるか分からない。
数えきれないほど通った駅への道の途中、いつもの空き地に見慣れた姿。
例の女がしゃがみ込んで石をひっくり返している。
久々のダンゴムシ狩り。
ようやく満足できるレベルに生息数が回復したらしい。
「おはよう。今日の成果はどうだい?」
小さな背中に声をかけると、女は嬉しそうに瓶を差し出してくる。
「おはよう、社畜さん。上々よ。禁猟と公園からの移住が功を奏したわ」
「へえ、それは良かった」
「……でも一つ懸念が生じたの」
憂いを込めた表情で、瓶を俺の眼前にかざす。
「社畜さん、見て頂戴。ちょっと小さめのダンゴムシがいるでしょ」
「ホントだ。子供なの?」
「成体よ。これは在来種のコシビロダンゴムシね。ここいらでは初めて見たわ」
「ん? ということはいつも見てる奴は」
「外来種のオカダンゴムシよ。私達が日頃見ているダンゴムシは実は外来種がほとんどなの。コシビロダンゴムシは山や森にいるから」
「そうなんだ。でも、こんな住宅地の真ん中にもいるんだね」
「この辺にいるということは。土ごと運ばれてきたか……飼育下から逃げ出してきたか、よ」
「へえ……」
「つまりこれは、この界隈にダンゴムシ愛好家がいるという証左に他ならないわ」
……なんだこいつ。
ダンゴムシが絡むとIQが20くらい上がるのか。
「それはそうと社畜さん。約束の物を持ってきたよ」
「約束?」
女はパンパンと手を払うと、ポケットから何かを取り出した。
「これ、約束通りクッキー焼いてきたよ」
透明な袋とリボンでラッピングしていて、中々に見栄えがする。
問題はダンゴムシ狩りをしていた手で掴んでいることくらいだ。
「へえ、凄いな。まるで店で売ってるやつみたいだ」
「でしょ? 一時期、おやつ不足解消のために自分で焼いて食べまくってたの」
女はふと、遠い目をする。
「……そのせいで、食材の棚に鍵をつけられたんだけど。今回も大変だったわ」
「君、家族と上手くいってる?」
受け取ったクッキーは西洋のおばあちゃんが作っていそうな、本格的なチョコチップクッキーだ。
「……チョコチップ………」
……まさか。俺の頬を汗が伝う。
「このチョコチップ……まさか……ダン……ゴ……?」
「はいっ?! まさかそんなことする訳ないでしょ!」
言いながら、女は手元の瓶に目を落とす。
「……え? 食べれるの? こいつらチョコなの?」
「チョコ違うし、食べない方がいいと思う」
俺は割れないように慎重にカバンに入れる。
「ありがとう。大事に食べるよ」
素直なお礼の言葉に照れたのか。女はソワソワと髪を撫で付ける。
「ま、まあ、このくらいならいつでもどうぞ。社畜さん今日も早いね。忙しいの?」
「んー、どうだろ。昨日で大体、引継ぎも終わったし」
「ひきつぎ?」
女はきょとんと眼を丸くする。
「なにそれ」
「えーと、会社を辞めるから仕事を他の人に引き渡す準備だよ。今の会社行くの今日が最後なんだ」
「……辞める?」
くるくると目を回しながら、女は不思議そうにつぶやく。
「つまり、社畜さんが……畜になる……?」
「え、俺って辞めても畜は残るんだ」
「生活は大丈夫? ご飯とか私のこっそり分けたげようか?」
「大丈夫。うちの会社を辞めた先輩が、誘ってくれて。転職することにしたんだ」
「おう……またすぐに働くんだ」
ドン引き顔の女。
「次の所は週末ちゃんと休めるし、朝は始業時間までに行けばいいんだ。有休もあるらしいし。だけど―――」
「なんかおかしなことでもあるの?」
「……なのになぜか今より給料が上がるんだ。なんでだろう」
「……? なんでだろね……?」
IQの戻った女はぽかんと口を半開き。
ふと、我に返ったように、零れかけた涎をぬぐう。
「とにかく良かったね。じゃあ、出勤がもっと遅い時間になるの? 私、何時頃ここに―――」
俺は思わず目を逸らす。
……犬のキラキラした瞳から視線を逸らすように。
「次の会社、千葉の方だからさ。ここからは通えないんだ」
「……ごめん、良く分からない」
「引っ越すんだ。会社の寮があってね、これからは通勤も徒歩で行けるんだ」
しばらく黙っていた女は不貞腐れたように口を尖らせる。
「……通えるよ」
「え」
「だって、今みたいに夜明けと同時に出ればいいじゃん」
「そうもいかないよ。次の会社はちゃんとついていければスキルも身に付くし、この先にも繋がるし―――」
「じゃあ、テレワークとかで家で仕事すればいいじゃん。千葉なんか落花生しかないし、あんなとこ行かなくても―――」
言葉は途切れて、女は萎れるようにうな垂れた。
「……ごめん。無理言って」
「ううん、確かにあそこ落花生しかないし」
予想外に凹む女の姿に、俺は大きく深呼吸。思い切って胸ポケットの中身を取り出す。
「あの……これ……」
「……え? これ、名刺?」
女は食い入るように名刺を見つめる。
「おお……ここが……噂のブラック企業か……」
「え? そこ?」
「あ、うん、社畜さんこんな名前だったんだね」
……なんか温度が低い。
やっぱこんなのを渡したのはまずかったか。
名刺に書いた俺の携帯番号にも無反応だし―――
しばらく名刺を眺めていた女は、そっと俺にそれを突き出す。
「……ごめん、ちょっとまずかったよね。」
「……メールアドレスも書いて」
「え?」
「私、携帯電話持ってないし」
俺は慌ててボールペンを取り出すと、裏にメールアドレスを書き込む。
「家に電話無いの?」
「だって家の電話から携帯にかけると、高額請求が来るんでしょ? ダイヤルQ2とか聞いたことあるし」
「……大丈夫だから。ワンコール入れてくれれば、こっちからかけ直すよ」
もう一度名刺を渡すと、女はにやける顔を隠そうとでもするのか、軽く唇をかむ。
「……絶対連絡するね。だから」
女はボールペンを奪うと、俺の掌に03から始まる電話番号とメールアドレスを書き込んだ。
「社畜さんも絶対連絡して。今度は紅茶クッキー焼いて待ってるから」
「じゃ、代わりにタピオカミルクティー買ってくるよ」
女は明るい笑顔を見せると、名刺を瓶の中に放り込む。
そこに仕舞うのか。
「……じゃ、俺そろそろ行くね」
女は胸の前で手を振る。
「じゃあ、いってらっしゃい、社畜さん!」
「ああ、行ってきます」
社畜さん、ついに決断&男を見せました。
次回、最終回。二人の後日談です。




