惚れた弱み、なのだろう
楓の葉が、舞い散る。
屋敷の中庭に降り注ぐのは清明な朝の光と、悪戯な秋風と遊ぶ枯葉。
セオドアスは空中で楓の葉を一枚、掴み取った。
紅の葉は、彼が恋い慕う姫の掌くらいの大きさだ。もっとも、かの姫の手は柔らかな温もりを持ち、白く、瑞々しい。そっと掴めば、握り返してくる。ためらいがちに、身体をも寄せて。
そして今日も、セオドアスの婚約者であるリアネイラは、元気よく駆けて来る。まっすぐ、セオドアスの元に。
「セオ!」
華美な格好を嫌い、普段から質素な衣服を着用しているが、この日のいでたちは見習い剣士のようだった。腰には細い長剣をさし、一見すると少年のようにも見える。
襟元にレースをあしらった丁子色のブラウスと脚線を魅せる麻織りのズボン、履いている靴は乗馬用のブーツだ。髪は後頭部で結わえられ、結んでいる蘇芳色のスカーフがてっぺんでぴんっと立っている。首から提げているのは、革紐に琥珀を嵌め込んだ指輪で、それはかつて父王が母に贈ったものだ。
活き活きとした精彩を放つ双眸と相まって、琥珀の指輪はリアネイラの胸元で陽を受けて光を弾かせていた。
「セオ、今度剣術の大会があるよね? ――あ、と……」
息を弾ませ庭園に駆けて来たリアネイラは、はたと気づいて、足を止めた。
セオドアスの隣に、一人の青年がいたのだ。紅玉を溶かし込んだかのような赤毛がことに目を惹く、筋骨逞しい青年だった。
屋敷の警護にあたっている衛兵かとも思ったが、見覚えがない。
リアネイラは目を瞬かせた。
「お初にお目にかかります、リアネイラ姫」
青年は恭しく膝を折り、礼をとった。
セオドアスと同じくらいの年齢だろうか。しかし重厚さはセオドアスを上回る。
綾織のシャツの上に丈の長い臙脂色の胴衣を着、着古した感のある皮のマントを肩にかけている。その格好はセオドアスとよく似ていた。
セオドアスが着用している胴衣には部分的に銀糸で刺繍が施されてある。深い甘草色で、丈はやや短い。
王宮内の近衛兵は別として、騎士職に就いている彼らに、特に定まった制服はない。似た格好になるのは、衣服に求められるものが同じだからだろう。
定まった制服がないように、剣にも規定はない。それぞれ、己に合ったものを使用している。
セオドアスと、赤毛の騎士が持つ長剣は異なった形状のものだ。ゆえに、提げ方も異なっている。
セオドアスは、リアネイラと同じように腰からさげ、ベルトに皮の小袋と短剣も装着させているが、赤毛の青年は背に担いでいた。
幅のある、異様に大きな長剣を、リアネイラはまじまじと見つめる。
(鞘から抜くの大変そう。きっとすごく重たいんだろうな……)
そんなことをぼんやりと考えているリアネイラの前で、青年は片膝をついたままでいる。
赤毛の青年はにこりと笑う。そして拝跪したままリアネイラの手を取り、接吻をしようとした。が、それは阻止された。むろん、セオドアスにだ。
セオドアスが青年の首根っこを掴み、リアネイラから引き離す。
「苦しいって、オイ! 放せよ、セオドアス」
「少しは弁えろ」
「なんだよ、貴婦人に対する礼だろ?」
「強引にすることが礼儀か」
「そういうおまえさんこそだろ? 強引に引っぺがすのは礼を失してるんじゃね?」
「おまえにとる礼儀などない」
「おー、そりゃそうだよなぁ、大親友だし、俺達? 心安い間柄ってヤツだ」
赤毛の青年は立ち上がり、セオドアスの肩を叩いて陽気に笑った。
「けどよ? 親しき仲にも礼儀ありって言うだろ?」
「おまえにだけは言われたくない」
「つれないねぇ、相変わらず。つーか、久しぶりに会った大親友にそういう態度は冷たすぎるんじゃないの、セオドアスよ? 元気だったかとか、会いたかったとか、淋しかったとか、一言ないわけ?」
「…………帰れ」
二人のやりとりを黙って見ていたリアネイラだが、堪えきれず、ふき出してしまった。
涙目になって、ころころと笑う。そんなリアネイラを赤毛の青年は嬉しげに見やり、セオドアスだけが一人、苦虫を噛んでいた。
赤毛の青年はカイヤと名乗った。セオドアスとは十年来の「大親友」だというが、セオドアスは「同僚だ」と即座に訂正した。
リアネイラは笑いを堪えつつ、気難しげな顔をしているセオドアスに目をやった。
セオドアスが「親友」であれ「同僚」であれ、個人的な知人を屋敷に連れてきたのはこれが初めてのことだ。
それに、拗ねたような不機嫌顔を見るのも。
セオドアスと同年で同期だという騎士カイヤは、大熊のような巨体といかめしい顔に似合わず、人懐こく陽気な人柄だった。軽快に喋り続け、ほんの僅かな時間ですっかりリアネイラと意気投合してしまった。
カイヤは北方の国境沿いの村落に赴任していて、つい先日戻ったばかりなのだという。
「長年の親友の婚約を聞いたのは、こっちへ戻ってからでね」
親友の婚約者とはいえ、「王女」という身分のリアネイラに、最初は敬語を用いていたカイヤだったが、リアネイラがやめてくれるよう頼み、それに従った。
目上の人に、しかもセオドアスの友人に敬語を使われるのは、どうにも気が落ち着かないようだ。
リアネイラのその心情を察してのことだったが、カイヤの気安さはもともとの性格だ。その気安さは度を越すものではない。国に仕える騎士として、「王女」にとるべき態度は、カイヤなりに弁えていた。
セオドアスは沈思黙考、慎重を期する型の人間だが、カイヤはいささか短慮ではあるが、積極的で気軽な型の人間だ。概して、相反した性格の二人は気が合うというのが定石のようだ。セオドアスは渋い顔をするが、カイヤは「セオドアスの大親友」を広言している。
カイヤにしてみれば、その「大親友」の祝い事を人伝に聞いたことはひどく残念であるらしく、「水臭い」と文句の一つや二つ、いや三つでも四つでも、思いつくだけ言ってやりたかった。
「友達甲斐のないやつだよな、おまえはよぉ」
「もう知ったんだから問題ないだろう」
わずらわしげに、セオドアスは一蹴する。
ともあれカイヤは、「大親友」の婚約を祝うためと、婚約の相手であるリアネイラに会うために、こうして出向いてきたのだ。
会話は、もっぱらリアネイラとカイヤとで交わされていた。リアネイラの傍に控えているセオドアスは少しばかり疲れたような、あるいは呆れつつも安堵しているような、複雑な表情を目元に浮かべていた。
「ところでリアネイラ姫。さっきここへ来た時に言いかけていたことですが」
リアネイラは小首を傾げた。
「あ、剣術の大会のこと――」
「そう、それそれ」
カイヤは眉間に皺を寄せたままでいるセオドアスに視線を流した。
「出るんだろ、セオドアス? となりゃぁ、俺も早速出場の申請をしてこないとな!」
「いや、今回は……」
「え、出ないの、セオ?」
リアネイラは表情を曇らせ、じっと、請うような瞳でセオドアスを見つめた。
国王主催の剣術大会は、二年毎に開催される大祭だ。参加者の大半は国仕えの近衛兵や騎士達だが、出場者は男女年齢を問わず、広く一般の民からも募られる。この大会が出世の足掛かりになることもあり、出場希望者は五百人を下る事がない。勝ち抜き形式の剣術大会は三日間に渡って華々しく行なわれ、近隣国からの見物客もあるほどだ。
セオドアスは二度、参加経験がある。
父に勧められ初出場した年は、五位という結果を得た。そして二度目の出場で、セオドアスはほとんど無傷の状態で、優勝した。前大会の優勝者が、セオドアスなのである。
「セオの勇姿をまた観られると思ったのにな……」
出場するものだと思っていた。出場してほしいな。それを思いつつ、リアネイラは言わない。言えばセオドアスを困らせると、遠慮が先に立ってしまう。
セオドアスは返事に窮していた。出場を見合わせようと思ったのは、リアネイラの警護に終始していたい理由があったからだ。とはいえ、賑々しい場が苦手という本心もあり、自分から望んで「出たい」と思う大会ではなかった。
セオドアスの、そうした心情をおそらく察しているだろう大親友のカイヤは、
「――セオドアス」
いきなり、背中の剣を鞘から抜き放った。
反射的に、セオドアスは二つの行動を素早くとった。振り落とされたカイヤの剣を止め、同時にリアネイラを背後にまわした。
一瞬の出来事だった。リアネイラは目を見開いている。
驚いたのは、カイヤが突然剣を抜き、それをセオドアスの頭上に降らせたことではなく、その速さに、だった。セオドアスにもまた、驚いている。シャッという金属音が聞こえたと同時にセオドアスの剣は鞘から抜かれ、カイヤの分厚い剣を制している。
一瞬と一瞬が、セオドアスとカイヤの間で静止していた。
「カイヤ」
いきなり何をする、と、セオドアスは止めた剣の向こう側にいるカイヤを鋭く睨みつけた。
金属の擦れ合う音が、空気を軋ませている。――が、その息苦しさはすぐに解放された。
「よしよし。腕は鈍ってないようだな、セオドアス」
大剣を、まるで棒切れのように軽々と背の鞘に収め、カイヤは白い歯を見せて笑った。依然、セオドアスは長剣を構えている。緊張は解いているが、いささか立腹したような硬い表情は崩れない。
「防御に対する反応速度は衰えていないようだが、攻撃に転じなければならない実戦では、果たしてどうかな?」
「カイヤ、ここをどこだと心得ている。今ここで俺に斬られても文句を言える筋合いはないぞ?」
「状況判断も的確だな。ここで俺を一刀両断しないあたり」
「カイヤ」
「剣も、実にキレイなもんだ。念入りな手入れは怠ってないらしいな。が、使ってやらねば、その剣も腰の飾りにしかならず、錆びるぞ?」
「カイヤ、ふざけるのもたいがいにしろ」
話が噛みあっていない。それに苛立ち、セオドアスは低く脅すような声で、カイヤに詰問しようと迫った。
「セオ!」
セオドアスとカイヤとの間に走る、奇妙な緊迫感を少しでもやわらげよう。それをすべく、リアネイラは口を挟んだわけではなかった。思わず、口を挟まずにはいられなかったのだ。
「セオも、カイヤさんも、すごいね!」
セオドアスの背後から顔を覗かせたリアネイラは、琥珀色の瞳をキラキラと輝かせている。頬も紅潮している。ただ、手だけはセオドアスのマントを掴んだままでいた。
「鞘から抜き取る瞬間、全然見えなかったよ! すごいね!」
リアネイラは興奮を抑えられないといった風に、セオドアスとカイヤを褒め称える。若干、セオドアス贔屓に。
「片腕だけであんな大きな剣を止められるなんてすごいね、セオ! 柔よく剛を制すっていうけど、セオは本当にそうだね。それにカイヤさんも、勢いをつけて振った剣を寸止めできるなんて、ほんとにすごい! どきどきしちゃった!」
「お褒めにあずかり、光栄です、リアネイラ姫」
カイヤは恭しく一礼した。
一方で、セオドアスはため息をつき、ようやく剣を鞘に収めた。カイヤに文句の一つでもつけようと思っていたセオドアスだったが、それを止めたのはリアネイラに余計な気遣いをさせないためだった。あるいは、文句をつけても詮無きことと諦めているのかもしれない。
カイヤはカイヤで、セオドアスのそうした内心を重々承知しているから、あえて無視している。それがカイヤなりの気遣いだった。
「二人が本気を出して剣を交えるところ、……ちょっと、見てみたいな」
リアネイラがぽつりと、こぼした。それを聞き逃さなかったカイヤは、悪戯小僧のような笑みを浮かべ、言ったのだ。
「リアネイラ姫の仰せだ。これは是非とも、大会に出場しないとなぁ、セオドアス?」
リアネイラを盾にとられては、セオドアスに立ち向かう術がない。
リアネイラもまた、遠慮がちにだが期待の色を瞳に浮かび上がらせ、セオドアスの顔を窺ってくるのだ。拒否はできまい。
結局、諾と頷くしかなかった。
カイヤはくっくっと喉の奥を鳴らして笑い、セオドアスをからかった。リアネイラには聞こえぬように。
「惚れた弱みってやつだな、セオドアス?」
そして、後日。
已む無く剣術大会に出場したセオドアスだったが、出た以上は徹底的に、やる。セオドアスは遺憾無く実力を発揮した。
セオドアスの剣術の冴えは、年齢とともに成熟を極め、今がまさに爛熟期であるかのように、柔軟かつ鮮烈なもので、刮目に価した。
賓客用の席で勝ち進んでゆくセオドアスの勇姿を眺めているリアネイラは、手に汗を握り、胸を高鳴らせ、そして確信を得、感嘆のため息をついていた。
リアネイラの確信は、事実となった。
セオドアスが、今期も、つまり連続優勝を果たした。そのことはむろん嬉しかったし、我がことのように誇らしかった。
が、ひとつだけ、不満が残ってしまった。
セオドアスも、呆れていた。つい、鼻先で笑ってしまうほどに。
「出ろと言ったおまえが、あっさり敗退するとは。無責任だろう、カイヤ」
「うるせーよ」
苦りきってカイヤは舌打ちをした。
セオドアスとの対決を楽しみにしていたのに、とは、リアネイラは言わない。残念でしたね、とだけ言った。
カイヤは初戦敗退したわけではない。それどころか、順位でいうのなら、六位にまで昇ったのだから、決して「残念な結果」とは言えないだろう。だが六位に上り詰める間に、結局一度もセオドアスとは剣を交えることはなかったのだ。
それがリアネイラの言うところの「残念」であり、カイヤにとっても「残念な結果」だった。
顔にも口にも出さないが、セオドアスにしてみても、カイヤと決着をつけるために出場したようなものだったから、「残念」であるには違いない。
だが、決着をつけるだけなら、いつでもできるだろうとも、思っている。それはカイヤも同様に思っているだろう。
とはいえ、カイヤは内心、セオドアスには敵わないと見ていた。
「弱みがあるというのは、強みにもなるってことかぁ」
カイヤが言ったそれは負け惜しみではあるが、たしかな事実でもある。羨ましいねぇと、カイヤはからかって、笑う。
セオドアスはめったに見せない珍しい表情を、カイヤに向けた。
「たまには穿ったことを言うな、カイヤ」
不敵な微笑を口元に浮かべて。




