20 愚か者
まるで独り言のようにアンジェリカ様は呟いています。
「私が幸せになりたいように、他の人たちも幸せになりたいわよね。そうよね、誰だって幸せになりたいもの……。どうして今まで気がつけなかったのかしら?」
アンジェリカ様は、まっすぐ私を見つめました。
「ありがとう、シンシア。あなたにも迷惑かけて悪かったわね」
「いえ、私は特に……」
そうなんですよね。テオドール様への仕打ちに怒っていたものの、私自身がアンジェリカ様に何かされたことはありません。
むしろ、アンジェリカ様が婚約破棄してくださったので、テオドール様と出会えたとも言えます。
またフラッと歩き出したアンジェリカ様を私は小走りで追いかけました。
「あの、どちらへ?」
「ベイリー公爵家に帰るわ」
「でも、冷遇されているんですよね?」
「だとしても、私が帰るところはあそこよ。クルトとの結婚は、王命に背いた私への罰でもあるから」
アンジェリカ様は、そのことをきちんと分かっているんですね。
だから、冷遇されていても、浮気されていても、国王陛下に『助けて』と言わなかった。
それなのに、クルト様はアンジェリカ様と離婚して、私と結婚するなんてふざけたことを言っています。
どこか遠くを見るその寂しそうな瞳に、私の心は痛みました。気がつけば私はアンジェリカ様の手を掴んでいます。
「あの、テオドール様が言っていたのですが、この晩餐会は陛下がアンジェリカ様を救済するために開かれたものだろうって」
「……お父様が?」
「はい! だから、帰らずに私と一緒にお茶会に行きましょう! アンジェリカ様の味方ができるかもしれませんよ」
悩むそぶりをするアンジェリカ様の手を引いて、私は道を引き返しました。
「ちょっと、まだ行くとは……」
「行きましょう!」
今、アンジェリカ様の手を離したら、きっと私は一生後悔してしまいます。なんとか説得しなければと思い、言葉をかき集めます。
「その、私は今までずっとバルゴア領の自室に閉じこもっていてお友達がいませんでした。でも、王宮で初めてお友達ができて、とても嬉しかったんです。私たちを幸せにしてくれるのは、素敵な男性だけではありません。お茶会に行きましょう!」
「分かった、分かったから! 自分で歩くから手を離して!」
「あっ、すみません!」
説得できたのかと思いきや、アンジェリカ様は、俯いてしまいました。
「あなたは知らないだろうけど……。私は自分のカゲ……王族の護衛にテオドールを殺すように命じたの」
「あっ……」
私は距離を取って控えている王宮メイド姿のジーナを見ます。ジーナは、アンジェリカ様の元カゲです。
「テオドールが生きているということは、カゲが暗殺に失敗したということよ。その後、カゲがどうなったのか私には分からない。……カゲだって、幸せになりたかっただろうに。きっと私を殺したいくらい恨んでいるわ。それなのに、私一人だけ救われるなんて許されない」
「アンジェリカ様……」
確かに、ジーナがアンジェリカ様を殺したいくらい恨んでいるのなら、また話は変わってきます。なぜなら、ジーナが今は私の専属メイドだからです。ジーナの心を無視して、アンジェリカ様を助けるのは間違っています。
でも、ジーナはそんな風に思っていないような気がするのは、私だけでしょうか?
私がチラッとジーナに視線を送ると、ジーナは静かに頷きました。
「でしたら、本人に聞いてみるのはどうでしょうか?」
驚くアンジェリカ様の前に、ジーナが静かに進み出ました。
「本人って……まさか、あなたが私のカゲ、なの?」
ジーナは頷くと、アンジェリカ様に向かってひざまずきます。
「教師たちの件を知り、守るべきあなたをずっと守れていなかったのだと、己の無力さを痛感しました。今まで、大変申し訳ございません」
「あなた……話せたのね」
ジーナの態度にホッと胸を撫で下ろした私は、静かにその場から離れました。
二人きりで話し合ったほうがいいですよね。でも、あまり遠くに行くと危ないかもしれないので、すぐ近くにあったガゼボのベンチに座り二人の会話が終わるのを待ちます。ここなら、何かあれば叫んでジーナに助けを求めることができそうです。
そこに望んでいない人物が現れました。
明かりに照らされた銀色の髪がキラキラと輝いています。
「シンシア様。ここにおられたのですね」
「クルト様……」
慌ててベンチから立ち上がりジーナの元に行こうとした私の腕をクルト様が掴みました。
「お話があります」
「私は、ありません!」
必死にクルト様の腕を振りほどこうとしても、力が強くて振りほどけません。
クルト様は、まるで舞台役者のように大げさな仕草をしました。
「ああっ、なんて可憐で美しい方なのでしょうか。私の心はあなたに囚われてしまった」
「はぁ? あなたはアンジェリカ様とご結婚されていますよね?」
「そうですが、アンジェリカは兄さんを愛していたのです! 裏切られたのは僕ですよ……」
悲しそうに瞳を伏せるクルト様を見て、私は怒りが湧いてきました。
「アンジェリカ様は確かにクルト様を愛していました。やり方は間違っていたかもしれませんが、それでも王女という立場を捨ててしまえるくらい、あなたを愛していたはずです!」
クルト様は、ハァと呆れたようにため息をつきました。
「アンジェリカは、わがまま過ぎたのです」
「私はアンジェリカ様のことを良く知りません。でも……クルト様が王都の有名女優と浮気していることは、バルゴア領まで届いていますよ」
私が睨みつけると、クルト様の口元が引きつります。
「ウ、ウワサはあくまでウワサです。事実ではありません。僕を信じてください」
「確かにウワサの真相は分かりません。でも、あなたは今、アンジェリカ様という妻がいるにも関わらず、私を口説こうとしています。それはアンジェリカ様への裏切りです。そんな方を一体どう信じたらいいのですか?」
チッと舌打ちが聞こえてきました。
「下手に出てやったらこれだ。偉そうに……これだから田舎者は困る」
そう言ったクルト様の顔は、恐ろしい形相になっています。私は乱暴にベンチに突き飛ばされました。
「でも、バルゴアがすごいのは事実だから、兄さんより僕のほうがいいってこと、特別に教えてやるよ。大丈夫、女性を喜ばせるのは得意だから、すぐに君も僕の虜になる」
そんなことを言いながら、私に覆いかぶさってきます。
王宮内で、バルゴア辺境伯の娘である私に、こんなことをしようとするなんて……。なんて愚かなのでしょうか。恐怖より驚きのほうが勝ってしまいます。
「誰かっ!」
そう叫んだ私の口を、クルト様が手で塞ぎました。そのとたんに「こっちです!」とジーナの大声が聞こえます。
「シンシア様!」
名前を呼ばれたかと思ったら、クルト様はテオドール様に殴られて吹っ飛んでいきます。
地面に倒れたクルト様の首元に、ジーナが素早く短剣を突きつけました。




