第26話 春の来訪は近いのか
優里は毎朝、同じ時間に自然に起きる人間だ。昨夜はほとんど飲酒しないまま早い時間に寝落ちた事もあり、いつも通りパチリと音でもしそうな勢いで目を開く。
手を半分も伸ばせば届くような距離に、整った顔立ちの男の寝顔があった。いつも整えられている前髪はへたり、うっすら髭が伸びているが清牙だ。
清牙が隣で寝ている。
そう理解するや、優里は弾かれたように頭を後方へ引いた。ゴッと背後の壁にしたたかに頭をぶつけ、後頭部を押さえて咄嗟に呻きを噛み殺す。
「起きたか?」
声の方を見れば軌林の呆れ顔があった。
どういう状況かと周囲を見渡し、男達が酔いつぶれている食堂であると確認した優里はひどく安堵した。心臓がばくばく鼓動を大きく刻みまだ落ち着かない。
やらかしたかと思った……
何をどうしたのかは分からないが、酔った勢いで床を共にしたのかと優里は肝を冷やしたのだ。となればおそらく自分が無体を布いたという事になる。王弟相手にそれはさすがにマズい。目では清牙の上衣を、手は自然と己の胸元を触りお互い衣類の乱れがないことを無意識に確認していた。
頭が痛い。飲み過ぎたか。そう昨夜を振り返った優里は、はっと気づいたように声を荒げる。
「昨日、ほとんど飲んでない! 清牙様の相手が出来ないじゃないか!」
飲酒する事が組手の条件だ。頭が痛いのは単に先ほど壁にしたたかにぶつけたからだ。
「今日は無しだ。昨日は大抵の奴が加減を忘れて飲んだからな」
辺りを見渡せば確かに食堂には卓に突っ伏す者と、優里や清牙のように床で眠る者が点在している。
こんな所に敵襲があればひとたまりもない。
自分や清牙がいながらこの有様はひどい。ひどすぎる。あまりにもあまりな状況だ。優里は唖然とした。
「まぁ俺と人員の半分は残ってる。お前はほとんど飲んでないし、いざとなれば俺達で清牙様を運ぶくらいは造作もない。たまにはいいんじゃないか」
砦は落ちようと、清牙だけを避難させるのはたやすいと軌林は言う。
そもそも清牙は武人だ。それも長く部下をまとめて来たような。そんな事になれば清牙自身も動くだろう。
「それもそうだな」
叱責や反省は控えよう。優里は肩をすくめ、小さく笑った。
確かに清牙の人生を考えれば、こうして羽目を外すのも悪くないかもしれない。
昨夜は様子が一変した清牙に気を遣った男達が清牙に飲ませるため、まず自ら酒量を増やした。
返杯よろしく清牙も杯を進めた結果がこれだ。
どいつもこいつも気がいいというか、お人よしというか。
惨状を見ながら軌林は内心肩をすくめる。
数代前の城主である岳 錬鵬の運用形態の名残が感じられた。岳家は大雑把で面倒を嫌う。そしておおらかで多少の事は笑い飛ばすのだ。
「でもなぁ、手合わせ無しかぁ……」
優里は執念深くぼやいた。それだけが悔やまれてならない。
「別に飲まななくても訓練の一環で手合わせくらい、すればいいだろう」
ひどく残念そうに項垂れる優里に、清牙が気だるげに体を起こしながら言う。
「本当ですか? 今日でも?」
「今日は勘弁してくれ」
清牙は心底と言った様子でげんなりと答える。さすがに深酒が過ぎたらしい。
常に背筋を伸ばし、まっすぐな姿勢を保つ清牙が珍しく脱力するように背を丸めている。
「清牙様、夕は真っ向から正々堂々と相手して組み伏せるような男じゃないと認めないそうですよ」
二人の声に起き始めた周囲の男達が、起き抜けだと言うのに囃し立てる。
本当に頑丈な連中だなと軌林は呆れた。
「そうか。では励んでみるか。いいか? 軌林」
王族の身の上である。
確認が必要だろうと見せかけて、優里の家族である軌林への確認だ。
「えっ……と」
「こんな田舎の一兵卒に何言ってるんですか。私より強い者なんていくらでもいますし」
珍しく口ごもる軌林を助ける態で、優里は呆れた声を上げる。
その気はないという、拒否を顕わにした牽制だ。
周囲は「うわ、ひでぇ」と思うと同時に「あ、その設定、継続するんだ」と唖然とした。
もはや優里が中央出身で、清牙や軌林と既知であることは皆の知る所、公然の秘密であった。
道義のために実直であろうとする清牙の側に、自分のような手段を選ばない人間がいればいつかきっと不都合が生じる。清牙が自分のせいで不利な立場に立たされることを優里は望まない。
清牙のこれまでの人生と、これからの苦労を考えれば少しくらい清牙も報われてもいいと思うのだ。
だから、それはそれとして。
「模擬刀もありですか?」
優里はわくわくする子供のように尋ねた。
「ああ」
清牙の即答に優里の顔が輝く。対して周囲はざわついた。
そいつ猛狒ですよ。
ヤバいって言った方がいいんじゃないか?
清牙様知らないんじゃ……そんな戸惑いの色が濃く漂う。
周囲のその空気に軌林は内心苦笑した。
普段どんな事をしているのか。だが、それでこそ岳家の人間だ。家族を褒められたような気分だった。
「防具は着けるぞ」
「まぁ、仕方ないですね」
清牙の念押しに肩をすくめながらも優里は目に見えてご機嫌だ。
そんな二人の様子を見た軌林は不穏に思う。
これは早々に落とされるのではないか?
なにせ優里と対等に渡り合える人間などそういないのだ。
軌林の憂慮は日増しに深まった。
卑怯な事に清牙は優里との手合わせを厭わず、頻繁に付き合うのだ。
上羅から基本を教わり、森県で長く護衛警備の実務にあたった清牙の動きは洗練されている。それに対し優里が取るのは、岳家の我流の技と戦場にて磨かれた経験と勘による泥臭い戦法だ。
二人の技は相容れないものながらどちらも優れており、毎回多くの見物人が人垣を築く。
「今日はここまで」
二人はやがて技の修練に重きを置き、勝負をつけようとすることはなくなった。頃合いを見て途中でどちらともなく終了する。
まるで結果を出すのを惜しむかのように。
二人の技に触発され、砦の兵達の質も格段に向上した。
「筋肉自慢ばかりめ」
軌林は呆れる。
よくもまぁ惚れた女の胸ぐらをあそこまで無遠慮につかめるものだ。それを指摘しようものなら清牙は愕然として今後慎むようになるだろうが、そうなれば優里に恨まれる。それはひどい目に遭わされるだろう。
「西の帝国では猛狒は聖獣として崇められている。ここは西に近い。不用意に口にしないように」
清牙はある時そう皆に通達した。優里を猛狒と呼ぶ者が少なからず存在したからだ。
うまい言い方だと思いながら軌林は補足する。
「まぁどちらかと言うと猪ですね」
猪突猛進を地で行くような優里だ。
軌林の言葉に皆は吹きだし、空気を悪くすることなく『猛狒』の文言を禁じることが出来た。
笑顔の彼らを鷹揚とした態度で見渡す清牙が一瞬、軌林に視線をうつす。よくやったと褒めんばかりだ。
「猛狒は賢い生き物だと言いますし」
軌林は居心地の悪さについそんな一言を付け足し、皆は一層盛り上がった。
清牙が生まれに胡坐をかいた、傍若無人な人物であれば軌林も遠慮なくそれ相応の対応が出来たのに。王族らしさが見られず、やりづらいことこの上ない。
優里よりも先にこちらが懐柔されそうだ。軌林は内心嘆息する。
季節は春を迎えつつある。
これから支給された揃いの隊服も薄手になる。お互い少しは自覚して慎みと言うものが生まれるといいのだが。
地位肩書はともかく、清牙のような男が相手であればそりゃ幸せだろうよ。
嬉々とした表情で殴りかかる優里と、真剣にそれに応じる清牙を眺めながら軌林は思う。
よくもまぁあの優里相手に連日のように取っ組み合う気になるな。もはや尊敬さえ覚える軌林だ。
まったく。
とんだ縁談もあったものだ。
今年初になる、春告鳥の高い鳴き声が澄み渡った空に響く。
「お、鳴き始めたか。そろそろ春だな」
周囲ではそんな声が上がるが━━
春は遠そうだ。
息を吐く間もなく手合わせに励む二人を眺めた軌林は、そうゆるく笑った。
だというのに。
「いずれ異動になる。その時は一緒に中央に来てほしい」
引き抜きに聞こえる清牙のそれは、もしこの砦の者が聞いていれば全員が求婚と捉えただろう。
清牙ほどの地位だ。命令する事も可能なのに、打診という形を取るのだから清牙もまた真剣なのだろう。
「わたしがここを守ります。清牙様は心置きなく中央で励まれるのがよろしいかと」
真摯に望む清牙に、優里は力強く返答する。
優里もまた本気なのだ。
清牙の言葉が何を秘めているか考えもせず、ここは任せろとばかりに笑顔で断言する。
信頼して任せてくれと。
一刀両断か。
二人のやり取りを見た軌林は無の表情となった。
優里はこういった方面にはすこぶる鈍い。
にべもなく袖にされた清牙を面白くも思うが、あまりにも手酷くないか。同じ男として同情を禁じ得ない部分はあった。
そもそも姉弟が口説かれている様など見る趣味はない。
勘弁してくれと思う。
どうして自分のいるところでそんな会話をするんだ。
わざと軌林に聞かせたであろう清牙の腹黒さを恨む。
ただ、岳家の人間だからこそ分かるものもある。
優里は有事の際はここを何があろうとも守り切る気でいるのだ。
それこそ身を賭してでも。
民のためは当然として、清牙のために。
身を挺して守る━━それは岳家の強い愛情表現でもある。
春が来たり、するのだろうか……?
蕾がほころぶの春の枝を、軌林は複雑な思いで見上げたのだった。
完




