36 迫りくるふたつの危機
それから丸三日。
高熱でうなされるエリオットの看病をハンナは寝ずに続けていた。
公務ができる状態ではない彼に代わり、王宮内のあれこれも決裁せねばならないし……自身の身体にも疲労は澱のように蓄積している。
目のかすみも気になって、ハンナは目頭を指先でつまむ。
「少し休まれては? このままでは、陛下だけでなく王妃さままで倒れてしまいます」
案外と主人に過保護なナーヤにそう忠告されたけれど、ハンナは首を横に振った。
「私が……そばにいたいのよ。ナーヤはもう自分の部屋に戻って」
彼女はもうひと言、なにか言いたそうな顔をしたけれどグッと言葉をのんだようだ。
ハンナが実は頑固であることをよくわかっているのだろう。諦めたように小さくため息をつく。
「かしこまりました。でも、くれぐれも無理はしないでくださいね」
「えぇ、ありがとう」
ハンナはエリオットの眠るベッド脇に置いた椅子に腰かけ、また彼の寝顔を見つめた。
熱が高いせいか、頬が紅潮している。薄く開いた唇から浅く、苦しそうな呼吸音が聞こえた。
「……ナ、ハンナ」
エリオットの手はハンナを捜すように宙をさまよう。その手があまりにも白く、ハンナの心臓をドキリとさせた。
「私はここに。ずっとおそばにいますよ、エリオットさま」
彼の手をそっと握り、優しい声音で伝える。
安心してくれたのだろうか。エリオットの眉間のシワが少し薄れ、乾いた唇が緩やかな弧を描く。
(一日でも早く、エリオットさまが回復しますように)
ハンナは強く強く、願った。
エリオットに同行していたアレクスの話によると、苦労はしたがカヤックの街におりてきた魔獣たちの討伐は無事に完了したそうだ。
ハンナは彼からの報告を思い出す。
『原因はやはり……我々、人間側にありました。グレイブ山の林業を取り仕切る商会が、国で定めている基準をこえた無茶な伐採をしていたようで……そのせいで魔獣たちの餌となる植物の不足が起きていたようです』
(商会の悪だくみ……本当にそれだけかしら?)
近衛軍が調査した範囲では、裏で糸を引く人間の存在は確認されなかったようだが……。
「鎮火作業はもう進めております。ですが、群れで動き出した魔獣はそう簡単には止まらず……」
「自然な火事ではないな。おそらく、シーレンの反乱軍が故意に起こしたものだろう。リベットの森は王都とは目と鼻の先。魔獣が王都になだれ込み混乱している隙をついて……」
フューリーは反乱軍を率いて、王都に攻め込む算段だろう。
「敵ながら、なかなかに考えたな。よく練られた、いい作戦だ」
言って、エリオットは苦笑する。
先の討伐で、エリオットをはじめとした優秀な魔法使いたちは魔力を使い果たし疲弊している。すぐにリベットの森に向かうのは不可能だ。となると、王宮は人海戦術で多数の兵を動かすしかなくなる。
(でも、それをすると王宮の警備は手薄になって、反乱軍に制圧されてしまう)
かといって、リベットの森を放置すれば魔獣たちは王都エルガをめちゃくちゃにするだろう。
王都が壊滅的な被害を受ければ、政治も経済も混乱し、エリオットの求心力はたちまち低下する。
反乱軍に寝返る者もふえ、エリオットの治世は確実に崩壊に向かう。
不吉な想像ばかりが浮かんできて、ハンナは身震いをした。
(そんな未来、絶対にダメよ。阻止しなくては!)
「魔獣と反乱軍、両方を速やかに鎮圧するぞ」
低い声でエリオットが告げる。だが、アレクスは悲痛な表情で訴える。
『魔獣襲来と反乱は繋がっている可能性がある』
あのエリオットの言葉は真実を言い当てているように、ハンナには思えるのだ。
(エリオットさまの兄、イルヴァン公が故意に魔獣の餌を不足させたのだとしたら?)
魔獣被害は本当にこれで終わるだろうか?
(彼は王都が弱体化するのを待っている。もしそうなら――)
嫌な予感ほど当たるもの。王宮に凶報が届いたのはその日の夕刻のことだった。
「大変ですっ! リベットの森が火事になり、追われた魔獣たちがこの王都エルガに――」
国王の執務室。
エリオットはまだ熱がさがりきっていない身体に鞭を打ち、対策会議の場に出てきている。
「しかし……近衛軍が王宮を離れるのは危険ですが、すぐに魔獣と戦うことのできる魔法使いはもうほとんど残っておりません」
エリオットは眉根を寄せて考え込む。
「反乱軍がすぐにシーレンを発ったとしても、ここに到着するまでには二日はかかるよな」
エリオットの使う空間移動魔法は高度なもので、使える人間はあまりいない。いたとしても、一緒に運べる人間はせいぜい十名ほど。彼の言うように、本格的な戦闘開始は早くても二日後だ。
エリオットは淡々と続ける。
「二日でリベットの森の魔獣を片づける。そして、王都の守備を固めて反乱軍を迎え撃とう」
「で、ですから、そのための戦力が……」
アレクスはすっかり弱りきっている。そんな彼にエリオットは笑む。
「心配ない。魔獣のほうは、私がなんとかする。その代わり、お前たち近衛軍は私の指揮なしでもこの王宮を守るんだ。いいな」
「――む、無茶です。それでは、陛下のお身体が……」
「無茶でもなんでもやるしかない。これは王命、反論は聞かぬぞ」
「かしこまりました」
エリオットに言いくるめられて、アレクスは渋々ながらにうなずいた。
「では、私はリベットの森に向かう準備をする」
エリオットはそう結論づけて、対策会議を散会させてしまった。
けれど、ハンナはその場に固まったまま動けなかった。
(まだ高熱があるのよ? 魔力だってきっと回復しきっていない。そんな状態で、少数の兵だけで魔獣と戦うだなんて……)
六大精霊使いは偉大な存在だが、全知全能の神ではない。
いくらエリオットでも無茶が過ぎる。唇を真一文字に結んでいるハンナを見て、彼はクスリとする。




