34 ひとりの夜
力が強まっているとはいえ、ハンナが使えるのは生活魔法。魔獣相手にはなんの役にも立たないかもしれない。
だがそれでも、この国とエリオットの力になりたかった。
ハンナの強い眼差しからエリオットはその気持ちを汲み取ってくれたのだろう。
嬉しそうにほほ笑み、ハンナの頬をそっと撫でた。
「ありがとう。私はカヤックの街にいる間、王都は君が守ってくれ。妻であるハンナにしかできない仕事だ」
彼だけを魔獣の跋扈する危険な地に向かわせるのは心配で、本当は一緒に行きたかった。
(エリオットさまのそばにいたい)
けれど、彼の言うとおり自分にも果たすべき務めがある。それを自覚したハンナは、力強くうなずいてみせた。
「――はい、お任せください」
数刻のうちに、彼はすべての準備を整え終えた。
「アレクス。お前には騎馬隊の指揮を頼む。私は特に魔力の強い者を連れて、ひと足先に向かうぞ」
エリオットは空間移動魔法が使える。精鋭たちを連れて、先にカヤックの街に入ると決めたようだ。
「クロ」
中空を見つめてエリオットがつぶやくと、音もなくハーディーラが現れた。
その瞬間、辺りが異質な空気に包まれる。冴え冴えとした静寂、闇の気配。
濃灰色の煙がエリオットを覆い、異界への扉が開いた。と同時に、ビュウと強い風が吹く。
「では、ハンナ。行ってくる」
「エリオットさま! どうかご無事で」
ハンナの目の前で、彼の笑顔は霧のように消えていった。
それから一日、二日と時が過ぎ、ついに一週間。エリオットはまだ帰ってこない。
幸い、王都は平穏だ。エリオットが王都の守備を手厚く残してくれたおかげで、フューリー率いる反乱軍も手出しできないでいるのだろう。
(けれど、裏を返せば……魔獣対応で王都が疲弊するのを待っているとも言えるわよね)
一刻も早く魔獣問題を片づけ、反乱軍が付け入る隙を塞がなければならない。エリオットもそれは重々承知しているはず。
一日の執務を終えたハンナは窓辺に佇み、白銀に輝く三日月を見あげた。
数か月前までは、エリオットと幸せに過ごしていたはずの時間。
自分の半身を喪失してしまったような心許なさがつきまとう。自分の根が揺らいでいるのを実感し、ハンナはパンと軽く頬を叩いた。
(エリオットさまが不在なぶん、私がしっかりしないと!)
次の瞬間、静かな部屋にコンコンというノックの音が響いた。
「王妃さま。お休み前のハーブティーをお持ちしました」
ナーヤが丸い盆に、ティーポットとカップをのせて運んできてくれる。
「ありがとう。ちょうど喉が渇いたなと思っていたの」
ハンナは丸いティーテーブルの脇に置かれた椅子に腰をおろした。ナーヤの用意してくれたお茶の優しい香りに、心がほぐれていく。
「毎日、山積みの政務をこなしていらっしゃるんですもの。お疲れでしょう」
「平気よ。私は陛下の代理を務めているだけだもの」
エリオットが時間をかけて育てた廷臣たちはとても優秀で、国王不在の緊急時でも政務は問題なく回っている。
ナーヤが心配そうに眉尻をさげて、言う。
「カヤックの街の魔獣対策、予想より時間がかかっているそうですね。いつか王都の中心部にもやってくるんじゃないかと、民たちの間にも不安が広がっているようです」
シーレン地方の反乱の件は王宮内でも、エリオットが信頼する一部の人間にしか明かしていない。
ナーヤや王都の民の関心は魔獣にのみ、向いている。
「そうなのよ。王都から逃げようと考えている者もいるようで、このままでは民たちがパニックを起こす可能性があるわ」
ハンナにとって、今一番の悩みの種だ。
悪い話ほど尾ひれがつくもので、『王都はそう遠くないうちに魔獣たちに蹂躙される』などという噂が広まっているようだった。
魔獣が現れたカヤックの街と王都エルガは距離も離れているし、そう現実的な話ではない。だが、民が不安になる気持ちも理解できる。
明るいヘーゼル色をしたナーヤの瞳が陰る。
「でも実際問題、陛下をはじめ優秀な魔法使いがこれだけ駆り出されているのにまだ解決しないなんて……」
いつもポジティブな彼女も、さすがに今回ばかりは楽観視はできないと考えているのだろう。
白状すれば、ハンナもまったく同じ気持ちだ。エリオットの能力なら、きっとすぐに帰ってくる。
そう確信していたぶんだけ、動揺も大きい。
帰りの遅い彼が心配でたまらなかった。
(山の主である魔獣たちを侮りすぎていたのかも……)
エリオットの魔法だって万能なわけではない。
だが、仮にも王妃である自分が悲観的な顔を見せてはいけない。感情的になるなと、自分に言い聞かせてハンナは口を開く。
「魔獣が街におりてくる事象は過去にも何度か起きていて、完全鎮圧にはひと月以上かかっているわ。だから今回だけ手を焼いているわけじゃない。王都が蹂躙されるなんて事態には、ならないはずよ」
「そうですよね。なんといっても、現陛下は六大精霊使いですもの。魔獣ごときに負けるはずはありません!」
「えぇ、そのとおりよ」
ナーヤが彼女らしい明るさを取り戻してくれてホッとする。
「それじゃ、おやすみなさい」
侍女の制服、焦げ茶色のロングスカートをひるがえして彼女が部屋を出ていく。ハンナはカップの底にわずかに残っていたお茶を飲み干し、ベッドに潜り込んだ。
ふかふかの布団にくるまれると、自分の身体がひどく疲れていることを実感する。けれど、頭は冴えてしまっていて睡魔は訪れてくれそうにない。




