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29 君だけだった

* * *


 幼い頃は、三人の兄王子たちとの自分の境遇の差をうまく理解できなかった。


 自分のもとにも、いつか誰かがやってきて幸せになれるものだとエリオットは信じていた。


 だが、どれだけ待っても古ぼけた離宮に迎えは来ない。エリオットのそばにいるのは、無口な衛兵がひとりと、ふらりとやってくる謎の青年ハーディーラ――全身黒ずくめだからクロと呼ぶことにした――だけだった。


 エリオットは彼に尋ねる。


「ねぇ、クロ。いないほうがマシってどういう意味かな?」

「なんの話だ?」

「この前、珍しく王宮に呼ばれて行ってきたんだけど……あそこの人たちは俺のことをそう言うんだ」


 エリオットは彼らの口マネをしながら、ハーディーラに伝えた。


『卑しい女の胎から生まれただけでも恥なのに』

『王族の血を受け継ぎながら魔力がないとは、前代未聞。王家の恥』

『いっそ生まれてこなければ……いないほうがマシな王子ね』


 エリオットは空を見あげる。


 オスワルトには珍しい、曇り空だ。どちらが天で、どちらが地か、わからなくなりそうだった。


 濃灰色にくすむ空に……堕ちていく。そんな錯覚を覚えた。


「俺が死んだら……みんな、喜んでくれるのかな?」


 ハーディーラはケケッと笑う。


「ま、そうなんじゃないか。けど、お前は〝みんな〟を喜ばせたいのか? なんのために?」

「別に……喜ばせたくもないなぁ。なにかしてもらったわけでもないし」

「じゃ、いいだろ。〝みんな〟なんて放っておけ」


 何者なのかさっぱりわからないけれど、エリオットは彼が嫌いではなかった。


 どこまでも自由で……もし生まれ変わったらクロになりたい。そう思うほどに。


 生きる理由もないが、あえて死ぬ理由もない。ただなんとなく、エリオットは日々を過ごしていた。


 誰からも顧みられることのない朽ち果てた離宮で、透明人間みたいに。


 そんな自分のもとに、初めて〝誰か〟がやってきたのは、十五歳のときだった。


 まぶしいほどに、きらめく光。


「エリオット殿下」 


 自分を殿下と呼んだのは、彼女が初めてではないだろうか。



唯一の話し相手であるハーディーラには、『お前』もしくは『チビ』と呼ばれている。


 だから、エリオットという自分の名前すら……もはや忘れかけていたのに。


「殿下の好きなスコーンを焼いてきましたよ。一緒に食べましょう」


 自分の好みなど、気にかけてくれたのは彼女だけ。いや、誰かとともに食事をするのすら初めてだった。


「殿下はいつかこの国の王になるかもしれないお方です」


 魔法も使えない自分が王になるなど……誰もが笑い飛ばすような話を、ハンナは真剣な顔で語る。


 無色無音だった世界にハンナが命を吹き込んだ。


 空の青さ、森の緑は色濃いこと、大地の匂い。優しい風が吹き、鳥のさえずりが聞こえ……世界とはこんなにも鮮やかで美しいものだったのかと、エリオットはひどく驚いた。


「お前のそれは……雛鳥の刷り込みと一緒だぞ。あのちんちくりんが好きなわけじゃない。やってきたのが別の女なら、多分そいつに惚れてた」


 ハーディーラは彼らしく皮肉めいた顔で言う。


 彼の言い分もわからぬわけではない。だが、エリオットにはどうでもいいこと。


「別の女性は誰ひとりとして来なかった。俺が出会ったのはハンナ。それがすべてだ」


 ハンナこそがエリオットの世界なのだ。


 ほかにはなにも望まない。彼女の笑顔さえあれば、それだけでよかった。


 だから……突然に告げられた別れは、エリオットには死も同然の苦しみだった。


 ハンナの不在はエリオットの世界の崩壊を意味するのだから。


 なにかすがるものがないと、自分はもう生きてはいけない。それを悟ったから、彼女とたくさんの約束をした。


「君が望むなら、俺は王になる」


 誰もが笑い飛ばす話だが、ハンナとの約束なら自分は叶えることができる。根拠もなくそう信じた。


「約束して、ハンナ。それでもなお、俺が君を愛していたら……そのときは俺のキスを受け入れてほしい」


 こっちはハンナに拒否された。自分は人の妻になる身だから、と。


 生真面目な彼女らしくてますます好きになったし、エリオット自身が拒絶されたわけじゃないことに安堵した。



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