24 夫婦の日常
幸せな日々は過ぎ去るのが早いもの。ハンナがオスワルトの王妃となって、そろそろ半年になろうとしている。
山積みになっていた書類の、最後の一枚に印を押し終えてハンナはふぅと息をついた。
う~んと伸びをしながら、窓の外に目を向ける。柔らかな陽光を浴びて、色とりどりの花々が美しさを競い合っていた。
(春の国、オスワルト。私はやっぱりこの国が好きだわ)
エリオットの治世下で、この国はますます明るく、豊かな国になった。
(微力ですけど、私もできることをがんばらなくては)
ハンナは立ちあがり執務室を出ると、ある人物を捜して王宮の中庭に出た。
「あ、見つけたわ」
捜していたのは、夫となったエリオットではない。
「ダグラス大臣」
ハンナが声をかけると、小柄でぽっちゃりした男が振り返った。人のよさそうな丸顔の彼は、この国の外務大臣だ。
「これは王妃さま。わたくしになにか?」
「えぇ。ちょっと教えてほしいことがあるのです」
ハンナは外交関係で知りたかったことを彼に質問する。ダグラスは嫌な顔をすることなく、丁寧に解説してくれた。
「なるほど。バルタ公国との間の関税率にはそういう経緯が……それなら、こちらの要望ばかり押しつけるわけにもいかないですね」
「そのとおりでございます」
ダグラスは穏やかに目を細めて、続けた。
「王妃さまはとても勉強熱心であらせられる。頼もしいかぎりです」
「それは……」
ハンナはおどけたように首を小さくすくめる。
「大臣もご存じでしょうけど、私はもともと子爵家の娘。本来なら王妃になれる器ではありませんから。そんな私を支えてくれる陛下やあなたたち廷臣、そして国民に恥ずかしくないよう、精いっぱいがんばりたいのです」
ハンナはしっかりと前を見据えて言った。
これは自分自身への宣言でもある。
正直、この半年間は自分の勉強不足を痛感するばかりで、心が折れそうにもなるが……不遇王子の立場から立派な皇帝となったエリオットを見習って、不断の努力をしようと思っている。
子爵令嬢の出自を言い訳にはしたくない。
(そもそも、本来の私はエリオットさまより五歳も年上なのですから! 甘えてばかりもいられませんわ)
「陛下は、よき伴侶を得られましたね」
ダグラスはハンナが一番嬉しい言葉をくれた。
「この先も、そう言ってもらえるよう尽力します」
ハンナが彼にほほ笑みかけたその瞬間、ダグラスは「ひぃっ」という悲鳴にも似た叫び声をあげた。
幽霊にでも遭遇したかのような顔で、ハンナではなくその奥を見つめている。
「ダグラス大臣? どうかしましたか」
「へ、陛下が」
彼の視線をたどるように振り返ってみれば、エリオットが仁王立ちして、氷の眼差しをダグラスに送っていた。
ハンナはちょっと呆れてため息を落とす。
「陛下。私と話をしている人物を、次から次へとおびえさせるのはやめてくださいませ」
最初は、いったいなんだろうか?と思っていたけれど、今はただの嫉妬だと理解している。彼は……ちょっと尋常じゃないレベルのヤキモチ焼きなのだ。
「外交問題について教えていただいただけですよ。陛下に対してやましいことなど、まったくありませんから」
エリオットの熱量には少し及ばないかもしれないが、ハンナも彼への愛情を言葉でも態度でも示しているつもりなのに……伝わっていないのだろうか。
ハンナは拗ねたように唇をとがらせる。
「疑われているのだとしたら、悲しいです」
「疑ってなど、いないよ」
エリオットはハンナの背中に手を回し、そっと引き寄せる。
「ハンナの愛はちゃんと伝わっている」
エリオットのその言葉に、ダグラスがおおいに慌てる。
「わ、わたくしも。誓って、王妃さまに懸想などしておりません。そんな命知らずなマネは決して、決して……」
ハンナに罪はないが、ダグラスは悪い。
エリオットがそう思っているのでは?と考えたようだ。
しかしエリオットはそれにも「ダグラスの忠実さはよく承知している。疑ってなどいない」とあっさり答えた。
「ではなぜ、そんな怖い顔をするのですか」
ハンナは問うたが、彼自身にも答えは出せないようだ。エリオットは首をひねる。
「目が勝手に動くんだ。むしろ、にらむだけにとどめていることを褒めてほしいくらいだ」
「もう……」
ダグラスが一秒でも早くこの場を去りたそうにしているのに気がついて、ハンナは彼に声をかけた。
「ダグラス大臣。どうもありがとうございました。忙しいところ、呼び止めてしまって申し訳ありません」
「いえいえ。では、わたくしはこれで」
丁重に頭をさげたかと思うと、彼は脱兎のごとく逃げていった。
(本当は、もうひとつ質問があったのだけれど)
「ダグラス大臣は忙しそうなので、エリオットさまに質問してもいいでしょうか?」
ふたりきりなのでエリオットと、呼び名を改めた。
「もちろん。私に答えられるものならなんでも教えるよ。だから……」
彼はグッと身体を寄せて、ハンナの耳元でささやいた。
「必要以上に私以外の男に近づかないでくれ。嫉妬でこの身が焼けついてしまう」
(ダグラス大臣との会話は必要なものだったと認識していますが……)
そう反論すべきだろうか。
でも、公の場ではエリオットの嫉妬に呆れているふうを装っているけれど……白状すると実は結構嬉しく思ってもいた。
貴族として生まれた以上、恋愛結婚などありえない。
愛し、愛され、そんなものは物語のなかだけ。
そう言い聞かせて自分を律してきたけれど、本当は誰よりも甘い恋物語に憧れていた。
エリオットが注いでくれる惜しみのない愛は、ハンナを世界で一番幸福な女性にしてくれる。
ハンナはポッと頬を染め、小さく答えた。
「では、これからはまずエリオットさまに質問することにします」
まったく色っぽくない政治や外交の話をしながらだけれど、ふたりで中庭を散歩するひとときは楽しかった。
エリオットはちょうど会議と約束の合間で時間が空いていたらしい。
「たった半年で、すっかり王妃らしくなったな」
「いえ。もっともっと勉強しなくては!と気合いを入れていたところです」
ハンナがグッとこぶしを握ってアピールすると、彼は破顔して白い歯を見せた。
「ハンナはおっとりしているように見えて、意外と熱血だ」
「たしかに、そのとおりかもしれないです。昔から、努力とか忍耐とかそういう物語が大好きでしたし」
「努力と忍耐か。本当にそうだね。なんの取り柄もない昔の私を、ハンナは見捨てずに信じてくれた」
ハンナはゆるゆると首を横に振った。
「エリオットさまは当時から、誰にも負けない鮮やかな光を放っていましたよ。この方は原石なんだなと私は確信しましたもの」
あの離宮での日々を思い出すと、心がポカポカと温かくなる気がした。
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