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19 白い結婚

ハンナの寂しい結婚生活のお話です~。

 ナパエイラは厚い氷の壁に覆われる、冬の国だった。


 夏は瞬きをする間に終わってしまい、あとはひたすらに凍てつく日々が続く。


 土地は痩せていて産業構造はいびつ。そのため、ナパエイラは富を求めて他国に侵攻するしか道がなく、この国の歴史書はほぼ戦記だ。


 結果として彼らは強くなり、大陸でも一、二を争う軍事大国になっていった。


 ハンナが嫁いだこのシュミット伯爵家も、もともとは武功で名をあげたようだ。


 今は鉱山資源が豊富な領地を持っているおかげで、戦果をあげずとも十分に裕福な暮らしを維持できているが。


 シュミット伯爵家の、雪に耐えうる分厚い窓からハンナは空を見あげた。


 今日は雪こそ降っていないけれど、あいかわらず空は灰色一色で太陽の姿は見えない。


 ハンナは二十二歳になっていた。


(嫁いで、二年。オスワルトの輝く太陽をもう忘れてしまいそうですわ)


 オスワルトは温暖な春の国だった。


 優しく降り注ぐ陽光、柔らかに頬を撫でる風、色彩豊かな花々、ゆったりと流れる運河に黄金色の麦畑。


 もちろん、オスワルトだって楽園ではない。大国ならではの光と闇があり、闇の深さではナパエイラにも負けないだろう。だがそれでも、生まれ育った故国は恋しいものだ。


(ここに居場所がないから、余計にそう思うのかしらね)


 ハンナの顔が自虐的にくしゃりとゆがむ。


「奥さま」


 そんなハンナの背に声がかかる。屋敷で働くメイドのひとりだ。


「来週に予定している晩餐会のドレスが届いております。完璧な仕上がりでしたよ」

「ありがとう、確認するわ」

「えぇ。衣装室の奥に掛けてありますので」


 懸命に学び、ナパエイラ語での日常会話は問題なくできるようになった。専門的な話題でなければ、もう十分についていける。


「それでは」


 メイドは長いスカートをひるがえして、来た道を戻っていく。


 モスグリーンのロングワンピース。清楚なハイネックで白いくるみボタンも上品だ。


 シュミット家のメイド服は、なかなかにセンスがいいとハンナはいつも思っている。


 二代前の伯爵、ハンナの夫の祖父の代からの伝統だそうだ。


(そうよね、あの人ならきっと……もっと胸や腰を強調したり、意味もなく脚を出したりするデザインにしたわよね)


 あの人、夫であるジョアン・シュミット伯爵の顔を思い浮かべてハンナは小さくため息をついた。


 夫婦の関係は残念ながら、決して良好とはいえない。なぜなら――。


 ハンナは晩餐会のドレスを確認しておこうと、衣装室の扉を開ける。と同時に、耳に甘ったるい声が届いた。


「うふふ。ジョアンさまったらぁ」


 ハンナはその視界の真ん中に、イチャイチャと互いの背を撫で合う男女の姿をとらえた。


 かつて武勇を誇ったシュミット家の、現当主とは思えぬほどにでっぷりと肥えたジョアンの丸い頬に、女が口づけている。


「あぁ、俺のかわいいリリアナ」


 ジョアンは妻が部屋に入ってきたことなど、まったく気づかぬ様子で愛人の名をうっとりとつぶやく。


「ゆうべもあんなに愛し合ったのに。まだ足りないのかしら?」


 鈍感な彼とは違い、リリアナはハンナの存在に気がついている。


 ニヤッとあざけるような笑みを浮かべ、ハンナが聞いているのを承知のうえでゆうべの情事について口にしたのだろう。


「でもぉ、私に注ぐ愛のいくらかくらいは、奥さまにも差しあげたら? 結婚して二年も経つのに、いまだ乙女だなんて……私なら恥ずかしくて死にたくなっちゃう」

「ふん。古くさい国から嫁いできたお上品ぶった女などつまらぬ。なにか理由さえ見つかれば追い出したいくらいだが……」

「おかわいそうに。あら? でも、奥さまを追い出したら私が伯爵夫人になれるのかしら。あっ、ジョアンさま~」


 ジョアンは彼女の口を塞ぐように口づけた。きっと、答えをごまかすためだろう。


 貴族の結婚は本人だけの意志でどうこうできるものではない。


 もしハンナになにかあっても、リリアナが正妻になるのは少し難しいと思われる。


 前夫を魔術で殺したとか、もとは下町の娼婦だとか、オスワルトに比べればずいぶん自由なこのナパエイラの社交界でも、彼女の評判はあまりよろしくない。


『最高級の愛人』


 本人は知らない様子だが、それが社交界でのリリアナのあだ名だった。つまり、愛人以上にはなれないということだ。


 リリアナの豪奢なハイヒールが赤い敷物をギュッと踏みつぶすのを一瞥してから、ハンナはそっと彼らに背を向けた。


 安寧の地である自室に戻ろうと歩いていたところ、先ほどのメイドとまたすれ違った。


「ドレスをご覧になられましたか? お気に召しましたでしょうか」

「えぇ。仕立屋に素晴らしい仕事ぶりだったと伝えておいてね」

「かしこまりました」


 仕立屋にもメイドにも罪はないので、にこやかに答えたが……ハンナが晩餐会であのドレスを着ることはないだろう。


 なぜならたった今、リリアナが踏みにじっていたから。


(きっと素敵に仕上がっていたはずなのに)


 ハンナの瞳の色に合わせた深紅のドレス。


 クラシカルで上品な、ジョアンがもっとも嫌うデザインをオーダーしていた。


 ハンナと彼との結婚はいわゆる〝白い婚姻〟だ。


 嫁いできたとき、すでにジョアンとリリアナはそういう関係になっており、ハンナは新婚初夜をすっぽかされた。


 ハンナが緊張に頬を染め夫の訪れを待っている間、あの男はその隣室でリリアナに愛を注いでいた。


 新妻であるハンナの存在はふたりの甘い夜にとって、さぞかし素晴らしいスパイスとなったことだろう。


 あの日から二年、ジョアンはハンナに指一本触れたことはない。


 リリアナはまるで第二夫人にでもなったかのような態度で、平然と屋敷に出入りしている。


『純潔の人妻』


 ジョアンが妻を抱いていないことを武勇伝のように吹聴するものだから、ハンナはいつしかそんなあだ名で呼ばれるようになってしまった。

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