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14 王になった理由

「私的な、ですか?」


 エリオットはナパエイラの刺繍がほどこされたスカーフを手に取り、じっと見つめた。


「オスワルトがもっと開放的な国家になり、ナパエイラとも友好的な関係を築けたら……君がいつでも里帰りをできるんじゃないかと思ったんだ」

「私?」

「そう。当時の私はまだ〝不遇王子〟だったが、ハンナにもう一度会いたい。その気持ちだけで、国王になって外交を変えようと思ったんだ」


(私のために国王に?)


 エリオットの思いが、想像以上に重く、深いことを知りハンナは戸惑うばかりだ。


「まぁ今だって、似合いもしない国王なんかやっているのは君の存在があるからだ」


 エリオットは熱く、甘く、ハンナを見つめる。


「いつか王になる、とハンナだけは信じてくれたから。だから、王でいられる。私が国と国民のために働くのは、君に失望されたくないからだ。私利私欲だけで動いていて、ちっとも立派じゃない」


 ハンナはエルガの街を見渡し、それからきっぱりと首を横に振った。


「いいえ。エリオットさまは立派な国王ですよ」


 国民には君主の心のうちは見えない。見えるものは、自分たちの生活だけだ。どれだけ素晴らしい志があろうとも、国民の生活に反映されなければ意味がない。


 王都エルガはすごく変わったように見える、それもとてもいい方向に。


 かつてこの街は、光と闇が共存する場所だった。華やかさの足元には濃い影が落ちていた。


 たとえば、あの辺りは貧しい者たちが固まって暮らす無法地帯で、うなだれる大人と泣きわめく子どもの姿がいつも痛ましかった。けれど、現在は綺麗な建物が立っていて、なかから元気な子どもたちが飛び出してくる。


「エリオットさま、あの建物は……」

「孤児院だ。親のいない子を預かって、教育を受けさせている。優秀な子は試験を受けて役人になることもできるよ」


 ハンナの頬が無意識に緩む。


「オスワルトは、以前よりずっと光に満ちた国になったんですね。エリオットさまのおかげで!」


 エリオットは照れたように頬を染め、続けた。


「ハンナが私にしてくれたことを、今度は私がなんらかの形で返していきたいと考えたんだ。ハンナが喜んでくれるのなら本望だ」


 エリオットの心にはいつもハンナがいる。教育係として、ほんのいっときを一緒に過ごしただけなのに、彼は自分の存在をずっと忘れないでいてくれたようだ。


 くすぐったくて、嬉しくて……どんな顔をしていいのかわからない。


「このスカーフを包んでくれ」


 エリオットは露店の主人に告げる。美しい紙に包まれたそれを、店主から受け取った彼がそのままハンナに手渡した。


「再会の記念に。赤はハンナによく似合うと思うから」


 優しく向けられたサファイアの瞳に、ドクンと大きく心臓が跳ねた。ドクドクドクとありえないほどの速度で鼓動が打ちつける。


(どうして、こんなにも胸が高鳴るのかしら……)


 興味のおもむくままに店を見て回ったり、甘いものを買い食いしたり。


「わぁ、これは変わっていない。大好きだった味だわ」

「では、買って帰ろうか」


「さ、最近はこのような丈のドレスが流行っているのですか? 足首が見えるのが下品だと言われていたのに……時代は変わったのですね」

「君の足首はとても綺麗だから、きっと似合う。でも、外で着るのはダメだな。私の前でだけにしてほしい」


 ふたりで過ごす時間は想像以上に楽しく、あの離宮でともに過ごした日々を思い出す。


(外見はすっかり大人になってしまったけれど、やっぱり〝エリオット殿下〟ですね)


 彼の中身は昔のままだ。素直で一途で、まっすぐ。


 以前よりずっと男らしくなった彼の横顔に見入ってしまい、ハンナは周囲に注意を払っていなかった。ふと気がつくと目の前に馬車が迫っていて――。


「ハンナッ」


 グイッと、力強く彼に背中を抱き寄せられる。次の瞬間、ハンナがいた場所を馬車が通りすぎていく。間一髪だったようだ。


「大丈夫か?」

「は、はい。エリオットさまがかばってくれたおかげで」


 逞しい胸にうずめられたハンナの顔がみるみるうちに赤くなっていく。


 彼の体温、筋肉の感触、大人の男性の匂い。すべてが、ハンナの女としての本能を刺激する。


 身体がチリチリと焦げつくようだ。


(昔はひどく痩せていらしたのに……)


 変わっていない、別人みたい。


 ハンナの思考はその二点を行ったり来たりして、忙しい。


「あの、エリオットさま?」

「ん?」


 ハンナをきつく抱きしめたまま、彼はいたずらっぽく目を細める。

 

「そろそろ、放していただかないと……人目が……」


 公衆の面前で抱き合っているふたりに、チラチラと視線が注がれていた。まさか男のほうが、この国の王だとは誰も思いもしていない。


 エリオットはハンナの耳に唇を寄せ、そっとささやく。


「気づかなかった? これはわざとだよ」

「え?」


「こんなにもかわいいハンナとデートをしているんだと、王都中の人間に自慢したくなってね」

「じ、自慢になんて……。エリオットさまはとても立派になられましたが、ハーディーラさまのおっしゃるとおり女性の趣味だけは、少し変です」


 自分で言うのもなんだが、ハンナはわりと賢い女だ。


 過度な自惚れも自虐もせず、客観的に自分を見つめることができると思っている。


 (可もなく不可もなく。六十点の女だと自信を持って言えますのに)


 彼は自分を百二十点の女として扱う。すごく、変だ。ハンナの困惑をエリオットは笑い飛ばす。


「変じゃないし、別に変でもいい。ハンナをかわいいと感じられない目と、感性なら、私には不要だから」

「も、もうっ」


 彼は優しくハンナの身体を解放し、それからさらりと頬を撫でる。


「急に動き回って、疲れていないか?」


「いえ、全然。とても……楽しいです」


 その言葉にエリオットは嬉しそうにほほ笑む。


「よかった。――っ」


 ふいに、エリオットがケホケホと咳込み出した。


「大丈夫ですか?」


 ハンナは慌てて彼の背を撫でる。息苦しいのだろうか。胸元のシャツをグッと握り、喘ぐように顎を上に向けている。


(王の公務は忙しいもの。きっと疲れているんだわ。もともと、身体のお強い方ではなかったし)


 離宮で暮らしていた頃の彼は病弱だった。


 生活環境が整ってなかったせいで今は大丈夫なのかと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。


「エリオットさま。帰って、お休みになられたほうがよろしいのでは?」

「あぁ、ごめん。もう大丈夫だ」


 エリオットはハンナを見て、にこりとする。


「君も知っているだろう。私は少し喉が弱くて。でも、たいした問題じゃないことは侍医に確認済みだから。心配しないで」


 医師の診断を受けているのであれば安心だが、無理はよくないだろう。


 ハンナはもう帰ることを提案したが、エリオットは「もう少しだけ」と懇願する。


「本当にお身体は大丈夫なんですね?」

「もちろん。あの頃に比べたら、むしろ強くなっただろう?」

「それはそのとおりですが」


 彼の言うとおり、以前と比べればとても健康的になったように思う。結局、ハンナはエリオットの要求を受け入れた。


 彼はハーディーラを呼び、もう一度空間移動の魔法を使った。訪れた場所は――。


「ここはっ」


 眼前に広がる光景にハンナは目をパチパチと瞬く。


「あの離宮、ですね?」


 古い建築様式の、赤茶色の建物。


 けれど当時とは異なり、今はきちんと人の手で管理されているのがわかる。入口扉の上にいつもあった蜘蛛の巣はなくなっているし、自然いっぱい荒れ放題だった中庭も美しく整えられている。


 懐かしい景色にハンナは目を細めた。


(あぁ、思い出すわ)


 ここには、エリオットとの思い出がたくさん、たくさん詰まっている。


 楽しい時間、幸福な記憶、そして……胸が張り裂けるほど悲しかった別れのとき。

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