第36章
村の外に無事出ることができたリオン。右手に繋いだ手を離すまいと必死に握りしめていたせいか、右手だけがやけに汗ばんでいる。
「あ! ママ!! お兄ちゃん、ママがいた!」
右手を引っ張られる感覚を覚えてリオンは振り返った。女の子の指先には、地面に座り込んでいる女性の後ろ姿があったのだ。
「よかったなぁ。ほんと……よかった。早くママの所に行って安心させてこい。もう、はぐれるなよ」
「うん。ありがとう、お兄ちゃん」
リオンは女の子の頭を撫で、背中を軽く叩き母親の元へ行けと合図を出して見送った。
村の外に逃げ切れた大人達は疲れか絶望からか、力無く、糸の切れたマリオネットのように座り込んでいる。どの髪の色を見てもリオンが探している色をしている者がいない。リオンは、心臓を絞めつけられる思いで、荒野をもう一度見渡す。
どこを見ても糸の切れたマリオネットしかいない。
「セ、レネ……セレネ!! いたら返事をしてくれ! 誰か、蒼い髪の女の子を知りませんか! 誰か!」
疲れ果てている大人達から返答は一つも無い。リオンは気が付くと走りだしていた。そんなはずはないと、どうすればいいのだと、体中から楽観していた自分へ怒りが込み上げてくる。
怒りを走力に変換し、リオンはただひたすらに走った。
村の辺りを何周も周るが鼓膜を破りかねないメタルフレームの銃撃戦の音が近くなったり遠くなったりするだけで、夜の荒野に蒼い髪をした人物はいない。
情報が無いまま、結局最初の避難場所へ戻ってきたリオン。
全身を襲う魔術による痛みなどとっくに限界を超え、何も感じなくなっている程だ。
(どこにいるんだよ! 返事してくれよ!)
リオンは最悪の状況を考えないようにしていたが、これでは考えざるを得ない。この村は大きくない。村の外に出るだけならばさほど苦労しないはずだ。
これだけ探し回って見つけられないとなるとセレネはまだ村の中に取り残されているか、村の数倍の面積を持つ基地側に迷い込んでしまった可能性が高い。
膝で体を支え、肩で息をしているとズボンを引っ張られ我に帰る。
「お兄ちゃん、ママが……変なの……たずげでぇ」
先ほど母親の元へ送りだした女の子が泣き枯れたような声で助けを求めていた。恐らく、リオンが走り回っている間、この女の子もずっと助けを求めて辺りを走り回っていたのだろう。母親の元へ送りだした時に両方揃っていた靴が片方無くなり、靴下は破れ、小さな素足からは血が出ている。
枯渇しきったと思われた女の子の涙は、リオンの姿を見たせいかまた溢れだしていた。
リオンは唇に穴が空く程強く噛みしめ、女の子をゆっくり抱きしめ母親の元へ足を運ぶ。
母親が怪我をしていたのかもしれないし、何かの病なのかもしれない。いずれにせよ、女の子の挙動からただ事ではないと想像が付く。
頭に巡る蒼髪の少女の顔を断ちきれないまま、母親の様態を確認した。
「大丈夫ですか? 体の具合が悪いなら他に人を呼んできます」
背中を向けたまま女性は、力なく声を漏らすだけだった。リオンの言葉がまるで耳に入っていないかのようだ。
仕方なくリオンは背後から座り込んでいる肩を揺する。
「もしもし? 俺の声が聞こえないんで――なっ!」
顔面蒼白。
座り込んでいる女性とその顔を見た少年、二人の顔を表現するなら誰もがそう言うだろう。
咄嗟に手を引いてしまったリオンは、倒れる女性を受け止めることができなかった。顔面から地面に着地した女性からは、反応が返ってこない。
「おい! ちょっと、大丈夫ですか!?」
「そっとしておくんじゃ、動かすでない」
側にいる女の子の背丈と変わらない老人が女性の影から顔を出した。聴診器のような物を首にかけ、女性の腕をまくり素早く脈を計る。
いつもふわふわしている老人からは想像も付かない真剣な表情にリオンは言葉を失った。
「無事だったのか爺ちゃん! それより、これはどういうことだ。これじゃまるで死んで――」
女の子の存在を思い出し、唇を噛みしめ口を塞ぐ。
「生命力が魔力と一緒に外に流れ出ておる。極めて危険な状態じゃ。お嬢ちゃん、君のお母さんは、この葉っぱを直接食べたことはあるか?」
ドクターMは優しげに女の子の手を握って、植木鉢から葉っぱを一枚むしり取る。
「ううん。ママ、葉っぱを燃やしてただけ」
「そうか、わかった。幸いまだ軽症じゃ、やれるだけのことはやってみよう」
ドクターMは、ほとんど息をしていない女性のおでこに手をかざし目をつむる。
それはまるで魔法だった。
老人と女性の接触している部分が緑色に輝き、瞬く間に女性の顔色がよくなっていったのだ。
「爺ちゃん……一体どうやって」
「まだ治ってはおらん。ワシの魔力を少し分け与えて、体に自分の魔力量を思い出させておる。また定期的に魔力を送ってやらねばならん」
ドクターMはリオンに簡単に分け与えただけと言うが、他人へ魔力を分け与えるなど並みの魔術師には到底真似できない。
保有している四大元素の比率、魔力量、これらは全て十人十色である。数パーセントでも体に合わない魔力が流れ込んでくれば、外敵と見なされ抗体による拒絶反応が見られるはずだ。
ところが、ドクターMはものの数秒で女性の魔力を読み取り、自分の魔力を付加で調節して明け渡した。拒絶反応も今のところ無い。
「なんだか知らないけど、葉っぱが原因なんだな?」
「そうじゃ。この葉は本来、緊急治療などで戦場の兵士達の痛みを和らげるために使われるものじゃ。しかし、実際は魔力を強制的に補給させ、神経麻痺を起さる劇薬でもある。使い方を誤れば体内の魔力バランスが崩れ、外部に垂れ流すことになる。専門知識が無い者が、まして魔術の心得を持たん人間が使ってええもんではない」
植木鉢を見つめる少年は納得がいかないと言いたげである。
「なんでそんな危険なものが……これって宿にもあったよな!? シリスの店にも、ノーションさんが口に咥えていたのもだ。持って逃げる大人達もたくさん見たぞ。なんでそんな危険な物を大切に守ろうとするんだよ」
「この葉は高く売れる。そしてここの村を見る限りこの葉は、生計を成り立たせる上で何よりも大切なものだったんじゃろうな……じゃが、これほど強い軍管轄下にある村人が違法物を栽培できるはずもない」
「あのハンスタって軍人が絡んで……みんな無理やり」
老人が周囲を見渡し、座り込んでいる人々を見て溜息をついた。その溜息は悲しさや落胆からではなく、もう疲れたと言いたげな溜息だった。
「そうとも限らんかもしれん。これを服用し続けると生きている間では到底感じることができん強い快感を生む。強過ぎる刺激は強い依存を生みだす……そして」
老人が女の子の頭を撫でながら背後に立つリオンに目くばせした。女の子は満足そうに恩人である老人へ笑いかけている。老人はそれとなく女の子の視界を遮っているように見えた。
そして、それは気のせいでもなんでもなかったのだ。リオンはその光景を目のあたりにしてしまった。
――人が弾けた飛んだ――
まるで血管の内側から寄生虫が暴れ出し、皮膚を食い破るようにして惨たらしい血溜まりを残している。
女の子に見せられるようなものじゃない。世の中には知らない方がいいこともある。
「爺ちゃん……人が、人が、さ……うぅ」
「服用し過ぎれば外部の魔力を限界以上に取り込み肉が裏返るものもいる。この子の母親のように生命力と共に魔力が外に漏れ出すものも。体が元の魔力量を思い出せんくなればいずれにせよ」
焚火の前に捨てられた糸の切れたマリオネット。それはもうミイラのように骨と皮だけの人形となっていた。
避難した村人達はリオンの声に返事をしなかったのではない。できなかったのだ。血管を内側から引き伸ばされる激痛。手足がどんどん萎れていく様を見せつけられる恐怖。
「お嬢ちゃん、お爺ちゃんにもう一つ教えてくれんか。お母さん達はどれぐらいの頻度でこの葉っぱを燃やしていたんじゃ?」
「んとね、毎日。軍人さんに持って行かれる前にこっそり燃やしてた。あたしもやりたいって言ったら大人になるまで吸っちゃダメなんだってぇ」
女の子が頬を膨らませる。こちらの頬が緩むその仕草もこの惨状を目のあたりにすれば何も感じない。
「葉の度重なる服用で恐らく体は限界、従わない者は殺される村。この葉は、彼らに残された唯一の逃げ道だったのじゃろう」
「こんな惨い葉っぱが逃げ道だなんて。この村の人達はなんで、軍の本部に訴えなかったんだよ! この人達はやりたくもないことをやらされていたんだろ、なら……ならぁ!!」
「軍が行っていたとはいえ、違法物を栽培し使用していたとなると罪は重い。辺境の貧しい暮らしがわからん都市部の民衆は、遠慮なく重い判決を下すはずじゃろて。最悪の場合、大衆の前で盛大に処刑されるだけじゃ。それ以前に、あのハンスタとかいう少尉がそれを許すとは思えん」
ドクターMは、無表情で言葉を紡ぐ。
少年は溢れだす気持ちを爆発させるように荒野の土を両手で叩いた。怖気付いて従ってしまった村人に一つ、世の理不尽さに一つ、ハンスタという軍人に一つ、そして、その軍人に完敗した自分に……何も知らない自分に、口だけの英雄気取りに何度も何度も右手を乾いた荒野の地面へ振り落とす。
たった一人の村娘を守るだけで命がけだった英雄が、村を救うことなど不可能だった。守れる数には限度がある。
目の前で何もできず、ただ朽ち果てていく人を見ることしかできない自分がどうしようもなく嫌になる。
「放っておけば苦しい思いをするだけじゃ。リオン、見たくなければ目をつむっておれ」
「爺ちゃん、何を……する気だよ」
この村で、絶対服従を強いられ一生を終えるか、本部の留置場で葉の無い苦しみを味わいながら惨い死を遂げるか。村人に残された道は限られている。
自由の国が自由を許すのは、金と権力、正義がある者だけだ。犯罪者に与えられる自由などこの国に無い。
「ふざけんなよ……死ぬことが幸せだって言いたいのかよ。爺ちゃんは!」
老人は背中を向けたまま何も言わない。
「諦めないでくれよ……爺ちゃんは凄い人なんだろ? どうにかならないのかよ、助けることはできないのかよ! 材料は俺が探すから、探すからさ……薬でも何でも作ってくれよぉ!! こんなのあんまりじゃねぇか、さっき見て回ってきた時……まだ、皆生きてたんだよ」
老人は俯いて拳を震わせている。そのような都合のいい薬があるはずもない。
少年とて理解はしているが、この気持ちをどこにぶつけていいのかわからず声を上げる。
「なぁ、爺ちゃ――」
「わかっておる!!」
激怒する少年を一言で跳ね飛ばす老人。小さな体から発せられた怒鳴り声は女の子と少年の時間を止めた。
少年の怒りなど老人の感じている怒りに比べれば見るからに生ぬるい。少年が激怒ならば老人は憤怒だ。ただ、理不尽さを怒りでもみ消そうとするだけの少年とは違い、あらゆる模索の結果出口が見つからず、それでもどうにかしようと足掻きに足掻いた結果の怒りが一言に圧縮されていた。
「リオン。お主は、英雄になりたいと言っておったな」
静かに、震える声でドクターMが言う。
放心状態のまま生返事をするリオンへ開いているか閉じているかわからない眼を向けている。
「医者であろうが英雄であろうが、人が一生に助けられる人数は決まっておる……限界があるんじゃ。 限界を超えた者を笑って死ねるようにしてやるのが医者の仕事。そして、限界を超えて切り離された者達が残した愛しい人を代わりに守るのが英雄の仕事じゃ」
長年生きてきた老人の言葉には、リオンの胸をえぐる何かが含まれていた。それが何か、リオンは明白にしたくない。
それだけ言い残すと老人は泣いてしまった女の子をなだめに入った。ドクターMの背中を見つめリオンは否定の表情を露わにする。
――そんなの英雄なんかじゃない――
――そんなの英雄なんかじゃ――
リオンが口を開こうとしたその時、女の子の頭を撫でるドクターMの表情が何かを思い出したかのように止まった。
「医者と英雄が力を合わせれば助けられぬ人も助けられるかもしれん! リオン、走れるか?」




