油断
午後五時五十五分
空が赤焼け始め、カラスが帰り支度をする声がどこからか聞こえてくる。病院の周りは静かな時間が流れ、まるで夜を拒むように依然眩い赤色灯が輝いていた。
そんな中、突然喧騒が訪れた。
「今だ行け!」
規制線が張られ閑散としていた病院裏に、突如として重厚な黒い車両が三台タイヤを鳴らしとび込んできた。そして裏口を塞ぐように停車すると慌ただしく特殊部隊が下車をして臨戦態勢を取った。それと同じくして三階の窓から縄梯子が下ろされ、掛け声と共に桜井の部下が降下する。
「よし! 次!」
一人目が降りると下から怒号のような声が飛ぶ。すると今度は優樹が身を乗り出し梯子を降りる。
「GO! GO! GO! GO!」
優樹は訓練を受けた桜井たちと違い、しがない土木作業員だった。しかし高所での作業経験があり素早く身を乗り出せた。だが現実は厳しく、想像を遥かに超える足元の安定しない縄梯子を前に、降りる速度は遅かった。そんな優樹に痺れを切らす隊員は浴びせるように檄を飛ばす。
「GO! GO!」
それでも優樹の速度が変わることは無かった。しかし優樹にも意地があり、その後再三の檄を受けつつも何とか地上に降り、車両に乗り込んだ。
ここまでの流れは多少のもたつきがあったものの順調で、優樹が車両に乗り込む頃には桜井の二人目の部下が梯子を降り始めていた。しかしやはり優樹が予想した通りこの脱出劇には無理があったようで、二人目の桜井の部下が残り半分というところで突然二階の窓から発砲があり、炸裂音と共に窓ガラスが飛び散った。
これにより梯子を降りていた桜井の部下は飛び降りるようにして地上に降り足首を負傷し、救出班は桜井と舞たちを病院に残したまま撤収してしまった。
この脱出は優樹の説得も虚しく当初の計画通り行われていた。そのため計画としては失敗という形が残り、桜井や報道陣には深い絶望感を与えた。しかし結果として思惑通りになった優樹や、優樹だけが無事なら問題なかった坂口、さらに重要人物の最優先確保という命だけは守られた警察にとっては上々の成果となった。
またアリウムも優樹は逃がしたが、すぐさまSNSなどを使い警察の失策を打ち出すことで支持者たちへ良いアピールができ、この脱出劇は世間の評価に対して全く異なった大きな価値を得ていた。
――午後六時八分。
特別部隊の助けもあり病院を脱出した優樹は、別車両で待機していた坂口、藤原と合流していた。
「いや~、本当に無事で何よりだよ。とにかくお茶でも飲んで一息ついて」
「ありがとうございます。いただきます」
合流した坂口は優樹の無事を確認すると、いつもの調子で労うようにお茶を出した。優樹もまだ鼓動は落ち着いておらず、ここから坂口、藤原を相手に限られた時間の中で戦うために気持ちを落ち着かせようとありがたく頂戴した。
「よし、それじゃあどうしようか? 一応桜井から連絡があって全員無事だと伝えられたし、アリウムも上がってくる気配もないみたいだから慌てるような事は無いけど、そう時間は多くないよ?」
「あ……はい。多分あの感じだと、奴らは俺だけを逃がしても良いみたいだから大丈夫だとは思っていたんですが、予想通りで良かったです」
「そうか~……そうだよね~」
「はい……」
電話でのやり取りから、脱出しても思い通りの展開にはならないと思っていた優樹は、どう主導権を獲得するか必死に考えていた。それに対し坂口も同じように、どうあしらうかを考えていた。
そこを敢えて自分から切り出し坂口は先手を取りにいった事で、一瞬の隙を付かれた優樹はほとんど逡巡することなく対抗したが、それすらも分かっていたと聞き流した坂口は、この戦いの先手を物にした。
これにより両者は完全に心中を察し、表にこそ出さないが臨戦態勢に入った。
「じゃあまずこれを見て。コピーでちょっと見えづらいけどこれはあの病院の見取り図。新垣君は図面とか見られるんでしょう?」
そう言うと坂口は、A1サイズのコピー用紙を数枚優樹に手渡した。
「えぇ、一応現場で責任者を任されたりしますから」
図面を手渡された優樹は、協力的な姿勢を見せる坂口がどのような作戦で攻めてきているのか未だ不明だった。しかし舞たちを救出するために人質交換は行わない事だけは分かっており、これが演技だとは知りつつも流れに乗ることを選んだ。
図面は縮小されてはいたが病院全ての階層分あり、読み取ることができる優樹は必要最小限の情報を確認した。
「大体分かりました。ありがとうございます」
「数字や記号は見づらかったけど大丈夫だったかい?」
「えぇ。寸法はそれほど必要じゃありませんでしたし、大体の配管や部屋の位置は分かったんで大丈夫です」
「そうかい。それは良かった」
優樹は坂口が図面を見せたのはあくまで振りだと思っていた。しかし坂口は図面から優樹が何処をピックアップするのかを知りたかった。
「どこか気になるところとかあったかい? 妹さんたちが逃げられるような場所とか?」
この質問を聞いて、優樹は何となく坂口たちが考えている事が分かった。おそらく坂口たちは、人質交換を執拗に押してくることを見越して、出来るだけ外側から内部の桜井たちに指示をして脱出させる方法を選び、その指揮を自分に執らせることでこの場に張りつけにしようとしているのだと感じた。
そこで優樹は、坂口たちの協力的な態度に賛成するように対応する。
「えぇ。でもあれですよね? 今この辺って水止まってるんですよね? 水管橋が爆破されたとかで」
アリウムが水管橋を爆破したことは桜井を通して伝わっていた。
これには先日の話を霧崎がアリウム側に流したことが原因だと、優樹も坂口も考えていた。
「そうだよ。でも病院は屋上に貯蔵用のタンクがあるから、それが無くなるまでは水が使えるよ」
「それでもせいぜいスプリンクラー一回分あるか無いかですよね?」
「どうだろうね? 止まってからどれだけ水を使ったかも分からないから。でも病院の周りになら消防や業者に頼んで水を持ってこれるよ?」
「そうですか……」
優樹の作戦は、鎌田たちを建物内におびき寄せた後、室内や周辺に大量の水を撒くことで位置を特定して捕獲するというものだった。
今回のSATの突入にもスプリンクラーを使う予定だったが、優樹は別の事を考えていたようで、坂口の答えには良い顔を見せなかった。
「何か問題でもあったのかい?」
「いえ。多分霧崎がいるときに話した内容は全部伝わってる可能性があるみたいで、俺だけを逃がしたのも作戦の内なのかもしれないと思って」
「多分そうだと思うよ。理由は分からないけど、新垣君には退場してもらった方が都合が良かったんだと思う」
坂口も優樹が脱出した時点での発砲は計算されたものだという認識があった。実際優樹たちを乗せた車両に向けて発砲する様子や、三階へ上がり逃げ遅れた者を捕獲するような動きも無く、威嚇射撃にしてはあまりにも淡白に終了していた。
それを踏まえ深堀りしていくのがお互い都合が良かったが、時間の都合上それ以上の考察はせず二人は話を進める。
「俺が逃げた後アリウムから何か連絡はありましたか?」
「まぁ、一応。『これ以上私たちを刺激すれば、その都度人質たちを殺していく』ぐらい。あれだけの事したからね、向こうもそれなりに反応を見せたっていう感じかな」
「そうですか。舞たちの事がアリウムに知られている可能性は?」
「六分、七分くらいかな? 占拠しようとしていれば事前に調べているだろうけど、アリウム全員が妹さんたちの顔まで知っているかは分からないし、妹さんたちが見舞いに行っている相手がアリウムの関係者かどうかもまだ分かってないからね」
「そうですよね……」
まだまだ序盤の戦い。互いに出方を見つつ情報交換をしている状況だった。そしてここから少しずつ距離を縮め始めるはずだったが、ここで一息入れたいのか優樹が話の腰を折った。
「あの、すいません。ちょっとトイレ行っても良いですか?」
「え?」
「お茶飲んだせいか、気が緩んだせいか、実はさっきからちょっとお腹チクチクしてて……ウンコしてきて良いですか?」
「あ、あぁ良いよ。そういう事は遠慮せず言ってもらって良いんだよ? 気付かなくてごめんね」
「いえ、構いませんよ。それよりトイレどこですか?」
「藤原君、トイレ案内してあげて」
「分かりました」
空気が変わる程の間の抜けた発言には、坂口も調子抜けだった。しかし放っても置けず一時休戦を受け入れた坂口だったが、これこそが優樹の作戦だったらしく、その後トイレで用を足す音が聞こえる中藤原が油断していると、いつの間にか優樹はトイレの窓から脱出し姿を消していた。
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