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祝福の魔導公 ―転生した天才は魔法で世界を導く―  作者: branche_noir
第4章 選び取る日々と絆の灯火

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第30話 君臨せずして(前編)

アウストリア帝城。黎明。


紫紺の空にかすかな銀が差し込み、東の空が帝国の目覚めを告げていた。

だが、その静かな光をよそに、城の一角ではすでに幾つもの記録が運び込まれていた。


皇帝レオグランの私室――政務の間ではない、記録に残らぬ私的空間。そこに、今日もまた新たな報告が積まれていた。


「南境に動きなし。神殿との祝祭交渉は順調。

東連邦との不可侵条約は次期も継続の見通し。

帝国艦隊は冬季演習へ移行中、戦力再配置なし。

北山脈交易路の通行証発行数、前年比十二パーセント増。

新興都市域での租税徴収率は予測を上回る推移……」


低く、滑らかに読み上げるのは記録官ヴァルティナ。

数多の書簡と統計の中に、異変の兆しは見えなかった。


「……つまり、“何も起きていない”ということか」


皇帝レオグランは、卓に肘をついたまま呟いた。

威厳を帯びたその声音に、焦燥も驚きもない。

ただ、ふと――風が変わったことを感じ取るように、静かに手を伸ばした。


一通の封筒が、他の文書とは異なる位置に置かれていた。

封はされていない。だが、宛名はこう記されていた。


「皇帝陛下御私閲――軍務局直属観察報告」


読み開いた羊皮紙には、簡素ながら妙に熱のこもった文が綴られていた。


【軍務局直属観察報告 第17-α号(極秘)】

帝都夜会・貴族子息懇談の場における観察対象:アルヴィス・エルンスト殿の行動について、以下の通り報告する。

対象は、終始控えめにして冷静沈着。自ら進んで会話に加わる場面は限定的であり、魔素・魔技の行使は一切確認されず。

しかしながら、イヴァルディ伯爵子息による逸脱行動(皇女殿下への接触未遂)発生時、対象はわずか一言および視線のみをもって現場の緊張を制圧。

結果として、物理的介入を要せずに騒乱を未然に防止。

該当子息においては、明確な心理的抑制の兆候あり。

また、現場に居合わせた他子息複数名においても対象の言動以降、発言の沈静化および行動抑制が観察された。

特筆すべきは、対象がいかなる権威や命令を用いることなく、

「存在そのもの」が現場の秩序を回復させた点にある。

発言の少なさ、行動の希少さがむしろ中心軸を形成し、場に緊張と秩序をもたらすに至った現象は、極めて稀かつ特異であり、

年齢的特性を超えた“場の支配力”の萌芽が確認されたと評す。

本件、軍務局としては極めて有意と判断。今後も継続的な観察を強く推奨する。


「……“場の支配力"か。五歳にして、随分な表現だな」


そう呟きながらも、レオグランの口元には、かすかに笑みのようなものが浮かんでいた。

それは賛辞ではない。だが、確かに“期待”の色を帯びた微笑だった。


アルヴィス・エルンスト。

帝国西方を預かる四大公爵家の嫡男にして、“ただならぬ才”を宿す者。

その名は、今や帝都の一部で「次代の中庸の要」としてささやかれ始めている。


レオグランは、窓の外へ視線を移した。

帝都の輪郭が徐々に朝の光のなかで浮かび上がってくる。


帝国は、いま安定している。

政治も、軍も、経済も、外交も――すべてが整っている。

それは確かに“力”によって維持されているものだ。

だが同時に、見えざる“調停の重し”によって、微細な均衡も保たれていた。


「そして……その重しが、次の代へと移り始めたということか」


立ち上がらずにそう呟いたレオグランは、私室の呼び鈴を鳴らした。


「ヴァルティナ。ジークフリート・エルンストを呼べ。私的に、記録不要で構わぬ」


「はっ。……理由は?」


「そうだな……“次代の中庸の要”が、静かに姿を見せ始めた。

ならば今こそ、現代のそれと――語るべき時だ」


そして、もう一度。

彼は視線を、静かに明けていく帝都の空へと移した。


それは、玉座に座す者の視線ではなかった。

国を、均衡を、そしてその先にある“次代”を見据える、

一人の“統治者”としてのまなざしだった。


──そして物語は、次なる均衡へと進んでいく。


_________


帝都アウストリアの東塔、皇帝の私室。

記録に残らぬ空間で、ふたりの男が向かい合っていた。


ひとりは、帝国を治める皇帝レオグラン・アグレイア。


もうひとりは、西方を統べる四大公爵のひとつ、

エルンスト家の当主ジークフリート・エルンスト。


「呼び立ててすまなかったな、ジークフリート。夜明けのうちに来てもらったのは他でもない。少し――“未来の話”をしたくてな」


皇帝がまず口を開く。

その声は威厳を保ちながらも、硬さのない調子だった。


「御意。私にできることであれば、何なりと」


ジークは深々と頭を下げることもせず、かといって無礼にならぬ絶妙な角度で応じた。

その立ち居振る舞いは、帝都においても特異な空気を纏う。


「例の夜会の件――アルヴィスの行動は、軍務局からの報告にもある通りだったか?」


レオグランが訊ねると、ジークはわずかに視線を上げた。


「はい。私は夜会の後、イヴァルディ伯父子の謝罪を受け、事の一部始終を把握しております。アルヴィスは手を上げず、魔素も使わず。ただ言葉ひとつと視線で場を収めたと聞いております」


「軍務局も同様に記録していた。“場を支配した”などという言葉は、大人にもそう易々とは使えん。だが、彼には自然とその力が備わっているようだ」


「……過分なお言葉です。あれは、ただ“言うべきこと”を言っただけでしょう」


ジークはあくまで淡々と答える。

だが、皇帝はその控えめな表現を押し返すように、静かに言葉を重ねた。


「“言うべきこと”を、誰よりも早く、正確に言える者は稀だ。

周囲の子息たちが怯んだ場面で、己の言葉だけを選んで放った。……君の子は、間違いなく“場を読む”力を持っている。

そしてそれは、君たちエルンスト家が代々“揺らさぬ中庸”として築いてきたものの、次代への継承に他ならん」


レオグランは茶に口をつけることもなく、ただ視線だけで静かに相手を見ていた。


「私は君の子を、王にするつもりはない。

だが、帝国を保つ“もうひとつの柱”として――その存在の輪郭を、今この時点で確認しておきたかった」


ジークは、言葉を返さなかった。


その沈黙は否定ではなく、同意でもなく、ただ“受け止め”だった。

それは、言葉よりも重い返事だった。


「……君といると、この帝国が確かに“保たれてきた”と実感できる」


唐突に、レオグランがそう言った。

冗談でも賛辞でもない。“事実”としての響き。


「陛下の在り方が、“帝国の芯”をぶらさなかったからです。私はただ、その周りを固めていただけに過ぎません」


「違うな。君が動かなかったから、私は“玉座を揺らす必要”がなかったのだ」


互いの語調に、わずかに揺らぎが生じた。

だがそれは、信頼を土台とする統治者同士の無言の会話だった。


彼らは友ではない。

だが、帝国という舞台における最も重要な役割の共演者だった。


「……この国にとって“中立”は、時として“最大の力”となる。

誰の派にもつかず、誰の敵にもならず、ただその場にあって秩序を保つ。

君の家系が代々担ってきたその立場こそが――帝国の真の安定を形づくってきたと、私は思っている」


「ありがたきお言葉です。

ですが、それは同時に、“最大の誤解”を受けやすい立場でもあります」


「それでも、中庸があってこそ、両端はバランスを取れるのだ。……君の子がそれを理解しているなら、あの夜の“沈黙の制止”は、単なる才ではなく、意志と見るべきだろう」


ジークの瞳に、一瞬だけ感情の影が走った。

だがそれもすぐに消えた。


「――いずれ、その真意を問う日が来るでしょう。

それが、この帝国の揺れなさを試すことにならぬよう、願っております」


「願うだけでは足りんな。……私は統べる者として、君は支える者として。

その時が来たなら――共に、選ぶしかない」


沈黙が落ちた。

それは重たく、だが信頼に裏打ちされた、統治の“誓い”にも似た静寂だった。


やがてレオグランは立ち上がらずに、机上の茶に手を伸ばす。

一口、口をつけたその先に、再びゆるやかに言葉を置いた。


「君の子は……帝国の“静かなる重し”となるだろう」


ジークはそれに、深く静かに頷いた。


皇帝の私室に注がれる朝の光は、徐々にその輪郭を強めていた。

空の青は深まり、帝都の騎士団詰所からは規律ある掛け声が響き始めている。


レオグランは、報告書の山に目を落としながら、ふと一通の別資料を持ち上げた。

その紙には、各方面軍の戦力配備図、周辺諸国との交易収支、神殿との儀式協議、加えて帝都近郊の民心動向が記されている。


「しかし……改めて思う。今の帝国は、異常なほどに安定している」


その独白に、ジークフリートは反応を返さず、ただ視線を動かして書簡の表を覗いた。


「軍事は兵たちの士気も高く練度もよい。

北山脈の開拓地は交易利権で発展中。

南方は貴族連合との通商協定が二期継続され、

神殿は神託に干渉せず、民衆は王家への忠誠に揺らぎを見せていない――」


そう、口にしていながら、レオグランは不思議そうに肩をすくめた。


「……あまりにも順調すぎて、逆に恐ろしくなるよ」


「陛下は、“均衡のなかの静寂”をお恐れですか?」


ジークの問いに、皇帝はわずかに目を細めた。


「恐れてはいない。ただ――“変化の前触れ”には、得てして静けさが伴うからな」


皇帝の声に、重く澄んだ響きが乗る。


「帝国の外には、敵らしい敵はいない。

周辺諸国とは良い関係を保ち、交易は増加、軍備は他国に比して常に数歩先を維持している。だが、“内”において――不穏の芽が生まれる可能性は、常にある」


「……中立派の動向を、ご懸念ですか?」


レオグランはかすかに首を横に振った。


「いや。むしろ、中立派が“健全に働いている限り”、帝国は揺るがない。

問題は、“中立が機能しなくなる時”に起きる」


「つまり、“誰の味方でもない者”の声が、届かなくなったときですね」


ジークの言葉に、皇帝は頷く。


「その通りだ。だからこそ、エルンスト家の存在はこの国にとって常に“秤”であり、“錘”だ。中立とは傍観ではない。“双方を量り、揺れを戻す者”であること。

それが失われれば、帝国の均衡は、権力の腕力に委ねられることになる」


ジークは、あくまで静かに返す。


「我が家は、派閥にも政局にも加担せず、ただ“民の秩序が続くこと”を望む者たち。

それを貴きと見るか、空虚と見るかは、時代とそのときの王の眼によって変わりましょう」


「そして今の時代――“君の子”が、もう一度それを示した」


レオグランの言葉に、静かに重みが増していく。


「己を語らず、命令もせず、それでいて空気を制した。

それが“才”ならば育てよ。

それが“意志”ならば信じよ。

だが、それが“運命”であるなら――エルンスト家にしか背負えぬものだ」


ジークは、長い沈黙のあと、ようやく小さく頷いた。


「……あの子は、まだ自分が何を成したかを理解しておりません。

けれど、誰かを屈服させることで場を保ったのではない。

“抑えなくとも、抑えられる影響”を生んだのだと――いつか知ることになるでしょう」


「その時こそ、“中庸の要”が真に芽吹く時かもしれんな」


皇帝の言葉には、もはや懸念はなかった。

あるのは静かな観察者の眼差しと、老練な統治者としての嗅覚だった。


「エルンストの名が王に連なることはない。

だが、その名が中庸に在り続ける限り――王は玉座の上で、秩序を保てる」


「王を支えるのではなく、王が乱れぬように“空気を調える”。

……それが我々の役割とするならば」


ジークが低く呟くと、レオグランは、ゆっくりと立ち上がった。


「ああ。私と君は、友ではない。だが、統治者として――同じ時代に生きて良かったと思う」


「それは、我が家にとっても同じことです。……中庸は、いつか極端の波に呑まれる。けれど、それを防ぐために生きる価値もまた、あるのです」


二人は視線を交わしたまま、言葉を止めた。

それ以上、語る必要がなかった。


帝国という巨大な秩序の上に、いま確かに、

“新たな柱”が芽吹いている。


それはまだ小さく、名も立たぬ重し。

だが、いずれその名は――国の重さすら変えてゆくことになるのだろう。


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