第27話 縮まる距離
"静かなる盾"が音なき示威を示してから数日後、暖かい日差しが帝都に、降り注いでいた。
エルンスト家の帝都邸。
その庭園には幾筋もの陽が降りて、淡い緑と白い花々が静かに揺れていた。
そのなかに、少女の姿がひとつ、音もなく佇んでいる。
リシェルティア・アグレイア。
アグレイア帝国第三皇女。
そして、この家の嫡子と婚約を結んだばかりの少女である。
彼女は数歩進み、花の香に目を細めた。
その後ろに控えるのは、黒衣の侍女――リーネ。
さらに距離を置いて、近衛兵数名が沈黙のなかで周囲を警戒している。
「……立派な邸ね」
リシェルティアがぽつりと呟く。
その声は、感嘆とも違い、むしろ確認するような響きだった。
「殿下、帝都にあるどの貴族邸より、警備が厳重でございます」
リーネがそっと囁く。
その声音には、尊敬と、ほんの少しの安堵が混じっていた。
「……当然だわ。私は、ここに“皇女として”来たのだから」
リシェルティアは、庭の奥を見つめる。
その先には――この家の嫡子、アルヴィス・エルンストが待っている。
今日の訪問は、ただの社交ではない。
形式的な婚約を結んだ今、彼女自身が“歩み寄る”ための第一歩として、自ら帝都滞在中にエルンスト家を訪問したのだ。
皇族が自ら足を運ぶなど、通常はまずあり得ない。
だが、リシェルティアはそうしなければならないと考えていた。
――あの子は、“選ばれた者”。
私が、傍にいると決めた相手。
それならば、私の方から“距離”を詰めなければ。
その一歩を、彼女は誰にも告げず、静かに踏み出したのである。
そして――
「ようこそ、リシェルティア殿下。お越しいただき、光栄です」
庭の向こうから、柔らかな声が響いた。
アルヴィス・エルンスト。
白銀の髪と冷たいほどに澄んだ淡い紅玉の瞳を持つ、あの“祝福の子”。
リシェルティアは無言で歩を進め、彼の前で足を止めた。
「お招き、感謝するわ。エルンスト家の皆さまに、よろしくお伝えください」
そう応える口調は、皇族らしい簡潔さと格式を保っている。
しかし、どこか柔らかな響きがあった。
その直後――
「……あの微笑み、いつ以来かしら……」
リーネがぽつりと呟いた。
すぐに我に返ったように、口元を手で覆い、少し顔を伏せる。
だが、誰もそれを咎めなかった。
近衛兵も、エルンスト家の騎士団も、静かにその場に在るだけ。
だがその視線は、確かに“今ここにあるもの”を見守っていた。
――これは、ただの儀礼ではない。
帝国の未来に繋がる、まだ幼き二人の、最初の“歩み寄り”。
そしてそれは、陽光と氷の花が交わるように――静かに始まったのだった。
__________
「では、今日の過ごし方ですが――魔法は使わずに過ごしましょう」
アルヴィスは柔らかな笑みを浮かべながら言った。
リシェルティアは一瞬、きょとんとした表情を見せた。
「……それは、つまり“遊ぶ”ということ?」
「そういうこと。魔法は大事だけど、それだけじゃ距離は縮まらないから」
アルヴィスは実際に距離を縮めるように少しだけ砕けた口調でそう言った。
その言葉に、リシェルティアは少し考えるように瞬きをした。
彼女の周囲では、“遊ぶ”という概念すら、制約の多いものであったのだ。
「では……どのように?」
アルヴィスは一歩下がって、庭園の奥へと歩き出す。
「こっちに、小さなテーブルと香木を用意してあるんだ。今日は“香り当て”から始めよう」
庭の南側――木々に囲まれた小さな東屋。
その中央には、小さなテーブルが設けられ、幾つかの小瓶が並べられていた。
エルンスト家の使用人が丁寧に用意したもので、瓶の中には乾燥させた花や香草が入っている。
「私、こういう遊びは初めて」
リシェルティアがぽつりと口にする。
「なら、きっと楽しめるよ。ルールは簡単。目を閉じて、香りをかいで、中身を当てるだけ」
「……それは、嗅覚を問う訓練のようなものかしら?」
「うん、でも競い合わない。今日は勝ち負けなし。感じたことを言い合うだけ」
そう言って、アルヴィスは瓶をひとつ手に取って蓋を開け、リシェルティアの前にそっと差し出した。
「試してみる?」
リシェルティアは躊躇いがちに手を伸ばし、香りを受け取る。
「……これは……甘くて、少し草の匂い。ミント?」
「正解。でも、答えじゃなくて、そうやって感想を話すだけでもいいんだ」
リシェルティアはしばらく黙っていたが、やがて小さく、ふっと微笑んだ。
その横顔を、侍女リーネが少し離れた場所から見守っていた。
「……こんなにも自然に笑われるなんて……」
思わず漏れた言葉に、近衛兵のひとりが視線を向けるが、何も言わなかった。
アルヴィスは次の瓶を手に取る。
「じゃあ、これはどう?」
リシェルティアは目を閉じて、瓶の香りを吸い込む。
「……深くて、温かい香り。けれど少しだけ、焦がしたような匂い。……これは?」
「正解は……ローズマリー。香りの奥に苦みがあるから、そう感じたのかもね」
「……なるほど。あなたは香りにも詳しいのね」
「研究したわけじゃないけど、昔――いや、少し前に作った氷菓子に使ったんだ」
リシェルティアは、ちらりと彼を見た。
その瞳には警戒も畏れもなかった。ただ、興味と……微かな親しみがあった。
「……あなたって、変わってるのね」
「よく言われるよ」
アルヴィスは、肩をすくめて笑う。
遊戯は穏やかに進んでいった。
香り当てだけではなく、花合わせ――異なる色や形の花を組み合わせて、その印象を言葉にして楽しむ遊びも行われた。
「この白い花と、この淡紅の小花。……似合う?」
リシェルティアがそう訊くと、アルヴィスはほんの少し考えた後、答えた。
「うん。まるで――雪のなかに咲く春の気配みたいだね」
その言葉に、リシェルティアの手がぴたりと止まった。
「……あなたは時々、詩人のようなことを言うのね」
「詩は苦手なんだけど、気持ちを形にすると、そうなるだけ」
「……ふふ」
リシェルティアが――声を出して笑った。
リーネは、思わず両手を組んで見守る。
その小さな笑顔は、誰に見せるでもない“少女のままの”笑みだった。
見守っていた近衛兵が、そっと帽子の庇を下ろしながら、呟く。
「……こんな日も、あるのだな」
東屋に射す陽光は、香りとともに満ち、ふたりの距離をほんのわずかに、やさしく縮めていった。
_________
そして日が少し傾き、空気にわずかな風が混じり始めていた。
東屋の影に涼しさが落ちるころ、アルヴィスはそっと立ち上がった。
すぐ近くの小さな銀製の箱へ向かい、慎重に蓋を開ける。
「少し、冷たいものを用意してみたんだ」
リシェルティアが目を瞬かせる。
「……冷たいもの?」
「うん。帝都ではまだ珍しいと思う。氷を少しだけ、使わせてもらった」
彼が銀の器に盛ったそれは、薄紅と白の層をなす、柔らかな氷菓子だった。
ほんの少し溶けかけたその表面は、陽光を受けて宝石のようにきらめいている。
「お菓子なの……?」
「そうだよ。ほんの少し甘くしてある。よければ、試してみて」
リシェルティアはためらいがちに銀の匙を受け取った。
その手には、いつものような緊張はなかったが――やはり、どこか“構えて”いた。
匙で掬い、唇に運ぶ。
その瞬間。
「……っ」
彼女の瞳が、僅かに見開かれた。
「冷たくて……でも、おいしい」
言葉は自然にこぼれ落ちた。
アルヴィスはにっこりと笑った。
「氷って、痛いくらいに冷たくなることもある。でもね、舌の上で溶けると、少しだけ甘くなる。……君の魔素に、似てると思った」
リシェルティアは一瞬、返す言葉を見つけられず、匙を止めた。
「……私の魔素?」
「うん。冷たくて澄んでる。でも、痛みじゃない。そう感じたんだ」
風が、ふたりの間をやわらかく通り抜けていく。
リシェルティアは視線を落とし、そっと自分の手のひらを見つめた。
「私は……よく言われるの。冷たいって。心も、魔素も」
「……でも、今日の風は気持ちいいって、誰もが思う」
アルヴィスの声は、静かだった。
「君がいることで、誰かが落ち着いたり、息をつけたりする。そういう“冷たさ”も、あるんだと思うよ」
しばらく沈黙が流れる。
リシェルティアはもう一度、匙を口に運んだ。
そして――
「……悪くないわね」
その小さな呟きは、どこか照れ隠しのようにも聞こえた。
リーネが少し後ろで微笑んでいる。
近衛兵もエルンスト家の騎士団も、静かに、ほんの少し肩の力を抜いたようだった。
「もう少し、あるけど……?」
アルヴィスが問いかけると、リシェルティアは小さく頷いた。
「……もう一口だけ、いただくわ」
彼女がそう言ったとき、氷のような澄んだ横顔に、確かに“陽の光”が射していた。
__________
午後の陽が傾き、庭園の影が長く伸びはじめていた。
東屋の周囲には、警備と称しつつ距離を取って控える者たちの姿がある。
エルンスト家の騎士団。
そして、皇族の近衛兵。
互いに詮索はせず、しかし一様に、ふたりの姿へと自然と視線が向いていた。
リーネは少し離れた場所で、そっと待機していた。
主の姿を見守る侍女の瞳には、ほのかな驚きと、深い感慨が宿っていた。
「……殿下が、あんなに穏やかに笑われるなんて……」
その言葉は誰に向けたわけでもなかった。
けれど、隣に控えていた近衛兵のひとりがわずかに表情を緩める。
「まるで、夢を見ているようだな。あの方が……こんな風に」
「ふふ、そうね。あの子が“笑う”ことは、私の記憶にも、ほとんどないもの」
リーネは目元に手をあて、そっと息を吐いた。
その背後、もう少し離れた位置では、エルンスト家の騎士団副長ラウルが、双眼鏡のような魔導具を軽く下げていた。
「緊張を解いていいのか、副長殿?」
そう声をかけてきたのは、皇族近衛の隊長格と思しき中年の男。
その声には挑発でも、猜疑でもなく、ただ穏やかな問いがある。
「……いまのような時間こそが、“護るに値する”のかもしれんな」
ラウルはそう言って、背筋を伸ばした。
「アルヴィス様が穏やかに過ごせるこのような時間……それが、どれほどの重みを持つか」
「ふむ。殿下も――少しずつ、その陽だまりに手を伸ばしておられるように見える」
ふたりの軍人は言葉少なに頷き合い、それぞれの部下たちに視線を戻す。
その会話を少しだけ耳にしていたリーネは、そっと胸の前で両手を重ねた。
リシェルティアは生まれてから今に至るまで"帝国の宝石"として皆に称されて生きてきた。
そんな主君が、ようやく“誰かと対等に向き合う日”を迎えたことが、侍女として何よりも嬉しかったのだ。
同じ頃、東屋ではアルヴィスが椅子を立ち上がり、リシェルティアに軽く手を差し出していた。
「散歩、もう少しだけしない?」
リシェルティアは無言で頷き、そっとその手を取る。
それはまだ恋でも、友情でもない。
ただ、“敬意と信頼”が形を取った瞬間だった。
風が揺れ、木々の葉をさらさらと鳴らす。
騎士たちも近衛兵たちも、誰もが一歩も動かずに、しかしその場の空気にどこかやわらかな温度を感じていた。
ふたりの足取りが、庭園をゆっくりと進んでいく。
その様子はまるで――帝国の未来が、陽のもとに芽吹いていくかのようだった。
________
散策の途中、リシェルティアがふと立ち止まった。
庭園の小道の脇に、春草の芽吹きが列をなして並んでいる。
その細い葉が、陽を受けてまばゆく輝いていた。
「……この道、前に通ったときよりも明るくなってる気がするわ」
「それは、君が歩いているからじゃない?」
アルヴィスがさらりと返すと、リシェルティアは僅かに目を細めた。
「詩人のようね、また」
「言葉は、時々、気持ちの形になるんだ」
彼の言葉は、決して飾られたものではない。
むしろ、まっすぐで、照れもないその響きに、リシェルティアは目を伏せた。
そして。
「……ねえ」
彼女が、ゆっくりと振り返った。
「あなたは……私のことを、いつも“リシェルティア殿下”と呼ぶわね」
アルヴィスはその言葉に、ほんの一瞬だけ視線をそらし、それから正面に戻す。
「それが、今までは一番ふさわしいと思っていたから」
「ええ、そうね。私も……そう思っていたわ。
でも、いまは少しだけ……その響きが、遠く感じるの」
アルヴィスは少しだけ笑って、小さく頷いた。
「じゃあ……ティアって呼んでも、いい?」
その名前は、空気のなかに静かに落ちた。
誰も聞いていないかのような、柔らかな響き。
リシェルティアは驚いたように、瞼を瞬かせた。
そして――
「……好きに、すればいいわ」
そう言ったとき、彼女の唇の端が、ほんのわずかに、柔らかく上がっていた。
それを見たリーネが、思わず口元を押さえた。
その背中を見ていた近衛兵たちも、そっと視線を交わす。
「殿下、“名前で”呼ばれるのを許されたのですね」
「……ええ。たぶん、初めてのこと」
リーネは静かに、うなずいた。
彼女の主人は、ようやく“心の距離”を一歩だけ詰めたのだ。
それは命令でも、義務でもない、少女の意志だった。
そしてアルヴィスも、確かにその歩みに応えた。
ふたりの姿は、何気ない陽だまりのなかで、少しだけ近く、寄り添っていた。
_______
夕陽が、帝都の空を淡く染めていた。
庭園の西端。
低くなった陽射しが、木々の間から黄金の光を注いでいる。
その光の中で、ふたりの姿が静かに腰掛けていた。
言葉は、もう交わされていなかった。
けれど、その沈黙は重くも苦くもない。
まるで、深く息を吸い込んだときに訪れる、あの落ち着いた静けさのようだった。
リシェルティアは、膝の上に両手を重ねたまま、ただ空を見上げていた。
アルヴィスは、その隣で、そっと咲いていた小さな白花に目を向けた。
淡い香りが、風に運ばれてくる。
「……この花、君みたいだと思った」
ぽつりとこぼれたその言葉に、リシェルティアはゆっくりと横顔を向ける。
「……どうして?」
「凛としていて、触れるとひんやりして。でも、陽に当たっている時が、一番きれいに見える」
彼の視線はまっすぐで、照れも装いもなかった。
ただ、心のうちから湧いたものをそのまま言葉にした、そんな純粋さがあった。
リシェルティアは何も返さなかった。
けれど、瞼を一度だけゆっくりと閉じ、再び開いたとき、その瞳は穏やかに揺れていた。
そして、わずかに頬を染め――そっと囁くように言う。
「……あなたって、本当に変わってる」
「よく言われるよ」
アルヴィスは微笑んだ。
風が、再びふたりの間を抜けていく。
その温度は、もはや“冷たい”とは言えなかった。
騎士たちと近衛兵は、遠くからその光景を見守っている。
けれど、誰もその時間を邪魔しようとは思わなかった。
ふたりの距離は、まだ決して近くはない。
けれど、今日という一日は――その距離を、確かに“ひと匙分”だけ、近づけていた。
それは氷菓子のひと匙。
陽だまりのひと匙。
そして、心に触れる、ほんのひと匙の“真意”。
アルヴィスはそっと目を閉じた。
(この距離を、大切にしよう)
(無理に詰めず、壊さず、けれど――確かに、歩んでいけるように)
夕陽が、ふたりの影をやわらかく重ねていった。




