第26話 沈黙の焔(後編)
夜の帝都に、鋼の律動が走った。
それは音なき示威。
血も流さず、声も荒げず、ただ存在そのものが威圧となる行進。
エルンスト家の騎士団――“静かなる盾”は、その名の通り、沈黙をまとって動いた。
帝都南部の貴族街。
かつて騎馬隊が練り歩いたその石畳を、無音の鉄靴が正確に打つ。
前衛に立つのは、騎士団長レオナール。
その視線はまっすぐに前を見据え、揺らぎひとつない。
その後に続く三列編成の騎士たちは、誰一人声を発さず、軍旗すら掲げぬまま、ただ沈黙でその威を放っていた。
近隣の貴族の館では、カーテンの陰から顔を覗かせる者がいた。
侍女が青ざめて戸を閉め、領主は言葉もなく窓の前に立ち尽くす。
「……これは、何の行進だ?」
「表向きは“夜間訓練の一環”とのことですが……」
「……脅し、か」
いや、違う――と、誰かが言いかけて言葉を飲み込む。
これは脅しではない。
これは“姿を見せるだけで抑える”という、絶対の自信の表れだ。
咆哮しない獅子。
しかしその爪は、刃よりも鋭く、姿よりも深く刻まれる。
同時刻、神殿の塔では、記録官の一人が窓からその列を見下ろしていた。
「……これは、何の兆しか」
傍らの司祭が小さく首を横に振る。
「何も起きていません。ですが――何かが終わった気がします」
終わった。
そう、これは“抑え”だった。
“始まり”を許さぬという、静かな意思。
翌朝、帝都の噂は騒がしくも静かだった。
「エルンスト家の騎士団が、あの動きで貴族街を通過したらしい」
「旗も声もなく……ただ行っただけで、貴族街が沈黙したと」
「ありえないだろ」
「一人も手を振らぬのに、全ての窓が閉じられたらしい」
「それでいて、誰も“非難”できなかったと聞く」
誰もがそれを“脅威”と断じたが、同時に“美しさ”をも口にした。
圧倒的で、洗練され、威風堂々としていた――と。
「見せつけただけで、動きを止めるとは……」
政庁の奥、貴族派の会議室で、老伯爵が肩を落とした。
「“動くな”という一言もなかったのだぞ? ……それで、こうなるとは」
「だからこそ怖いのだ」
若い子爵が声を潜める。
「一歩も歩まず、ただ“静かに見せただけ”で、帝都の空気を変えた」
「……やはり、我らとは格が違う」
「そもそも“派閥”という発想が、あの家にはない。あれはもう……」
誰もが、続きの言葉を口にできなかった。
だが、心の中で誰もが認めていた。
――エルンスト家は、“帝国”そのものだと。
__________
次の日の昼下がり。
エルンスト邸の中庭で、ジークフリートはレオナールと並んでいた。
「……見事だった。声も、剣も要らぬ」
「は。団長として当然の務めを果たしたまでにございます」
レオナールの返答は淡々としていた。
「だが、見せつけただけでは終わらぬ者もいる」
ジークフリートが静かに呟く。
「心に燻る者は、必ず別の形で牙を研ぐ。……それは、帝国が“人の国”である以上、避け得ぬ摂理だ」
「それでも我らは、咆哮せずとも在り続けるのですか?」
ジークフリートは、曇りなき瞳で空を見上げた。
「咆哮せぬ獅子の爪は、誰よりも鋭い」
ジークフリートは、ゆっくりと視線を前へ戻した。
「――だが、もしその静寂を侮り、一線を越えるようなら……その爪をもって、わからせねばならぬ」
「……その信念、我らが背負います」
二人の声は風に溶け、やがて静かに空へと昇っていった。
その空の下、帝都は沈黙を保ったまま、ただ、焔のような気配をその奥底に宿していた。
“静かなる盾”が放った気配は、確かに――焔を、沈めたのだ。
__________
朝露が、石畳に淡く光っていた。
帝都の夜が明ける。
けれど、この一夜の静寂が何を覆っていたのかを、どれほどの者が理解しているだろう。
私は、エルンスト邸の中庭に立っていた。
まだ誰も起きていない時間。
草葉の匂いと、遠く鳥の声だけが、世界を満たしている。
昨日、騎士団が帝都を巡ったことを、私は知っている。
レオナールが私に何も言わなかったのは、その配慮だろう。
けれど、私は理解している。
あの夜、動かぬままにして、帝都を“静めた”のだと。
「……動かぬことで、場を動かす」
それは私にとっても、新しい“在り方”だった。
力は示すためにあるのではない。
声を荒げることが強さではない。
静けさこそが、最も深い場所に届くことがあるのだ。
私は拳を握って、自分の胸に当てる。
「……私は、沈黙の焔でありたい」
怒りを燃やすのではなく、ただ誰かを照らす焔。
騒がず、暴れず、けれど確かに“意志”を持った炎。
それが、この帝国の“中心”に立とうとする者の覚悟なのだと。
いや、違う。
私は中心になりたいわけじゃない。
私はただ、“誰かのために燃える火”でありたいのだ。
その先に、帝国があり、家族がいて――リシェルティアがいる。
「……彼女の光に、恥じぬように」
あの白い手が、もう一度私の手に触れるとき。
私の中の焔は、穏やかに揺れて、そして確かに未来を照らすものとなるだろう。
クラヴィスの言葉を思い出す。
“器とは、何を注ぐかで決まる”。
私は、自分の器に注ぐものを、今、選ぶ。
それは、誇り。
それは、優しさ。
それは、守る意志。
そして――沈黙の中に燃える、焔の意志。
私はそのすべてを、この小さな両手に抱えて、立っていた。
朝陽が昇る。
それは冷たい夜を越えて、確かに世界を暖める光。
私もまた、誰かの夜を照らす“焔”になれるだろうか。
そう願いながら、私は目を閉じた。
小さく、微かに、胸の奥で燃える灯を感じながら。
その炎は、まだ幼い。
けれど、決して消えないと知っている。
――沈黙の焔は、今日も灯り続けている。




