第23話 祝福の再臨
夏の帝都に、緋の光が差し込む。
その朝、アグレイア帝国の中枢――王政政務庁の謁見室では、
わずか十行にも満たない報告書が静かに読み上げられていた。
「……件名、エルンスト公爵領北部《静穏の境》にて確認されたBランク魔物の殲滅報告。
討伐主体、エルンスト家嫡男アルヴィス・エルンスト。年齢、五歳……」
空気が、凍った。
高位貴族たちが並ぶ円卓の一角で、誰かがペンを落とした音がやけに響いた。
「五歳で、Bランク魔物を――?」
「しかも、単独で?」
「いや、護衛付きではあったろう。だが……“魔法行使によって魔物を殺した”という一点は動かぬ事実だ」
「創造の兆し、全属性共鳴、そして今回の魔物討伐……」
「“神託の器”という噂も出ている。民衆の間ではすでに“アルヴィス信仰”が生まれつつあるとか」
声なき声が、場を包んでいた。
政務庁のこの部屋――帝国の行政、軍事、神殿、貴族派閥の代表が定期的に集まるこの場では、表面上の敬意が強く守られている。
しかし、そこに込められる真意は、常に利害と恐れに満ちていた。
そして、その中心で沈黙を貫いていたのが――皇帝であった。
「――呼べ」
その一声は、静かだった。
だが、周囲の空気が一瞬で凍る。
「エルンスト公爵家を、帝都に。名目は“表彰”だ。
正しく、堂々と、帝国の誉れとして迎える」
その視線には、余計な感情も、恐れもない。
ただ、秩序と理を見据える者の眼光があった。
「それが……アグレイア帝国の“統一意思”とする」
__________
「また、帝都か」
エルンスト本邸、朝の執務室にて。
ジークフリートは皇帝印の押された文書を静かに読み終えると、
隣の妻に目を向けた。
「“表彰”という名目での召喚。だが、内実は――」
「秤にかけにきたのね」
セシリアの声は穏やかだったが、その眼差しには微かな憂いがあった。
「五歳の子供に向ける視線ではない。
でも……それでも、行かねばならないのでしょう?」
「帝国が、我らを“座に就かせる”と決めたのだ。ならば応じよう。我が家は“沈黙で均衡を保つ者”。騒がず、騒がせず、ただ前へ進めばいい」
屋敷の中庭では、騎士団が馬を整備し、使用人たちが衣と道具を丁寧に詰めていた。
執事長クラウスが整然とした口調で命を飛ばし、クラリッサは特製の移動用茶葉を何度も嗅ぎ分けていた。
その様子を眺めながら、私は玄関先でソフィアに見送られていた。
「……また、いっちゃうの?」
「うん。でも今度も短いよ。すぐに帰ってくる」
「ほんと?」
「ほんと」
私はしゃがみ込み、彼女の手を握る。
その掌の中に、ひとつの“魔導式”を刻んだ。
「これはね、離れてても、私の魔素が伝わるようにした“お守り”だよ。これを握ってると、私がそばにいるみたいに思えるから」
「……アル兄……」
ソフィアは涙を堪えるようにして、ぎゅっと頷いた。
__________
門が開く。
黒と銀に彩られた馬車列が、ゆるやかに本邸を出立する。
家臣、使用人、民たちが見守るなか、私はカーテンの隙間から領地の人々の表情を見ていた。
驚き、畏れ、敬意、そして――親愛。
「坊ちゃま……いや、“あのお方”だ」
「神の御使いだって、本気で言ってる神官もいたよ」
「魔物を、たった五歳で……」
彼らの視線は、私という存在を“特別”として扱っていた。
そして私は、その“特別”がどこまで届くかを、まだ知らなかった。
__________
帝都が見え始めると、空気は一変した。
高くそびえる外壁、天を突く神殿塔、城砦の如き政庁、
そして圧倒的な存在感を放つ城――
石造りの壮麗な街並みが、視界の向こうに広がっている。
そして、その門を守る門番たちは、エルンストの紋章を見た瞬間、沈黙とともに一斉に敬礼を捧げた。
「エルンスト公爵閣下、ならびにご嫡男――ご入城を」
馬車が城門を通過すると、遠巻きに見守っていた民の間から、ざわめきが広がった。
「来た……“あの方”だ……」
「魔素で風を咲かせ、魔物を焼いたという……祝福されし者」
「神殿の者が“神の使い”だと言っていたって本当か?」
私はカーテン越しに、彼らの言葉を聞いていた。
そのすべてが“私個人”ではなく、“存在そのもの”を指していることに、私はまだ慣れていなかった。
帝都邸に到着すると、早速、政務庁からの使者が現れた。
「明日の午前、皇宮謁見の間にて皇帝陛下の御前にて拝謁が予定されております。
ご嫡男アルヴィス様も、正装にてご同行をお願いいたします」
ジークフリートは静かに頷き、私に目を向けた。
「気負うな。いつも通りでいい。お前は誰よりも、“我が家の子”だ」
「……うん」
__________
夕刻。
宮廷の中枢にあたる政務庁会議室では、各派閥の重鎮たちが集まり、アルヴィスの来訪を前にした水面下の議論が続いていた。
「今回の表彰、必要以上の栄誉にならねばよいがな」
貴族派の侯爵が冷ややかに言う。
「我らはあくまで“均衡”を守るべきだ。“神格化”は帝国を危うくする」
「ふん、だが民はもう“信仰”し始めている。あの子は“逸脱”の象徴となりかねん」
一方で、皇帝派の側近は静かに筆を走らせながら答える。
「……だからこそ、“帝国の誉れ”として抱き込み、晒すのだよ」
__________
明朝、私はエルンスト公爵家の帝都邸の一室で、礼服の前に立っていた。
白銀の衣に、淡金の刺繍。
その背に編み込まれたエルンスト公爵家の八芒の双頭竜の家紋と、
“八属性の魔法円”。
私は一つ、深呼吸をした。
心がざわめく。
だが、それを鎮めるために――私は、右手に小さな魔素を集めた。
“心象結界”。
それは、己の内に揺れを映し、整える小さな魔法。
「私は……アルヴィス・エルンスト。五歳。公爵家の嫡男。そして――祝福の子」
自分に、言い聞かせる。
そうして私は、扉の向こうの帝国へ、歩みを進めた。
__________
皇宮、金銀の装飾が施された謁見の間。
その奥、玉座に座すは、アグレイア帝国の現皇帝――レオグラン・アグレイア。
その眼差しは、帝国の千年を睥睨するような深みを持ち、圧は声にせずとも空間を支配していた。
「エルンスト公爵、ならびにその嫡子、アルヴィス・エルンスト――前へ」
私は父に導かれ、一歩ずつ進み出た。
玉座と我々を隔てる距離はわずか二十メートル。
だがその二十歩が、帝国と個人を繋ぐ“歴史の階段”のようにも感じられた。
「よく来た。余の国に新たなる“理”が芽吹いたと聞いた。……アルヴィスよ、お前がそれか?」
私は小さく頷き、魔素を流す。
一輪の光が、空中で花のように咲いた。
それは“祝意”としての魔法。
攻撃でも、防御でもない、“感謝”と“誓い”の光。
レオグランは口元にわずかな笑みを浮かべた。
「……この者に、“叡智の印”を授けよう。
帝国が認めし、理を知る者にのみ与えられる、古き紋章だ」
その場で勅命が読み上げられ、私は新たな肩章と金細工の小箱を受け取った。
形式的な謁見ではあったが、これは間違いなく“公的な承認”だった。
エルンスト家の嫡子――その才能は、もはや一貴族の領域に留まらぬという、帝国からの宣言だった。
謁見を終えた後、私はふと振り返った。
玉座の側に、小さな影があった。
淡金の髪を編み込み、淡い蒼の瞳を持つ少女。第三皇女、リシェルティア。
"帝国の宝石"と称される彼女の目が、まっすぐに私を見ていた。
懐かしいような、鼓動を打つような、視線。
そして――ほんの一瞬、彼女の口元がわずかに緩んだ。
声は出さずとも、“また会えた”と告げるような笑顔だった。
__________
謁見が行われた日の夕刻。皇宮の庭園は、静かな風に包まれていた。
バラのアーチをくぐり抜けた奥、ひとりの少女が石造りのベンチに腰かけている。
金糸のような髪が夕日に照らされ、空を仰ぐその瞳は、どこか遠くの何かを追いかけていた。
第三皇女、リシェルティア・アグレイア。
まだ言葉の全てを操れるわけではない。
けれど彼女は、その幼さの奥に、“確かな輪郭”を持ち始めていた。
祝福の儀の日。
光に包まれた彼の姿を見て、胸の奥に残った感情。
それが何であるかを、彼女はまだ知らない。
ただ、それが“恐れ”ではないことだけは、はっきりと分かっていた。
──また、会えた。
今日の謁見で、彼が見せた光。
それは神聖でも、畏怖でもなく、まるで――“語りかけるような”光だった。
リシェルティアは、そっと胸に手を置く。
幼き鼓動が、そこに生きている。
「……また、あの光に……」
小さな声が、風に乗って溶けた。
それは、言葉にならぬ“約束”。
いつかその隣に並ぶという、淡くも強い、幼き決意。
空には星がまたたきはじめていた。
帝都に、静かに夜が降り始める。
__________
こうして、エルンスト家の名は、再び帝都に轟いた。
だがそれは序章にすぎない。
アルヴィス・エルンスト。
彼の歩む道は、まだ始まったばかり――




