第22話 微笑みの庭、氷菓子ひと匙
夏の陽射しが、エルンスト領の街並みにやわらかく降り注いでいた。
だが、その空気には、いつもと違う緊張感と興奮の余韻があった。
「聞いたかい? 北の森に現れたBランクの魔物を――アルヴィス様が退けたらしい」
市場の八百屋が声をひそめて話せば、隣の肉屋は目を見開く。
「え? 五歳って……まだ友達とその辺を駆け回ってる年齢じゃないか?」
「けどな、それが真実なんだと。神殿にも報告が上がったって話さ」
別の店先では、旅商人が馬車の御者に語っていた。
「エルンスト家の次期当主……あれは祝福の化身か、はたまた神罰か。いずれにせよ、帝国に嵐が来るぞ」
騎士団の訓練場では、若い団員が剣を構える手を震わせていた。
「この前、訓練場で偶然魔素の揺らぎを感じたんだ。……あれは、もう、人の域じゃない」
人々の言葉には、憧れと敬意、そしてわずかな“畏怖”が交じっていた。
子どもが英雄になるという話には夢がある。
だが、それが“現実”であったとき、人は素直に喜ぶことができない。
――あの子は、もう“人”ではないのかもしれない。
そんな囁きすら、風のように領内を駆け巡っていた。
だが、その中で――
「アル兄の、ばかぁぁあああああ!」
屋敷の中庭に響いた声は、エルンスト家の誰よりも力強かった。
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「ソフィア……」
私は、妹の泣きじゃくる姿を目の前にして、言葉をなくしていた。
金のふわっとした巻き髪が跳ねるほどに揺れ、透き通る碧い瞳には大粒の涙。
小さな拳をぎゅっと握りしめて、私を見上げるその表情は、あまりにも必死で――痛ましかった。
「なんで、あんなところ行ったの! まもものとこ! しんじゃうかも、だったのに!」
「……ソフィア、ごめん。危ないことだってわかってた。でも、必要なことだったんだ」
「うそつき! アル兄、ソフィアが止めても、ぜんぜんきいてくれない!」
「……」
胸が、きゅうっと締めつけられた。
言葉の通じない年齢ではない。
だが、言葉では伝えきれない不安を、ソフィアはずっと抱えていたのだ。
私は膝をつき、ソフィアの視線と同じ高さまで降りる。
「ねぇ、ソフィ。私はね、“護る”って決めたんだ。
ソフィアも、家族も、この領地も。だから……自分で見て、知って、動かなくちゃいけなかった」
「でも! ソフィアは、アル兄がいないと……」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、彼女は胸に手を当てた。
「ここが、いたくなるの……ずっと、きゅーって……」
私はその小さな手に、自分の手を重ねた。
魔素が、静かに流れ込む。
それは慰めでも、癒しでもない。
ただ、“ここにいる”という証を伝える、感情の波だった。
「じゃあ、今日は――」
私は笑みを浮かべる。
「ソフィのためだけに、“おいしいおやつ”を作ろうと思うんだ」
「おやつ……?」
「うん。“ひんやりしてて、甘くて、ふわふわしてて、冷たいのに心があったかくなる”やつ」
ソフィアの涙が、少しだけ止まる。
「それって……なぁに?」
「ふふ、それはね――“アイスクリーム”って言うんだよ」
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厨房は、一時騒然となった。
「坊ちゃまが……自ら厨房に……?」
「なに? “氷を練って空気を混ぜる”? それ、料理じゃないだろう!」
「でも、あの顔……真剣だわ」
私は木の実を潰し、搾った果汁に砂糖と牛乳を加えて、特製の小鍋に注ぐ。
それを、魔素で冷却した金属皿に流し込み、ゆっくり撹拌を始めた。
「混ぜては冷やし、また混ぜて……この作業を数回繰り返すと、ふわふわで冷たいお菓子ができるんだ」
「まるで……魔導具の製造みたいな理論じゃのう」
どこからともなく現れたクラヴィスが、目を細めて呟く。
「アイスクリーム、じゃったか。……ふむ、まさしく“創意”じゃの」
私は笑った。
「魔法と料理は、似てるよね。理と感性、どっちも必要なんだ」
隣でソフィアが、じっと工程を見つめていた。
その小さな手には、先ほど私がこっそり作ってあげた“氷のスプーン”が握られている。
「アル兄、がんばって……」
私は彼女の視線を感じながら、最後の攪拌に魔素を込めた。
風属性と水属性を複合させた微細制御――
“風冷精攪”。
淡く光る魔素が皿を包み、氷菓の表面がふわりと盛り上がる。
完成。
スプーン一杯をすくって、ソフィアの口元へ差し出す。
「はい、どうぞ。特製“夏色の氷菓子”だよ」
ソフィアはおそるおそる、それをひとくち。
「……つめたい……でも……あまくて、おいしいぃ……!」
顔が、花のように綻んだ。
「おいしい! すっごく、すっごく、おいしい!」
それを見ていたクラリッサが、思わず鼻をすすった。
「坊ちゃま……あたしゃ、もう……なんも言えないよ……」
騎士団の者たちもこっそり覗き見ていた。
「これが、五歳のすることか……?」
「いや……“あのお方”だから、できるんだろうな……」
憧れと敬意、そしてわずかな"畏怖"が混じっていた厨房の空気が、
笑いと驚きと、優しさで満たされた瞬間だった。
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午後、日差しがやわらかく傾いた庭で――
私はソフィアと並んで寝転んでいた。
芝の香りと花の匂いが、混ざりあって心地よい。
空には薄雲が漂い、風がそっと頬を撫でていく。
「アル兄、もっと遊びたい……」
「まだ遊ぶの?」
「だって、きょうは特別なんだもん」
私は笑って、掌に魔素を集めた。
ゆるやかな光が風を呼び、小さな“心象の花火”を作る。
ぱん、と花が咲いたように空中で揺れたそれに、ソフィアが拍手を送る。
「きれいっ!」
「うん。これは、“楽しい気持ち”を映した花火だよ」
「また、やって!」
私はもう一度、魔素を練って空に打ち上げた。
“楽しい”という感情に形を与える。
それは私の特異な才能――“心象魔術”と呼ばれる、分類不能の魔法だった。
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夕暮れ。
中庭の噴水のそばで、私は母セシリアと二人で紅茶を飲んでいた。
「アルヴィス……今日はよく笑っていたのね」
「うん。久しぶりに、ソフィアに怒られちゃってね」
「ふふ。私は、あなたが無茶をしたことに怒っていいのか、妹を泣かせたことに怒るべきか、迷ってしまったわ」
私は静かに紅茶を一口。
その温かさに、魔素を少し流し込む。
香りがふわりと広がって、母の笑顔がやわらいだ。
「でも、ソフィアのために作った“あの氷菓子”……本当に素晴らしかったわ。まるで、魔導具と料理の間にある奇跡のような……」
「ただ、昔の記憶をなぞっただけだよ」
ふと、言葉にしてから、自分でも気づく。
“昔”――そう、私にはもう一つの人生があった。
「アルヴィス?」
「ううん、なんでもない」
母は何も言わず、そっと私の手を取った。
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夜。
部屋の灯は落とされ、カーテン越しに月の光だけが静かに差し込んでいる。
私は寝台の上で、仰向けに寝転んでいた。
ソフィアはすでに眠っていた。昼間あれだけ泣いて、笑って、遊んで、甘えて――疲れ果てたように布団にくるまっている。
けれど私は、まだ眠れずにいた。
ふと、窓の外に目を向ける。
夏の夜風が木々を撫で、遠くでふくろうが鳴いている。
平和な夜――その裏にある、守るべきものの重さを、私は再び自覚した。
魔物を倒したときの感覚。
自らの力が、相手の命を絶った瞬間の“静けさ”。
それは決して誇るものではなかった。
けれど、それでも必要だったと、私は思う。
“誰かを護る”とは、そういうことだと。
寝返りを打ったソフィアが、無意識に私のほうへ腕を伸ばす。
その小さな手を、私はそっと握った。
「……おやすみ、ソフィ」
魔素をわずかに流し込む。
暖かな光が、部屋をほのかに包む。
それは安眠を誘う“微睡の魔法”――初歩的なものだが、心を込めたひと匙の魔素は、何よりの癒しになる。
その夜、私は長く起きていた。
けれど、心は穏やかだった。
この日を、私はきっと忘れない。
氷菓の甘さ。
妹の怒りと笑顔。
母の手の温もり。
そして、自分の“力”の意味。
――それらすべてが、私を支える“源”となる。
未来は、きっと嵐に満ちている。
私の才覚が平凡な人生を歩むことを許さない。
けれどこの平穏を、私は決して手放さない。
それが、私という存在の“はじまり”だから。
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静かに、夜が更けていく。
魔素は、月光に溶けるようにゆらめき――
いつか再び来る嵐の前に、ひとときの微睡みが、そこにあった。




