第21話 試される理
夏の陽が傾きかけた頃、エルンスト領の北端――《静穏の境》と呼ばれる山林に、異変の報が届いた。
「魔物の兆候、確認しました。境界標の裏手に、魔素の歪みが数箇所……」
屋敷の作戦室にて、騎士団副長であるラウルが魔導地図を広げながら報告する。
父ジークフリートは眉一つ動かさず、報告を聞き入れた。
「種類は?」
「詳細は不明ですが……徘徊型ではなく、領域を形成している気配があります」
ジークフリートは軽く頷くと、隣に控える執事長クラウスに目配せを送った。
「――即座に対処しよう」
その一言で、騎士団が動き出した。
その日の夕刻、私は父の書斎の扉を静かに叩いた。
「……入れ」
扉の向こうから響く父の声。
私は深く息を吸い、扉を開けた。
「父上、お願いがあります」
机に向かっていた父が、私を一瞥する。
「……言ってみろ」
「北の山林に、魔物が現れたと聞きました。
どうか、私も“同行”させてください」
沈黙。
空気が一瞬、重くなる。
私は逃げずに、父の目を見た。
「私は、魔法を学び、戦いの型を知りました。
“護るための力”が、ただの理屈で終わってはならないと思うのです」
「……五歳の子供が言うことではないな」
ジークフリートは、あきれたようにそっと呟いた。
だが、その声に怒気はなかった。
「……いいぞ」
父の返答は、驚くほどあっさりとしたものだった。
「ただし、私の馬車に同乗すること。現場では私の許可なく、決して前に出るな。いいな」
「……はい、父上」
私は深く頭を下げた。
心の中で、熱く何かが燃えた気がした。
それは“喜び”ではない。
けれど、ようやく一歩、背中を預けられたような――そんな感覚だった。
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夜が明けきらぬうちに、エルンスト家の騎士団は出発の準備を整えた。
五十騎を基幹とする選抜部隊。
魔物の掃討にしては大規模だが、今回は私の“試練”を兼ねた実戦でもある。
父・ジークフリートの馬車に私は同乗した。
白銀の鎧に、統一された黒と青の外套を纏う騎士たちの姿が窓の外に映る。
いつも見ていた景色。けれど今日は、その中に“私自身”がいる。
緊張は、なかった。
ただ、静かに――魔素が呼吸とともに整っていく。
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静穏の境に到着した頃には、朝霧が薄く漂っていた。
魔導測定器が、わずかな揺らぎを捉える。
「……この霧の中に、います」
計測していた騎士が呟いた直後――風がざわついた。
「距離、左前方三十メルト!」
前衛の騎士が叫ぶ。
霧の奥、何かが蠢いた。
地面が微かに震え、そしてそれは姿を現した。
「クロウ・ランパント……!」
黒い毛皮、異様に長い四肢、牙は岩をも砕くと言われる。
Bランク相当の獣魔である。
その分類は帝国魔導学庁が定める魔物の等級によるものだ。
最下級のGから始まり、F、E……と段階を上がり、最上位はS。
さらに、都市一つを消し飛ばす力を持つとされる存在は、別格として“災厄級”と呼ばれる。
クロウ・ランパントは単体ではBランクに相当するが、護衛任務においては警戒すべき強敵だった。
副団長ラウルが一歩前に出る。
「団長、私が――」
「待て」
ジークフリートが手を上げると、全員の動きが止まる。
「アルヴィス、どうする」
私の名を呼んだ。
父の瞳は、試すようなものではなかった。
ただ、“問いかける”視線だった。
「私が、やります」
魔素が、静かに、しかし確かに高まっていく。
右手に魔法陣の核を構築しながら、私は思った。
――これが“初めての命”。
だからこそ、無駄にはできない。
私は、真正面からそれと向き合うつもりだった。
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「――〈風槍・穿〉(ランス・ゲイル)」
詠唱は短く、魔素の流れは極めて滑らかだった。
私の掌から放たれた魔槍は、旋回しながら空気を裂き、
クロウ・ランパントの右肩を貫いた。
「ギィアアッ!」
咆哮。
魔物の体が跳ね上がる。返す爪が鋭く地面をえぐる。
その一撃で、前衛の騎士が一人弾き飛ばされた。
私は即座に次の魔法を組む。
「〈拘束陣・氷縛環〉(アイス・バインド)」
地面に走らせた魔素が氷鎖へと変わり、魔物の足を絡めとる。
一瞬の隙――それが“勝機”だった。
「……ここまでだ」
私は、最後の魔法を構築する。
火と風を複合し、圧縮、回転。
魔力の粒子が一点に集まり、灼熱の螺旋となって指先に宿る。
「〈紅蓮穿牙〉(フレア・ファング)」
魔物の胸を撃ち抜いた。
叫びもなく、クロウ・ランパントは崩れ落ちた。
騎士たちは警戒を解かず、死体の周囲を確認していく。
私は――その場に立ち尽くしていた。
体が、妙に冷えていた。
手足は震えていない。呼吸も整っている。
だが、胸の奥に、何かが――沈み込んでいた。
「……これが、“命”を奪うということか」
魔物であっても、それは“生きていた”のだ。
凶暴で、人を害する存在であっても。
目の前にあったものが、もう二度と動かないという現実。
覚悟はしていたが、簡単には受け入れられなさそうだった。
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ジークフリートが近づいてくる。
「アルヴィス」
その声は、硬くも柔らかくもなかった。
「よくやった」
私は、何も言えなかった。
ただ、少しだけうなずいた。
そのまま、私はしばらくの間、動かずに立っていた。
足元で、魔素が静かに流れていて、肌に感じる風は夏なのに冷たかった。
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帰路の馬車の中、私は何も言わなかった。
父もまた、無言だった。
だが、その沈黙は責めるものではなく、
私が自分の“答え”を見つけるまでの静かな余白だった。
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エルンスト家の本邸に戻ったのは、夜半近くだった。
セシリア母上は私を出迎えると、言葉もなく抱きしめた。
「……おかえりなさい」
その声に、私は小さくうなずいた。
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その夜、眠れぬまま私はバルコニーに出ていた。
私の部屋にはあの後騎士たちが採取したクロウ・ランパントの牙が立てかけられていた。
夜空は静かで、星が遠かった。
クロウ・ランパントの目が、いまだ脳裏に焼きついて離れない。
――私は、命を奪った。
それは、誰かがしなければならないことだった。
でも、私でなくてもよかったのではないか?
いや――
「“護る”ためには、“奪う”ことから逃げられないときもある」
誰かの言葉のように、胸の中に浮かんだ。
そのとき、背後から声がかかった。
「坊ちゃま」
騎士団長のレオナールが立っていた。
「……眠れぬ夜は、剣を磨くのが一番と申しますが」
私は、小さく微笑んだ。
「私はまだ剣を持たぬ身なのでな」
「ならば、心を研がれるのもまた一興」
レオナールは私の隣に立ち、夜空を見上げた。
「坊ちゃま、今日の一撃……見事でした」
「……ありがとう。でも、私は――」
私は迷いなく言った。
「怖かった。命が、消えるということが」
「……当然です」
レオナールは静かに頷いた。
「“命を奪う”とは、“責任”を背負うことです」
「我ら騎士は、命令で剣を振るいます。
ですが、それは同時に盾でもあるのです。民の平穏を守るために、我らが穢れを引き受けるのです」
「穢れ……」
「はい。“手を汚す”というのは、時として“誇り”でもあります」
彼はそう言って、静かに拳を胸に当てた。
「護る者は、時に守るために奪うという矛盾を抱えるものです。
けれど――その矛盾を恐れず、それでも誰かのために立ち続ける人こそが、真に“強く、優しい”存在だと私は思うのです」
私は、その言葉を静かに胸に刻んだ。
少しだけ、胸の痛みが和らいだ気がした。
「……ありがとう、レオナール」
騎士団長はわずかに膝を折り、頭を垂れた。
「いずれ坊ちゃまが、“誰かを護る”と決めたその日。
その時こそ、この剣は――あなたと共に在りましょう」
騎士団長の言葉は、誓いだった。
そして私の胸には、ひとつの感情が芽生えていた。
悲しみでもない。誇りとも違う。
けれど確かに、誰かのために“強くなりたい”という思い。
それが、私の中に――生まれていた。




