第19話 軋む声、揺らぐ宮廷(前編)
アグレイア帝国の象徴である皇帝の住まう城、その最上階奥の《深銀の間》と呼ばれる円卓会議室。
その名の通り、天井から壁に至るまで青白く輝く銀で覆われたこの空間は、帝国の中枢が密かに動く場所だった。
今、その空間に重々しい沈黙が満ちていた。
「……ついに現れたか。エルンスト家の“怪物”が」
侯爵の一人が吐き捨てるようにそう呟いたが、隣に座る老侯爵は無言で杯を傾けるのみだった。
場に集うのは、皇帝直轄の上位貴族たち。
だがそのうち、特に重い存在感を放つ者たちがいる。
皇族を除き、帝国において“頂”とされる四つの公爵家――
その中でも、エルンスト家は最古にして最深。
場におらずとも圧倒的な存在感があった。
派閥を持たぬ“中立”を標榜し、
決して政治闘争には首を突っ込まぬその一族は、帝都で“均衡の要”と恐れられていた。
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「エルンスト家を訪問した陛下直属の記録官の報告によれば、アルヴィス・エルンストは八つの基礎魔素すべてに完全共鳴。
加えて、精神・空間・時間・創造の上位属性にも“反応”を示したと、神殿より報告があった」
政務庁筆頭書記官の読み上げに、円卓を囲む一同が微かに身じろぎする。
「五歳にして、です」
沈黙。
神官の言葉は、決して誇張ではなかった。
魔導学院の観測基準によれば、上位属性への“自覚的干渉”が確認されるのは通常十三歳以降――
しかも一万人に一人いるかどうかの才能である。
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「やはり……ただの天才ではない」
グランゼルム家当主、クライド・グランゼルム侯爵が口を開いた。
「天才の一族であることは周知の事実だ。
だが、これまででさえ重かった“エルンストの名”が――さらに重くなる」
重くなりすぎる。
その言葉を飲み込んだ侯爵らの顔に、かすかな焦りが浮かぶ。
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「……我々は、忘れるべきではない」
低く、鋭い声が響いた。
北辺を治めるセリウス辺境伯。
硬質な瞳を光らせ、静かに続ける。
「皇帝になれるのは、皇族のみ。それは揺るがぬ原則だ。
エルンスト家が帝位を望むはずもない。だが――」
「その“一言”が、帝位継承の流れさえ傾けることがある」
彼の言葉に、誰も否定を挟めなかった。
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「皇帝の意志とは関係なく、“あの一族の頷き一つで”国策が揺らぐ。
……それが、いまこの帝国で起きていることだ」
セリウス辺境伯の声に、会議室の空気がさらに重く沈む。
グランゼルム侯が視線を落とし、静かに補足した。
「もともと、帝国における“貴族制度”は――明確な等級に基づいている」
その言葉に、誰かが小さく頷く。
「皇族を頂点とし、その直下に“帝国四大公爵家”が並ぶ。
公爵家はそれぞれ、軍事・経済・文化・魔導の分野で均衡を担う存在だ。
その下に侯爵家、辺境伯家、伯爵家と続くが……」
「……いずれも、“公爵家が動かぬ”ことを前提に成り立ってきた均衡だ」
他の貴族たちの間に、ざわめきが走る。
皇族の血を引かぬ者は皇帝にはなれない――それは法で定められた帝国の根幹だ。
ゆえに、エルンスト家が“帝位”を脅かすことはありえない。
だが、それと“影響力”は別だった。
あの家が“言葉”を口にするだけで、帝都の重鎮たちは一斉に身構える。
そして今や、そこに――“歴代最高位の魔導適性”を備えた嫡男が現れた。
しかもまだ五歳。
その幼子が、すでに神官たちを畏怖させるほどの魔素を放っているというのだ。
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「中立派の象徴として動かぬ者――それがエルンスト家の“美徳”であった。
だが、あの子が成長し、もし何らかの意志を持ったとしたら?」
誰かが言葉を詰まらせる。
意志を持つ。
その瞬間、“均衡の重し”が、“動く質量”に変わる。
それこそが、帝都宮廷を覆う不穏の正体だった。
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重々しい空気を引き裂くように、
深銀の扉が静かに開いた。
入室を告げる声はない。
その存在だけで、誰もが自然に頭を垂れる。
「陛下」
と、小声で誰かが呟いた。
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帝国皇帝――レオグラン=アグレイア。
沈黙と理で国を治める“寡黙の統治者”。
深紅の衣に金銀の襞を重ね、左肩には皇族の象徴である“七翼の獅子”を戴く。
その瞳は鋼のように冷たく、そしてどこか“永い時を見渡す”者特有の静けさをもっていた。
玉座に至るその歩みは、音すらない。
やがて、皇帝は席に腰を下ろし――
「……干渉は、不要とする」
その一言が、帝都中枢を静かに支配した。




