†chapter10 空中公園の隠者12
「お食事の前にお飲み物はいかがですか?」
メニューを持ってきた給仕係がそう聞いてきた。
「では食前酒はシャンパンをください。上条くんと黄くんもそれでよろしいですか?」
向かいに座る琉王に言われ、緊張している上条は首だけで頷いた。
「それと、彼は未成年なのでジンジャーエールをください」
琉王は拓人を示しそう言った。百聞の能力によって全員の年齢を把握しているので、注文がとてもスマートだ。
「かしこまりました。シャンパンは当店おすすめのものでよろしいですか?」
琉王は給仕係に微笑みかける。「それでお願いします」
「いやー、楽しみですねぇ」
黄はまだ食前酒も来ていないのに、既にナイフとフォークを持ってスタンバイしてる。
「楽しみやけど、緊張するわぁ」
ネクタイが苦しい上条は、首の辺りを触りながらそわそわと落ち着きがない。
「皆さんとお食事できる折角の機会ですので気軽に楽しみましょう。先程も言いましたが、高級店とはいえ今はそれほど評判がよくなかったりしますから……」
琉王は口を濁すと、横に視線を向けた。先程の給仕係がフルートグラスに注がれたシャンパンとジンジャーエールを運んでくるのが見える。
「お待たせいたしました。アペリティフでございます」
テーブルの上に背の高いシャンパングラスが並んでいくと、琉王は厳しい表情でそれを睨みつけた。グラスの底から筋状の泡がプクプクと浮かんでくる。
「ちょっといいかな?」
一礼して去ろうとする給仕係を、琉王が呼びとめた。
「私はシャンパンを頼んだはずですが?」
言われた給仕係は首を傾げたが、すぐに何かに気付いたのか目が泳ぎ出した。
「す、すみません。少々お待ちください……」
バックヤードに下がって行く給仕係を、琉王は冷ややかな目で見送る。
「どうしたん? これシャンパンちゃうんか?」
上条はグラスに鼻を近づけた。だが香りの違いなど彼にわかるはずもなかった。恐らくスプリッツァーを出されたとしても区別がつかないだろう。
「これはカバのようですね」
「かば!? ああ、スペインのスパークリングワインや」
上条も飲食店で働いているのである程度知識はあった。カバとはスペインのカタルーニャ地方ペネデス地区で生産されているスパークリングワインだ。ペネデス地区はフランスのシャンパーニュ地方とよく似た石灰岩の土壌のため、スパークリングワインの生産に適しているのだという。
「はい。勿論これはこれで美味しいものなのですが……、私がオーダーしたものとは違いますね」
「ワインの違いがわかるとは、さすがセレブリティだな」
拓人がフルートグラスを傾けその液体を見つめた。しかし、残念ながら彼のグラスに入っているのはただのジンジャーエールだ。
そんなやり取りをしていると、店の奥から髪をきっちりと7:3に分けた恰幅の良い中年の給仕係がやってきた。彼が給仕長なのだろう。
その給仕長は長年培ってきたとびきりの笑顔で微笑むと、自分がホールの責任者であることと提供したものが間違いなくシャンパンであることを説明した。
「そうですか。では結構ですよ」
琉王は目線も合わせずに下がって良いと、手で合図する。
「食事の前に気分の悪いことをしてしまってすみませんでした」琉王はテーブルに座る他の3人に謝罪した。
「もう、ええんか?」
「正直、シャンパンだろうとカバだろうと、私としてはどちらでも良かったんです。味の違いなどわかりませんからね」
その言葉に上条は首を捻った。
「目利きが出来る程詳しいのに?」
琉王は違うのだと首を振ると、自分の耳に指を当てた。
「私は地獄耳でして、悲しいことに従業員の会話など全て聞こえてしまうのですね」
そこまで言われて上条もようやく気付いた。琉王は百聞の能力を使って、従業員が不正している様子を聞いてしまったようだ。
「あー、俺らがこんな格好だから舐められたのか」
ネクタイを首に直接巻いている拓人が、首を下に向け自分の姿を確認した。
「所詮サービスする側も人間ですから、こういうことがあっても仕方がないです」
「渋谷の夜の顔と言われてる琉王さんにいい加減なもん出すとは、どうも評判通りの店みたいやな」
上条はむっとした表情で鼻を鳴らした。琉王といえば渋谷の住人なら誰もが知っている人物なのだが、今は髪を黒く染め変装しているため従業員に気付かれていないようだ。ただ、気付かていない方が都合が良いことは確かなので、敢えて名前を言うことはないだろう。
「まあ釘は刺しておいたので、この後出てくる料理に関しては間違いないでしょう」
琉王ははにかんだ表情でグラスを首の高さに上げた。乾杯しようということだ。他の3人もフルートグラスの足を指で摘まんだ。
「それでは乾杯」
「乾杯っ!」
目を合わせグラスを少し持ち上げると、その縁を唇にそっと当てた。冷たい液体が舌の上を通り、喉の奥へと落ちていく。ドライな口当たりだが引き締まるような酸味が後から口の中に広がり、やがて鼻から芳醇な香りが抜けていった。
「うん。琉王さんの言う通り、これはこれでうまいもんやな」
上条がそう言うと、黄が「いや、僕はカバよりもスプマンテの方が好きですねー」と主張した。スプマンテとはイタリアで造られたスパークリングワインのことだ。
「そうですね。スプマンテでもクレマンでもカバでも、探せば美味しいものはいくらでもあります。ただ昔知り合いの刑事が言っていたのですが、本当に美味しいシャンパンには人を魅了するような魔力を秘めた香りがあるのだそうです。次に食事をする機会があれば、そんなシャンパンを提供してくれるレストランに行きたいですね」
琉王はそう言ってフルートグラスを傾けた。それを見ていた上条の目には、琉王の顔が何故かとても寂しげな表情に映っていた。




