†chapter6 人間の瞳10
拓人と上条の目の前には高い壁があり、その壁の奥には巨大な建造物が建っている。かつてはここもホテルやオフィス、飲食店街が集まる最先端の複合施設だったようだが、今はその面影も残っていない。
中からは異国の発酵食品のような臭いが漂い、聞きなれない言語の怒声が聞こえてくる。
「うわー、魔窟大楼にこんなに近づいたんは初めてやなぁ」
建物の周りを取り囲む高さ3メートルの塀の前で、上条は呆然と空を見上げた。
廃墟のようなその建物の雰囲気に合わせてか、空はどんよりと厚い雲に覆われ今にも雨が降り出しそうな気配だ。
横にいる拓人も緊張感から息を呑んだ。
「結局ここに来るまでに不破とは出会わなかったな」
「ああ、もう不破の奴、中に入ってしまっとるみたいやな。人間の瞳の取引しとるんやろか?」
不破が近くにいることは彼の持つ結界の能力の範囲内に入ったことで気付いていた。少なくとも10メートル圏内にはいるはずだろう。
「そうかぁ、取引が終わってなければ良いけど……」
拓人がそう口にした直後、どこからが車のエンジン音が聞こえてきた。
(これは……?)そう思ったのも束の間、正面の門から黒塗りのシーマが出てくると、タイヤを滑らせながら素早く道を曲がっていきやがてどこかへ走り去ってしまった。
一瞬の出来事に呆然としていると、しばらくして不破の持つ結界の範囲から外れたことに気が付いた。
「おい、もしかしてさっきの車って?」
上条は下唇を噛んだ。「不破の車みたいやな」
「何だよ! どうする、追うか?」
上条は首を振った。
「いや、もう人間の瞳の取引が済んだってことやろ。こうなったらもう諦めなしゃーない。中に入って裏ブローカーのミミックを捜すで」
「そうするしかないかぁ……」
気乗りのしない声でそう言うと、建物の中からガラスのようなものが割れる音が聞こえてきた。驚いた拓人は肩を大きくすくませた。
「ガチでやばそうな所だな。生きて帰れるかな?」
「五分やな」
「……低いなぁ」
建物は高い塀に囲まれているが、入り口の大きな門は入れるものなら入ってみろとばかりに開け放たれている。覚悟を決めた二人は何かを断ち切る様にその門に入って行った。
玄関へのアプローチを歩いて行くと、古くなったビルの正面入り口に誰がつけたのか魔窟大楼と書かれた立派な看板があった。しかし建物は老朽化が酷く、壁はあちこちひび割れてそこから雨水が浸食し黒く変色している。そして手の届く範囲にはスプレー缶で書いた中国語の落書きがひしめきあっていた。
「この大都会にこんな場所があるとはなぁ」
二人は物音をたてないように気を付けながら建物の中に侵入した。中は薄暗く、独特の空気が漂っている。本当に異国に来てしまったかのようだ。
床には割れたビール瓶やら弁当の食べ残しが散乱し、腐敗した臭気を放っている。突き当たりに辿り着いた拓人は鼻をつまみながら辺りを見回した。左手にエレベーターらしき扉があるのが見て取れた。
ミミックこと裏ブローカーの賴は20階より上に住んでいるとワタヌキが言っていたのを思い出した拓人は、上条に合図しこちらに呼び寄せた。
「エレベーターがある」
そう小声で言うと、上条は首を振った。
「いや、たぶん壊れてるやろ」
(壊れてる?)そう言われエレベーターを確認すると、階を表示するランプが全て消えてしまっているようだった。
「前に聞いた話やと魔窟大楼は侵入者対策なのか何なのか知らんけど、エレベーターが全部使えへんようになってるんやと」
上条はそう言い、横にある階段を指し示した。
「20階まで階段上らなくちゃいけないのか。しんどいなぁ」
急に体が重く感じた拓人は階段の前まで進むと、ゆっくりと上りだした。
人の気配を感じたのは階段を五段上ったところでだった。
(階段の先に何者かがいる……)
すぐに足を止めたが、足音で相手もこちらの気配を感じただろう。ここで引き返しては返って怪しまれてしまう。
拓人は汗ばんだ手を握りしめ、踊り場まで足を進めた。そこからさりげなく見上げると、赤い星のマークが付いた人民帽を被った二人の男が、会話をするでもなく誰かを待ち構えるように静かに立っていた。
「快要下雨了」(雨でも降りそうだな)
右の壁にもたれかかっている男が話しかけてきた。
聞き慣れぬ言語に怯んだ典型的な日本人の拓人は、振り返り助けを仰いだ。
「圭介君、何か言ってるけど……」
上条は何かを考える風に顎に手を当てた。
「恐らくこれは合言葉か何かやな」
「合言葉? 山って言ったら、川って答えるみたいな?」
「古臭い例えやなぁ、ぺーぺーの忍者でもそんな合言葉使わへんで」
「うるさいな。わかりやすい例えを出しただけだろっ!」
「ああ、なるほど。けどまあそういうことや。それを答えたら、そこを通して貰えるんやないか?」
「けど中国語で何言ってるかわかんねえじゃん」
「せやな。まあ、ここは俺に任せとき」
図太い神経を持った典型的な関西人の上条は、階段を上り人民帽の男の前に立つと自信満々にこう言った。
「天安門廣場在哪裡?」(天安門広場はどこですか?)
すると険しい表情を崩した二人の男が顔を見合わせ、そして上に行く道をそっと開けてくれた。
上条は数回頷くと、どうだとばかりに後ろを振り向きその階段を上った。
「マジかっ!?」
上条のことを少し見直した拓人は、急ぎ足でその後を追った。……はずだった。
一瞬何が起きたのか把握できなかったが、上条と拓人は階段を上りきると同時に、上にいた二人の人民帽の男にそれぞれ首根っこを掴まれると地面に押し倒されてしまった。




