Part.4 Prosopagnosia: Why don't you call the name of dearest ?(1)
*女性に対する精神的DV(モラル・ハラスメント)の表現があります。
3-4-(1)
《それで。どうするんだ? ルツ》
思考に割りこんできた 《声》 に、彼女は息を呑んだ。そのまま、溜め息に変換する。この日の真織の世話を終えた彼女は、自分のデスクで帰り支度をしていた。
《起きていたの。史織》
《ああ。あんたが帰るまでは、起きているつもりだったから……》
躊躇うようなテレパシーに彼の気遣いを察して、ルツは微笑んだ。
標準時に合わせた腕時計は、二十一時を示している。ルツは、同僚たちが帰宅した室内を眺めた。史織と真織達のいる部屋は、壁を隔てた隣だ。
このキメラ達が母親のように彼女を慕い、その身と心の平穏を願ってくれていることは、よく解っていた。彼女の抑圧した心の動揺を、感じとれるほどに。彼等にとって、この事態はどうなのだろう?
ルツは自嘲していた。――本当に、自分はどうしたいのだろう。
あれから何度か月の連合軍スペース・センターへ通っているのだが、タイミングが悪いらしく、もう一人の 《古老》 にはまだ会えていなかった。
アストロノウツ訓練校の学生であるミッキー(ウィル)と違い、大学院の課程をほぼ終えているラグは、時間の融通がきいた。父親であり統制官のモリス・グレーヴスとは、比べるまでもない。それで、すっかり彼の許へ通う日々が続いている。ラグの方も迷惑そうな素振りを見せなかったので、彼女はそれでよかった。
それどころか、彼と会うことが密かな楽しみになっていた。ラグは大抵、鷹弘と一緒にいるので、二人きりになる時間は殆どない。あっても、初対面のときほど話すわけではなかったが……。
己を省みて、ルツは苦笑した。三十近くなって五歳も年下の男性を相手に時めいているわけではなかろうに。 日々抑圧されている所為で、研究所外の人との交流が新鮮に思えるのだろうか。
『人間らしい』? 彼女は失笑した。
愛想はなく、彼女の扱いに当惑しているラグ。強大な 《古老》 の能力を記憶とともに受け継いでいるはずだが……彼女には、彼は可愛らしくて仕様がなかった(そんなことを言おうものなら彼は裸足で逃げ出すだろうと、容易に想像できた)。他人とうちとけない男だが、そう思わせる振る舞いのそこかしこに奥手で照れ屋な心情がのぞくのだ。
ルツには観えてしまう、彼の心の動きの一つ一つ、戸惑いの一つ一つが。それは半分は彼女が精神感応能力者なせいもあるが、彼女には懐かしく、同時に気恥ずかしかった。
そんな彼を観ていることが、楽しい……。
己の気持ちに冷水をかけるもう一人の自分を、彼女は自覚していた。
《ルツ》
史織が不安げに呼ぶ。彼も感じているのだろう。甘やかな気分とは裏腹に胸を塞ぐ重苦しさに、ルツは眼を閉じた。
『嫌なことを頼むと、思うのだろうが』――研究所に戻った彼女に、ドウエル教授は言いにくそうに口ごもった。
『これは命令ではないのだよ、ヨーハン君。君が嫌なら、拒否してくれて構わない。しかし、我われとしては、《古老》の計画に賛同できない。まだ、彼等を失うわけにはいかないのだ』
『はい。判っています、教授』
判っています――貴方は決して責任をとろうとはしない。なだめ、さも思いやるかのごとく言いくるめて、部下が自発的に行動するよう仕向けるのですね。
心の中で返事を繰り返すルツを、クラーク・ドウエルの灰色の瞳が見詰めていた。哀しげに……いたたまれないというように。
――ルツは額に手を当て、溜め息をついた。自分とて、彼等をうしないたくはない。しかし、どう伝えればいいのだろう?
『協力してくれ。連中の能力を手に入れたい』 ターナーの声が脳裏にひびく。あんな風に彼が伝えてくれれば良かったのだ。もっとも、彼等が承知するはずはない。
《ルツ》
史織が呼ぶ。
ルツは螺旋を描いて墜ちていく思考を諦めた。考えても仕様がない。出来るだけやってみるしかない。もちろん、自分に出来るだけ。
《大丈夫よ、史織》
永い沈黙の末、ルツはぎこちなく微笑んだ。己に言い聞かせるように。
《子どもじゃないわ、私は。……本当に嫌なことは、断るから。大丈夫よ……》
史織の応えはなかった。
◇
ムーヴ・ロード(動く舗道)に乗って自宅へ帰ったルツは、
「遅かったな」
玄関ホールに佇む男の姿を目にし、立ち止まった。頬がこわばり、気分が急降下する。
「グリフィス」
「開けてくれないか? 認証から外れたらしく、私では開かないのだよ」
留守宅に勝手に入られるのが嫌で、わざと彼を認証から外していたのだ。不敵に微笑むグリフィス・ターナーの脇をすり抜け、ルツは電子鍵を外した。ターナーがついて来るのを待たず中へ進み、リビングへ向かう。
「何の用?」
「婚約者の部屋を訪れるのに、理由が必要かね」
「……言ったはずよ。私は貴方とは結婚しない」
「私も言ったはずだ。婚約破棄は認めない」
ルツは仕事用のバッグをソファーに置くと、キッチンへはいった。ターナーはリビングの椅子に腰を下ろすと、テーブルの中央の皿に載ったドライフルーツをつまらなそうに眺めた。
ルツは彼のためにコーヒーを淹れたが、自分は席に着かなかった。ターナーはカップを口に運び、端麗な白い頬にうす笑いを浮かべ、わざとらしく切り出した。
「毎日、熱心に通っているじゃないか、あの男の所に。もう手なずけたのか?」
「…………」
「いい加減、奴らの魂胆を探り出せただろう。報告しろ」
ルツは耳を疑った。
「彼等を信じていないの?」
「信じる? 《古老》 を? まさか」
ターナーは鼻哂した。嵌めこまれた青玉の双眸が、冷たく彼女をあざ笑う。
「強いESPを持っているのは事実らしいが、奴らの話が信じられると? 誇大妄想もいいところだ。銀河連合も残念な組織だな、統制官があのザマでは」
「…………」
「問題は、連合が奴らを使って何を企んでいるのか、だ。《SHIO》 と 《LENA》 を巻きこむ理由は何だ? まだ判らないのか」
ルツが沈黙していると、ターナーは舌打ちをした。「使えない女だ」 呟きが耳を打つ。
そうだった――諦めとともに、ルツは思った。彼にとって、教授や統制官の肩書きなど意味がない。たとえ上司でも、相手を蔑む切っ掛けは、どんな小さなものでも利用する男なのだ。そして、自分に都合よく、いくらでも話を捻じ曲げる。
ルツは、脳科学とESPに関する研究実績を評価されてシンク・タンク No.42 に就職した。彼女に恋のアプローチをしかけたのは、グリフィス・ターナーの方だった。彼の整った容姿と知的な会話、洗練された物腰に、若い彼女が惹かれるのは時間の問題だった。恋愛は順調に進み、婚約してから気づいた。
ターナーが、自分の ”所有物” とみなした相手には、態度を豹変させる男だと。
彼女の研究内容はいつの間にか改変され、ターナーの業績にされていた(彼は、にこやかに微笑んで言ってのけた。『彼女の協力を得て……』)。 それが数度くりかえされた後、上司に相談すると、ドゥエル教授は不思議そうに応えた。
『結婚したら君は仕事を辞めると聞いている。彼が君の研究を引き継ぐことに、何の問題があるのかね?』
嵌められたと感じた……。彼女に全く相談なく、彼が彼女の進退を決めたのだ。
抗議する彼女を、ターナーは当初宥めようとした。『何を言っているんだ? 当然、君はそうすると思っていたよ』――やがて、それは恫喝に転じた。『誰のおかげで仕事が続けられると思っているんだ』 『大した業績もないくせに、私が君に箔をつけてやっているんじゃないか』
優美な微笑は皮肉をこめた冷笑へ、洗練された物腰は慇懃無礼へ、高い知性は他人を無能とみくだす傲慢さへと変化した。愚かな女と蔑みながら彼が彼女を手放さないのは、利用価値があるからだ――研究者として。他人に見せびらかす愛玩動物として。劣情のはけ口として……。
ルツは仕事を辞めて地球へ帰り、彼から離れることを考えた。しかし、すでに史織と真織がいた……彼等を置いていくことは出来ない。
結婚しないのは、彼女に残された唯一の抵抗手段だった。省みるほどに己が身が情けなくなる。
ルツは、ターナーが目の前に迫っていたので息を呑んだ。彼女が考え事をしている間に近づいたらしい。
彼は藍色の眼を細め、猫なで声で言った。
「君には期待しているんだ、ルツ。がっかりさせないでくれよ」
「グリフィス。……!」
逃げようとする間もなく抱き寄せられ、唇を塞がれた。咄嗟にルツは口をかたく結び、身をこわばらせて彼を拒んだ。体格では敵いようがなく、いざとなればPK(念動力)を使わなければならない――
幸い、それには至らなかった。
ターナーは、ただ彼女から離れた。頬を叩かれたような表情をして。
「おやすみ」
そう侮蔑をこめて耳朶に囁き、彼は部屋を出て行った。玄関の扉が閉まる音を聞くと、ルツはその場に坐りこみ、両手で顔を覆った。
心臓が早鐘を打っている。全身に冷や汗をかいていた。
《ルツ……》
史織の 《声》 が案じている。ほのかな温もりが彼女を包み、慰めようとする意図が感じられた。
ルツは項垂れて首を振った。大丈夫と伝えたくて出来ない。涙があふれそうだ。
あんな男だと見破れなかったかつての自分の愚かさが恨めしい。いつか、絶望に慣れる日まで、この苦悩は続くのだろう。
◇◇
「はじめまして。ルツ・ヨーハン博士、ですね?」
《VOYAGER 》 号のリビングに入ったルツは、朗らかに言って立ち上がる青年の姿に、戸惑った。
通い始めてそろそろ一週間が経つだろうか。その日は、ミッキーの方が彼女を待ってくれていた。鷹弘は来ていない。ラグはソファーに坐り、平然と彼女を迎えた。
青年は礼儀正しく一礼して彼女に片手をさし出した。簡単に自己紹介をしてその手を握り返し、ルツは、ミッキーをまじまじと観察した。
「髪が……」
「ああ、これですか?」
ミッキーは彼女に椅子を勧めると、滑らかな黒髪を掻き上げた。
「アジア系なんです、おれは。先祖に日本人がいたらしくて。ところで、コーヒーでいいですか?」
「え、ええ。……でも、それは」
ミッキーは快活に微笑むと、キッチンに入ってコーヒーを淹れ始めた。
ルツの戸惑いは消えなかった。《ウィル》 だと聴いていたからだ。ウィリアム・フォン・ミュンクトなら、彼は日本人ではあり得ない。そもそも 《古老》 は全員、生粋の地球人でもないはずだ。
ラグは彼女のために煙草を揉み消し、少し感嘆している声音で言った。
「……そうだ。そういうことは、本来、起きてはならない」
「狂っているんですよ、我われは」
ミッキーもルツの疑問に気づいた。怜悧な黒い眸を伏せ、微笑みは消さずに説明した。
「貴女が知っている歴史と、我われがたどった地球の歴史は異なります。我われは出来るだけ干渉を避けてきましたが、微妙に喰い違っているんです」
ミッキーは、茫然としているルツに、器用に片目を閉じてみせた。
「最初におれとラグが会った時、こいつはまだ子供でした。おれはクインと同年代でしたからね。それが今では、おれの方が年下になっている。他の二人の仲間は、どこに消えたか判らない」
ラグは二人から顔を背け、肩をすくめた。青年はふふっと哂った。
「我われがこの時空に存在すること自体、矛盾ですからね。それだけ 『時は絶対ではない』 のでしょう。……ところで、普通に淹れてしまいましたが、アレンジはいいですか?」
「俺はブラックでいい」
「あ、私も……」
「了解」
ミッキーは掴みどころのない謎めいた微笑を浮かべたまま、トレイにカップを載せてやって来た。三人のカップを音を立てずにテーブルに並べると、改めてルツに向き直った。
「さて。何度も来て頂いたそうで、済みませんでした、博士。一日で終わるはずだったんですが、思いのほか任務が長引いてしまって。こいつに連絡する余裕もなかったから、気を揉まれたのではないですか?」
「いいえ……」
これは、確かに十代の台詞ではない。――ラグを顎で示す仕草を見ながら、ルツは思った。
「任務とは?」
「おれは、Bクラスの戦士なんです。……このせいですね」
ミッキーは軽く首を振った。ルツは目を瞠った。
緩やかなウェーブを描いた黒髪が動作につれて揺れると、瞬く間にラグと同じ銀灰色に変わった。少女のような長い睫毛も、眉毛も。瞳が明るい緑色に染まっているのを見つけ、ルツは呼吸を止めた。
彼女の反応をミッキー=《ウィル》 は愉快そうに眺めたが、ラグは慎重に釘をさした。
「気をつけろよ、ウィル。彼女の精神感応能力は強いんだ。呑み込むな」
「解っている。お前じゃない。心配するな」
「あ……」
ルツは言葉を発することが出来なかった。春の若葉色の双眸から、目を逸らせない。
すぐに理解した。ラグより、《クィン》より、《ウィル》 の能力が強大だと。史織に初めて相対した時のように、身体が竦んでしまう。それは、己を捕食する肉食獣を前にした、草食動物に似て――
「来ていますね」
ウィルも彼女の変化に気づいた。ルツは身の内に急速に現れる存在を意識しながら、彼の呟きを他人事のように聞いた。
ラグは二人の会話を訝しんだ。
「おい。ウィル?」
「成る程……『空間を共有する能力者』ですか。大丈夫ですよ。おれは、彼女の意識を呑んだりしませんから」
ウィルがふわりと微笑むと、身体にかかる圧力が消え、ルツは息を吐いた。心の中で呼びかける。
《史織。貴方なの?》
返事はなかったが、興味深げにこちらを見るウィルの表情で、それが錯覚ではなかったと理解した。
ウィルは明るい碧眼に彼女を映し、小鳥さながら首を傾げた。
「面白い女ですね、貴女。そんなに強いのに、今まで 《彼》 が居たことに気づかなかったのですか?」
事情の判らないラグが、二人を見比べている。ウィルはにっこり微笑んだ。
ルツは頬が火照るのを感じた。彼に心の底まで見透かされたと気づいたのだ。
ウィルは優しく囁いた。
「無理もないのかもしれませんね。《彼》 は強い。常に貴女と同調しているんでしょう。確かに、あのエネルギーを全部吸収したら、おれの方が壊れるかもしれません。でも、協力はしてくれるそうです。……随分、貴女を心配していますね。ラグが失礼なことをしたのだから、当然です」
ルツは項垂れるしかなかった。
「おい」
ラグが憮然と呼ぶ。ウィルは、くすくす笑い出した。
ルツは逃げ出したくなった。気づかれた――ああ、彼には解ってしまった……。
しかし、嫌な気分ではなかった。ウィルの笑い方が上品で、嫌味がなかったからかもしれない。若葉色の瞳の温かさは、彼女とラグに対する理解を示している。
ウィルはひとしきり笑うと、滑らかな声を喉の奥に収めた。目元はまだ微笑んでいる。
「失礼、本題に戻りましょう。心配して下さり、ありがとうございます。おれは大丈夫ですよ。《SHIO》 に敵意はなかったですから。それに……もしおれが壊れても、《ミッキー》 が残ってくれればいいんです。おれ達は、『分かれる』ことが出来ますから」
「え?」
「ウィル」
ルツはすぐには彼の話を理解出来なかったが、ラグが強く眉根を寄せたのは、あまりよい事柄ではないことを窺わせた。
ウィルは仲間をなだめた。
「いいえ。せっかく 《SHIO》 が来てくれたのですから、お話しておいた方がいいでしょう。ヨーハン博士。――おれと 《クィン》 は、記憶を分離出来るのです。別の人格のように」
言葉の意味を理解しようと努めるルツに、千年という時を観てきた若き 《古老》 は、静かに説明した。
「後代に引き継ぐため、そうする必要があったのです。おれ(ウィル)という 《古老》 の記憶と能力を封じれば、この脳には 《ミッキー》 が残ります。今度の作戦で多くのエネルギーを吸収すれば、おれ(ウィル)は壊れるかもしれません。壊れなくても、作戦が終了すれば、おれは記憶を封じて 《古老》 を辞めるつもりです。だから、皆は遠慮しなくていい。そう、伝えているのですよ」
彼女の不安を解くように、ウィルは再び微笑んだ。
屈託のない瞳にどう応えればよいか解らず、ラグを顧みたルツは――彼が、思慮深いが苦悩に満ちた眼差しを相棒に向けていることに気がついた。まるで、悼むように。
ルツはウィルに向き直った。
「どうして……? 《古老》 の記憶を封じる、なんて」
「不思議ですか?」
ウィルは短い銀髪を揺らして首を傾げた。ぱちくりと瞬きをする様子は、純朴な少年のようだ。おずおずと頷く彼女に、
「そうか。貴女は御存知ないのですね。我われのたどって来た歴史がどのようなものだったのか」
「え……?」
「我われの仲間のうち、二人は耐え切れなくなって途中で消えました」
彼は憐れみをこめて囁いた。
それまで黙っていたラグが、ぼそりと呟いた。
「先代の 《ウィル》――ミッキーの母親は、息子に記憶を渡した後、自殺した」
ルツは二人の 《古老》 を凝視めた。彼等の碧色の眸の奥に深い虚無をみつけ、彼女は呼吸を止めた。
Prosopagnosia;『相貌失認』――劣位半球後頭葉の障害で起こる。
家族・友人・有名な俳優など、よく知っているはずの人を、その相貌から認識出来なくなった障害。眼鏡や衣服・声などからなら、その人であると判断出来る。




