OPENING
ああ。あの日が、近づいて来る。
彼は、私を殺す人なのだ。――
午前四時。照明をおとした部屋の蒼い夜の底でめざめた彼女は、物憂い仕草でベッドに身を起こした。素肌に、エア・コンディショナーの風が少し寒い。長い髪がひとふさ胸にこぼれたのを掻きあげ、足元のシーツをたぐり寄せた。隣で眠る彼の身体に、そっとかける。そうしながら、彼を見詰めた。
古代の彫像のように彫りの深い横顔は、若く、張りつめた弦のごとき意志の勁さを窺わせた。切れ長の眼をふちどる睫は銀……うすく顎にのこる無精髭も。見事な銀の長髪が白い頬にほつれかかり、うつ伏せに眠る彼の肩から背中へと流れていた。
あの印象的な、眩む夏の日の新緑のような瞳は、今は見えない。
彼女は、胸の奥で小さな傷が疼くのを感じて眉をひそめた。彼とこういう関係になってから十日も経っていないのだが、己を責める内なる声を聞いていた。
否。『彼は、私を殺す』……。
それがこういう意味だとは、思いもよらなかった。己の浅はかさに愕然とする。ここ数日の自分の行動を考えると、消えてしまいたい気分になる。承知していたはずなのに。
彼を得ることを望み、その通りに得ておきながら、処女のように動揺している。途方に暮れる感情をもてあましている。こんなことは、初めてだ。
彼女は溜息をつき、ベッドの脇から脚を下ろした。頬にかかる髪を掻きあげ、首の後ろでまとめていると、眠っていたはずの彼が動いた。
彼女が気配に気づいて振り向く前に、彼の腕がその細い腰をとらえた。はっと息を呑む彼女を、後ろから無造作に抱き寄せる。ぬくもりが伝わり、切なさに彼女は眼を閉じた。
(ああ……)
「どうした」
彼は低く囁いた。微笑を含む声に胸を締めつけられ、彼女は瞼を開けられなかった。
「ラグ」
「もう、帰るのか?」
しっとりと重い黒髪を掻きわけて白いうなじをたどり、彼はそこに唇をおし当てた。動けなくなっている彼女の腰を片腕で抱き、もう一方の掌を簡単に折れてしまいそうな首筋に当て、同じ口調で囁いた。
「グリフィスが気になる?」
眼を閉じたまま、彼女は首を横に振った。そんなことが問題ではないのだが、彼に知られるわけにはいかなかった。
「なら、ルツ。《もう少し――》
台詞の後半はテレパシーで、彼女の胸に直接響いた。彼は彼女を振り向かせ、唇に唇を重ねた。そのまま、深く、求め合う。
(知られてはならない……)
広い胸のぬくもりを感じながら、彼女は懸命に考えていた。――駄目だ、心を閉じなければ。別のことを考えなければ、彼には判ってしまう。彼のような能力者には、伝わってしまう。
唇に、指先に翻弄されつつ、彼女は必死に考えた。知られてはならない。ああ、けれど。
彼は、私を殺す人なのだ……。




