1.PTAの交通当番
玄関扉の内側に、黄色い旗が立てかけられている。
田中頼子はそれを引ったくると、大急ぎで玄関ドアを開けた。
鍵はあとから夫がかけて行くからいいだろう。
頼子はアパートの階段を駆け下り、学校前の交差点へと急いだ。
ああ、やっぱり間に合わない。
子供たちが横断歩道を渡って行く。その列に紛れて頼子も歩いて行くと、向こう岸に立っている交通委員長の大城美樹に頭を下げた。
「も、申し訳ありません……」
交通当番は七時三十分から開始する。
しかし、既に時刻は七時三十五分を回っていた。
美樹が、いつも一文字にしている口端を歪めて笑う。
「私、早く来すぎたのかと思っちゃった~」
頼子は平身低頭で平謝りした。
「す、すいませ……」
「きちんと時間に合わせて来て下さいよ。あっちの横断歩道、行って早く」
美樹が顎で方向を指し示す。頼子は小走りに空いている横断歩道に行くと、旗振りを始めた。
頼子と美樹の息子たちが通っている三辻小学校の前には、大きな幹線道路がある。なので八時まで、PTAの交通当番が横断歩道に立って児童の見守りをするのだ。
頼子はランドセルの集団を道の向こうに渡らせながら、胸につかえている言葉を必死に飲み込んでいた。
(何?さっきの言い方……)
胸が、ものすごくモヤモヤする。
(子どもが言うこと聞かなくて、時間が押してどうしようもない時ってあるじゃない。遅刻したのは悪かったけど……あの人だってママなんだから、そういう時ってあるんじゃないの?それを、あんな風に茶化したりするなんて)
頭の中で文句はぐるぐるするが、自分が悪いという結論は変わらない。
(……私はあの人みたいに、人生において余計なことは言わないよう、気をつけなくっちゃ)
とりあえず、頼子は美樹を反面教師にしようと思った。
八時になると、交通当番は皆時計をちらちら見ながら引き上げて行く。
頼子はアパートに向かった。
玄関ドアを引こうとすると、夫の翔馬が玄関に立っていた。
手には白杖を持っている。
頼子は尋ねた。
「陣の様子は、どう?」
「だめだ。どんなに引っ張っても起きないよ」
「そっか……そうだよね」
こんな状況が、もう三か月も続いている。
起立性調節障害だ。三年生になってからこの調子になり、病院を訪ねるとそう診断されたのだった。
単なる不登校というわけではなく、病気なのだ。それは分かっていても、やはり「うちの子は普通じゃないんだ」と思うとやりきれない。
「じゃあ俺、出勤するから。陣のこと、よろしくね」
「うん……」
すれ違うように頼子は玄関に入って行き、バタンと扉を閉めた。
泣いたりわめいたりはしない。
どこかで諦めがある。
(仕方ないか。私もそうだったんだし)
頼子は陣の部屋を覗いた。
彼は鮫の抱き枕に顔をうずめ、何の心配もないという顔ですうすう眠っている。毎朝目覚まし時計を三個同時にかけたところで、その音すら気付かずに眠りこけている我が息子。夫婦で無理矢理立たせようとしても、ぐにゃりと床に沈み込んでしまう、そんな我が息子。
(ああ、かつての私にそっくりだわ)
頼子自身も、小学三年生あたりから起立性調節障害を患ったことがある。
(でも私は思春期に治ったから、陣もきっと大丈夫。今は様子を見るしかないか)
毎朝、こんな息子と格闘を続けているのだ。頼子は部屋の扉をそっと閉めると、自分の部屋に戻った。
四方を本棚に囲まれ、中央にデスクがある。
デスクの上には、タブレットとケント紙が混在していた。
「さーて。漫画、描くぞ!」
田中頼子は漫画家だった。少女漫画誌から20歳でデビューしてから約20年、漫画を描き続けているベテラン漫画家である。
雨貝頼子。それが彼女のペンネームだ。〝雨貝〟は旧姓でもある。
彼女は特にヒット作品を持ってはいなかったが、何度も連載を続けては完走し、締め切りも守るので継続的に仕事は舞い込んでいた。子どもが小さい内はアシスタントを入れず、長期連載作品は担当しないことにしており、最近はアンソロジーのような単発仕事のみを請け負っている。それでも電子漫画バブルのおかげでそれなりに稼げてはいる。
今日は婚約破棄アンソロジーの短編原稿を描くのだ。頼子は紙にペンで線を書いてからスキャナーで取り込み、そこからタブレットに切り替えてトーン貼りをして行くというスタイルで原稿を描いている。
夢中になってペンタブを動かしていると、携帯が鳴り響いた。
驚いて電話に出る。やばい、小学校からだ。
「もしもし、田中陣君の保護者様ですか?」
頼子は誰もいない壁に向かって頭を下げた。
「ああっ、ご連絡遅れましてすいません!陣は今日も起き上がれなくて……!」
「では、本日もお休みということでよろしいですか?」
「はい。すみません……!」
「分かりました。そんなに何度も謝らないで下さい、お母さんも大変でしょうから。それでは失礼します」
担任からの電話は切れた。
頼子はホッとしながら、またモヤモヤと朝の出来事を思い出す。
やはり教師はママさんへの解像度が高い。あの交通委員長とは大違いだ。
頼子はふと、自分の手を見る。
爪の間についたインクが、落ちていないままだ。頼子は美樹のことを思い浮べた。
「手は、見られてないよね……汚いって思われてたら嫌だな」
しかしああいう人に限って、他人の粗に目ざといものだ。
そこまで想像した時、頼子はふと頭の中の美樹が暴走するのを感じた。
「あっ!こういうの、マンガのキャラに使えるかも!悪役とか……ライバルでもいいかな?」
急に脳内にアイデアが溢れて止まらなくなる。新しい漫画のネタになるかもしれない。
「最近単発コミカライズばっかりで全然アイデアが湧いてこなかったから、ちょっと助かるぅ」
頼子はほんのちょっとだけ、美樹に感謝するのだった。




