なんでどうしてこうなった
「もしかしなくてもこれ、例の行方不明事件、よね……」
窓のない、カビ臭く薄暗い部屋で目覚めたオーロラは、今現在自分が置かれた状況を整理しようと記憶を辿った。
護衛の二人と離れ過ぎないように気をつけながら、秋の祝祭の市を見て回っていて、平民向けの装飾品の出店に目を止めて。オーロラが品物を見ている間、おそらく護衛たちは店とオーロラを背にして、周囲に危険がないかを警戒していてくれたはずだ。
そうしたら横から街の子どもに手を引かれすぐ後ろの露天商の前に連れていかれ、そこで何か薬を嗅がされた。おそらくは、気を失う前に見えたトランクの底の空間に押し込まれて運ばれたに違いない。それこそ瞬きを数回するほどの合間の、あっという間の出来事だった。
オーロラに声をかけてきた少年は、どこにでもいそうな街の子供に見えた。組織の子供が装っていたのか、もしかしたら本当に普通の街の子に狙いをつけた女性を路地に連れてくるようにだけ言って小銭を握らせたのかもしれない。子供はすぐに姿を消していたから、その後自分が手を引いた相手が攫われているなんて気づいていない可能性もある。すべては狙った人を痕跡を残さず素早く攫うために仕組まれていたと考えられた。
「いろいろありすぎてしんどい…」
オーロラはこのふた月の間に起きたことを振り返って思わずそう呟いた。
夏の終わりに、初めて会った大貴族と契約からの即結婚。
秋が終わる前には契約内容により婚家を出て、
恩師に叱られながら自分の気持ちをようやく受け入れた矢先、
街に出たら人身売買組織に拉致された、と。
「それにしても、しくじったなぁ………」
小さな子に手を引かれて護衛の傍を離れ路地に入るなど、自分の警戒心の無さにオーロラは情けなくなる。
「また先生に怒られる……とか言ってる場合じゃないよね」
窓がない部屋なため、あれからどれほど時間が経過したかはわからない。
拉致自体は気づかれないほど一瞬だったが、ワイスナー家の護衛たちが、姿が見えなくなったオーロラを探してくれているはずだ。
それに、出掛けにマーガレット夫人に持たされたものは、共鳴して位置情報を通知する装身具型魔道具だ。通称“鈴”。オーロラが身につける子機は実際には鳴りはしないが、親機側で位置情報を取る際に、子機の発する固有魔力信号を感知して、その方向を音の大小で知らせる。その音が鈴鳴りに似ているのでそう呼ばれている。
指輪や耳飾りなどの目につく装身具では、高価かもしれないと考えた悪漢に奪われる可能性があるので、目に付きにくい服の下、二の腕に装着するタイプの物を学院生時代に持たされていた。幼い頃に拉致未遂があったことから、オーロラ本人とバーリエ伯爵夫妻の安心のためにとマーガレット夫人が用意してくれたものだ。オーロラの学院卒業からもう数年経ったのに大切にしまっておいてくれたらしい。後ろ手に縛られた腕を動かし、上着とブラウスに隠された二の腕にそれの感触があるのを確かめる。友人の娘にすぎない自分をまるで身内のように大事にしてくれる夫人に、オーロラはあらためて感謝した。
この“鈴”があれば、きっと居場所を見つけてくれるはず。
(落ち着け、不安がるな)
オーロラはあらためて自分自身の状態と、今いる場所の状況を観察した。
手は後ろで縛られていて動かせないが、幸い痛くて堪らないほどではない。
扉の外に人の気配はするが室内にいるのはオーロラだけ。
窓の無い部屋、扉は一か所のみ。けれどノブがないから、内側から開けられないようになっているようだ。
部屋の隅にはいくつか木箱が積み上げられ、壁にオイルランプが下げられ室内をかろうじて照らしているが、他には特に何もない。
(今できることは、信じてじっと待つことだけのようね)
オーロラはため息をつき、ランプに照らされた黒っぽい天井を見上げて考えた。
こんなことなら、おとなしくワイスナー家のタウンハウスにじっとしていればよかっただろうか。
それとも、あの日、マシューが引き止めるのに頷いて侯爵邸を出なければよかったのか。
そもそも、ミハイルと会わなければ、もしくは契約結婚に同意しなければ………
「それは、なかったことにはしたくないな…」
思わず口からでた呟きに、オーロラ自身少し驚きながらもきっとこれが自分の本心であると納得した。
もしも時間を巻き戻せたとしても侯爵家の皆に、何よりミハイルに会わなかった時点まで、戻るのはしたくなかった。
でも、本物が現れた以上、さっさと退場するというのが二人の間の契約だ。そうしてくれと頼んだのは、オーロラ自身だから。
本物がいるから、もう自分は必要ないから。
『しかるべき時にはさらっと離婚したい』
ミハイルにそう言われたのは、出会った直後のこと。
「今はもう、ずいぶん昔に思えるけれど」
あれから二人の関係は変わってはきていたけれど、契約は有効なまま。
だからそれに従い、オーロラはすぐさま退場した。
あの日、アウローラ嬢はオーロラを蔑むような目で見ながら『偽物』と呼んだ。
『君はもう必要ない』
脳内で、あの時のアウローラ嬢の表情と似た冷たい目のミハイルがそう告げ、オーロラは頭を振って自分の想像を追い払った。
(駄目ね、こんな状況じゃ悪い考えばかりが浮かんでしまうわ……)
――ガチッ――ギィィ
そのとき、古い木の扉の開く不快な音とともに、一つしかない戸口から二人の人物が姿を現した。
一人は何かを載せた盆を手に持った、少年の域を脱したばかりに見える若い男。もう一人は、杖を突き片脚を引き摺るようにした、貴族風な身なりをだいぶ気崩した格好の初老の男だった。
《最後の最後にえらい別嬪を見つけたもんだな》
《平民にしちゃ、綺麗な金髪ですね、お頭》
聞き慣れた北大陸公用語ではない言葉で、彼らは喋っていた。
(マルンス語……にしてもだいぶ訛ってる)
東海の人身売買組織、とオーブリーが言っていたのを思い出すと共に、別の記憶がオーロラの中に鮮明に甦った。
(あの……声は…)
杖を突いた男の濁声に、聞き覚えがあった。
そして、床に蹲っているオーロラの前まで近づいてきたその男を、下から見上げたときに見えたもの。
(あの、顎に三つ並んだ黒子は………)
幼い頃、小さかったオーロラの手を無理矢理引いた男の顎にも、同じ黒子が並んでいた。そして当時は意味がわからなかったマルンス語の話し声。
《ほう、お前、昔俺が捕まえ損ねた娘によく似てやがるな。
金髪の色味と、珍しい眼の色がよ》
舐めまわさされるような視線と恐怖に耐えかね、オーロラは男から顔を背けた。
《あん時ぁギリギリ逃したんだったな、勿体ねぇことをした。あんくらいの歳の娘ならだいぶ高く買う奴らがいただろうがな。
まあ、お前くらいの器量なら、いくらでも買い手は付くだろう》
(間違いない………あの時、私を拐おうとした男だわ……!)
震えるオーロラの横の床に、若い方の男が持ってきた盆を置く。暗くてわかりにくいがあまり清潔には見えない水と、パンがひとつ載っていた。
《食うか? 食う間は外してやるけど………つっても言葉わかんないか》
マルンス語で言いながら身振りで説明してきた。
手の縄は外してもらいたいが、何かを口にする気にはなれない。それに手が自由になったところで、扉の向こうに何があるのかもわからないまま男二人相手に隙をついて逃げるのは無理だろう。
そう判断し、オーロラが顔を背けたままにしていると、若い男はやれやれといった様子で後ろでオーロラを縛っている縄の状態を確認した。
《白い手が痛くなって可哀想そうだから、あんまり強く結べなかったんだよなァ。
まあ、お嬢さんの力じゃどうすることも出来ねぇくらいにはしてあっけどな》
ぶつぶつとマルンス語で呟いた男が立ち上がった。
《こいつが王都での最後の獲物っすか?》
《ああ、王都の連中は警戒心が薄くて良い狩場だったが、騎士団からふれが出てからは仕事がやり難くなった。最近は街中にもあちこち騎士が立ってやがる。
潮時だな》
どうやら、組織が王都から手を引こうとしていた矢先、最後の獲物としてオーロラは狙われてしまったらしい。
なんてことかしら、とオーロラが思ったとき、また別の話し声が近づいてきた。
「ねぇ、若い男はいないのぉ?」
「そう言われやしてもお嬢、男は細く見えても力があることもあって、抵抗されると面倒なんで難しいんでさ」
「つまらないわね」
コツコツと、石の床を硬い靴が踏む音と共に、聞き覚えがある若い女性の声がした。
軋んだ音とともに再び扉が開き、場違い極まりない美しいドレス姿の令嬢が靴音高く入ってきた。
暗がりの中、オイルランプの明かりの下に入ってきた令嬢の顔を見たオーロラは、信じられない思いで目を瞠った。
「暇つぶしに寄ってみたら、私とよく似た金髪碧眼の娘が入ってるって聞いて見に来たんだけど。
まさか貴女だったとはねぇ」
オーロラによく似た色の豊かな金髪を揺らしながらそう言ったのは、ほんの少し前に会ったばかりの令嬢だった。
「変なところで会うわね、ニセモノさん」




